第25話 亡霊の名
「なんで、これが」
ブラッドは呆然と立ち尽くしていた。
「この方……あなたに、そっくりです」
顔を近づける。高名な画家が描いているのだろうか。まるで生きているかのような絵だった。
まとっているのは軍服だが、帝国兵のものとはデザインが違った。漆黒の艶のある生地に金の襟章や肩章が縫い付けられている。背には金の刺繍が入ったビロードのマント。
控えめではあるが、小さな宝石が耳を飾る。
眼帯は無い。黒の前髪は長く、片目を隠している。
だが、もう一つの赤い瞳がこちらを真っ直ぐに見つめてくる。だが、その力強さ、自信に満ち溢れた眼差しはブラッドそのものだと思えた。
ただ、今の彼とは、あまりにも印象が違う。
これはまるで──
「どういうこと、なのです?」
アンジェラは上ずりそうになる声で問いかけた。
肖像画など。
普通の人間がこのように描かれるわけがなかった。
「…………」
ブラッドは無言だった。
だがここは引く訳にはいかないと思った。じっと見つめていると、やがて観念したように彼は言った。
「たしか──十九の誕生日だったか。戦の最中で、すぐに船に戻らなければいけなくて、じっとしているのが億劫だった。不機嫌そうに見えるだろう? 画家も修正に大分苦労しただろう」
「これは、──いえ、あなたは一体」
ブラッドは深い溜め息を吐いた。
「俺は、俺の本当の名前はブラッドリー・レナルド・アーヴァイン・セヴァール」
「セヴァール……?」
どこかで聞いたことがある、と思って記憶を探ったアンジェラは、じわじわと目を開いた。
「それは」
王国の名を持つ人間の地位など数少ない。
ふいに思い出す。ジョシュアが話してくれた、古い《おとぎばなし》を。
『セヴァールは強力な海軍を持っていて、帝国は攻めあぐねていたんだ。だから内部から攻めた。当時海軍を指揮していた第二王子が遠征に出ている隙を突いて、王族を一掃したんだ』
あのとき、その第二王子がどうなったか、アンジェラは気にもしなかった。
けれど、ジョシュアはつづけて言ったのだ。
『女神フレイアは民の中から娘を選んで転生すると言われている。それが聖女。そして聖女が加護を与えて国を守るんだ。だけど……その聖女に転生したフレイアが、あのブラッドに一方的に惚れて、私を愛せって迫ったらしい』
あの話は、きっとつながっていた。わざとそうしたのかどうかは、ジョシュアに聞かなければわからないけれど。
「──亡国の、第二王子」
震える声でいうと、彼は小さく肩をすくめた。おどけた仕草だというのに、その表情はなんだか今にも泣きそうだった。
「当時、俺の任されていた艦隊は無敵だった。今思うと、調子に乗っていたんだろうな。女神の誘いを無下にして呪いを受けたのもあの頃だった。……だが、俺が海に出ている間に、家族は全部殺された。俺だけが、生き延びた。
──知ってるか? いくら強い船隊を持っていても、港を押さえられて補給ができなければ終わりなんだ。俺は、そのことに、あの時初めて気がついた。全部自分の力のように考えていた。青かった。遅かった。俺と、俺の船に乗っていた僅かな臣下だけが生き延びた。それから俺たちは帝国に追われ、世界中をさまよった。俺という存在が、亡霊になるまで、ずっと」
ブラッドは自分の肖像を睨みつけると、ぐっと眉を寄せた。
「……この時、俺は黙ってゆっくりと描かれてたらよかったんだ。そうしたら、城に残れた。……父上も、母上も、兄上も、妹たちも、それからセヴァールの民も──この手で守ることができたのに」
その顔には深い後悔が刻まれている。
国を、家族を失った悲しみが、彼を未だ蝕んでいるのがわかった。
(助けてあげたい)
力になってあげたいとアンジェラは強く願う。
だが、できない。なにも、できない。
彼の背負うものは、アンジェラの想像以上に大きく、重いものだった。
そっと手を伸ばしかけたアンジェラは、泣きたくなった。今、この手で触れても、彼を眠らせるだけ。優しく撫でて、慰めることさえ、できない。
下ろした手を握りしめると、爪が手のひらに食い込んだ。
(あぁ、……どうして、わたしには、力がないんだろう。どうして聖女じゃないんだろう)
アンジェラは肖像を静かに見つめ続けるブラッドに、掛ける言葉の一つも、今は見つけることができなかった。
**
(ねむれな、かった)
朝もやの残る中庭でアンジェラは一人歩く。
結局ブラッドはあのまま部屋に戻らなかった。眠らないとしても、少しでも横になったほうがいいと言ってみたけれど、頑として動かず、お前は部屋に戻れの一点張り。
一人になりたいという無言の圧を感じ取り、仕方なく部屋に戻ったものの、一睡もできないまま夜が明けてしまった。
そして、頭をすっきりさせたくて庭に出てきたというわけだった。
朝の修道院はすでに目覚めの時間だった。夜明けとともに起きるのはどの修道院も同じなのだろう。ベッドの軋む音、椅子を引く音、扉を開ける音。生活音がどこからともなく聞こえてきた。
懐かしくなると口から飛び出すのは、日課にしていた歌だった。
「時を超え また逢い見る日まで
日よ 空よ 風よ 海よ 守り慈しみたまえ──」
少し不思議な旋律は心に、体に、染みていく。
だが、近くの扉が勢いよく開き、血相を変えた修道女が飛び出してきた。昨日、アンジェラたちを出迎えてくれた、院長だ。
聖女のような微笑みはどこへ行ったのか、まるで別人のような、厳しい表情をしていた。
ぎょっとしながらも挨拶をする。
「──あ、おはようございます」
「おはようではないでしょう! 何を、そんな大きな声で!」
「え?」
きょとんとするアンジェラを、眉を吊り上げた院長は小声で叱りつけた。
「異教の歌など、ここで歌ってはだめです。帝国兵がやってきたらどうしてくれるのです!?」
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