第30話 眠れぬ夜に

 久々の眠れぬ夜だった。

 いくら先に寝ろと言ってもずっと一緒に居ます、としがみついて言い張る彼女だったが、さすがに疲れていたのだろう。腕の中に抱きしめると、すぐに眠りに落ちてしまった。

 彼女を寝室に運び終えると、どっと体が重くなった。理性の限界を試された感じだった。ぎりぎりでの勝利だが、次は危ない。


 庭に出ると、酔いつぶれた船員がごろごろとそこら中に転がっている。転がしておいてくれとレイラには告げていたが、本当に実行してしまうところがすごいと笑みが漏れる。

 ブラッドは石造りの門から出ると、階段に座って海を見つめる。紫がかった空の下、黒い水の中央で月が泳いでいる。そこだけがぼうっと明るい。見ていると、それはアンジェラの顔と重なった。

 ふと妙に懐かしい気配を感じ、ブラッドは思わず目を見張る。


「な――さっき、眠ったはずじゃ……」


 ふんわりと月の光をまとったアンジェラがそこにはいた。だが、先ほどとはまるで表情が違う。みなぎる自信は彼女を別人に見せていた。

 既視感が頭をかすめ、ブラッドは顔をしかめる。


「お久しぶりね」


 女はブラッドに抱きついた。先程まで彼を追い詰めていた柔らかい身体だ。だが、不思議なくらいにブラッドの体は冷めたままだった。


「……できれば一生会いたくなかったが」

「150年ぶりだっていうのに、ほんと可愛くない人」

「降りたのか。どうやって」

「アンジェラが、開花したからよ」

「開花?」

「ええ。器がようやく育ったの」

「どういうことだ?」


 ブラッドは眉をひそめる。初耳だった。すると女はいたずらっぽく笑う。


「恋を知ったからよ。には、わたしは降りられないのよ」

「なんだと?」

「前の聖女だって、あなたのことを愛していたから、わたしが降りられたのに。あなたったら、頑なにおれのことを愛していないからって言い張って」

「おまえ……そんなこと一言も言わなかっただろう!?」

「そりゃあ、あんなにこっぴどく振られたら、わたしだってカッとなるわよ。だって女神よ? このフレイア様があなたを選ぶって言ってるのによ!? 断られるなんて想定外よ! 聖女だって愛してるから――なんて、すがるような真似出来るわけないじゃない!?」


 高飛車な女神は思い出したのか爆ぜたかのように怒り出す。

 呆然とする。だとすると、苦しみぬいたこの150年は一体何だったのだ。

 ――と思いかけたけれど、ブラッドはあることに気がついて眉間のしわを伸ばした。


(もし、150年前に《この女》を抱いていたら、そして力を手に入れていたら……おれはきっと力に溺れていた)


 そして、パーシヴァルやジョシュア、ジーン……船員たちや、アンジェラとも出会うことはなかっただろう。

 あの選択は、無駄では、なかった。きっと。

 そう噛み締めていると、女は立ち上がると妖しい笑みを浮かべ、「行きましょう?」とブラッドを屋内へと誘った。


「……なんだ?」

の解呪よ。わたしを抱けば、あなたは不眠の呪いから開放される。それだけじゃない。この世のすべてを手に入れられる力もあげるわ」


 つまり、部屋に誘っているということか。150年前のことだというのに、その記憶は薄れていなかった。苦笑いをするブラッドは首を横に振った。


「いや、呪いは解かないでいい」

「え?」


 アンジェラの顔をした女が、目を見開いた。かと思うと、みるみるうちに顔を赤くする。眉と目がギリギリと吊り上がる。ブラッドははっきりと言った。


、アンジェラは抱かない」

「あなた、何を言っているかわかっているの? あの子の呪いが効かなくなったってことは、あなたはまた眠れなくなるのよ?」

「わかってる。それでもだ。俺があいつに触れるのに、愛しているという理由以外はいらない」


 それに、いくら眠れなくなったとしても。


(もうおれは、ひとりじゃない)


 ブラッドはいつしか微笑んでいた。彼の本気を感じると女は面白いくらいに慌てた。餌を届きそうで届かない場所に吊り下げ続けて150年。ようやく手に入れたはずの獲物が、いざとなったら餌に食いつかないのだ。当然だろう。


「じゃ、じゃあ、不老不死は!?」

「不老不死なんて、150年もやってれば嫌になるに決まっているだろうが」


 それがわからないとは、もしかしたら女神の150年は一瞬なのかもしれない。ブラッドが呆れると女は更に泡を食う。


「で、でも。私なら、天候だって操れる。風向きを変えることだって出来るし、嵐を呼ぶことだって出来る――船を操って国を取り戻すためには最適な力よ。他にも、たいていの奇跡は起こす事のできる万能な力よ!? 欲しいでしょう!?」


 女は新しい餌を取り出した。だが、ブラッドは笑う。

 昔の自分だったら、その力を知ったら飛びついていただろうか。

 だが、ブラッドは、アンジェラをそんなにしたくない。眠りの呪い一つであれ程に自分を恐れていた彼女には、その力は重すぎる。

 もし女神フレイアを身におろしたならば、彼女は力を使おうとするのだろう。ブラッドのためにと、泣き笑いの顔で。

 その力は、きっとアンジェラを壊してしまう。


「おれはもう。それを使って国を取り戻して、皆の希望を叶えるだけだ。全てが終わったら、アンジェラや仲間とともに老いて、そして皆と同じように死ぬ。それがおれの唯一の野望だ」


 いつしか水に浮かんだ月は消え、水平線の向こうに膨らんだ太陽が登ってくる。


(ああ、夜明けだ。――さぁ、行こうか)


 こんな清々しい朝は初めてだった。

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