第24話 彼が眠りたくない訳
「そう、あなたが、アンジェラ、なの」
院長はそう言って、目をうるませた。
アンジェラのいた修道院の院長──レイラと言ったか──は、アンジェラが来たら保護を頼むとだけ伝えていたそうだ。そして修道女たちは、その頼みをなんの疑いもなく受け入れている。詳しく事情を尋ねることもなかった。
困っている人間がいれば助ける、そういう教えが浸透しているからなのか。ブラッドはかすかな違和感を抱えつつも、助かったと思う。
パンとぶどう酒という食事を済ませると、修道女が二人を部屋に案内した。
「こちらをお使いください」
そう言って修道女が部屋の扉を閉じる。足音が遠ざかるのを確認したブラッドは頭巾を取ると髪の毛に指を入れ、軽く整えた。
二人にあてがわれた部屋は一つだった。
客室ではなく、おそらくは他の修道女が使う部屋と同じ。
質素だが清潔感だけはあった。
船長室とさほど変わらないはずだが、二つあるベッドがそれぞれ部屋の壁に付けて置かれているため、ずいぶん窮屈に思えた。
贅沢は言えないと思いつつ、ブラッドは小さくため息をつく。どうしようもない居心地の悪さを感じたのだ。
アンジェラと一つの部屋で眠ること自体は慣れていたはず。それどころか、一緒に眠っていたのだ。原因を探ったブラッドははっとした。
(──あの時から、か)
泣き笑いの表情が、眼裏に焼き付いたまま。それを思い出すたび、体の奥でくすぶるものがある。
「……少し眠りますか?」
アンジェラはどことなく気まずそうに問いかける。
ブラッドの体質を知っている人間はしない質問だが、アンジェラだけは特別だ。彼を眠らせることができる唯一の人間なのだから。
そして、気まずそうなのは、彼女が未だブラッドを眠らせることができるから、なのだろう。
(……『愛してる』か)
彼女はブラッドを愛していると言った。だが、それは同情かそれか友情か。そういった感情のことだったらしい。
それを証明するかのように、ブラッドは眠りに落ちた。
つまり、彼女に触れて眠れている間は、彼女はブラッドを愛してはいないということ。そのことをアンジェラは申し訳ないと思っているのだ。
大事に思ってくれていることは、充分伝わっている。それが、男女間の『愛』ではないだけで『愛』には変わりない。だから彼女が気に病むことはない。なにも、ない。
(……?)
事実を整理し、確認しただけだった。
だというのに、じくり、と胸に傷がついた気がして、ブラッドは息を呑んだ。
*
疲れの見えるブラッドに眠るかどうか尋ねたが、答えは、
「眠りたくない」
だった。
アンジェラの申し出で傷ついたような顔を一瞬見せたブラッドに、アンジェラは護送船の中での出来事をと思いだして、申し訳なく思った。
あれは、ブラッドへの愛が偽りであると、自ら証明してしまったようなものだったからだ。
嘘を吐いたつもりはまったくない。
アンジェラは、ブラッドを大切に思っている。だけど、きっとそれだけでは足りないのだ。
あのときから暇さえあれば考えた。だけど、足りないものを、アンジェラはまだ見つけられないでいた。
「でも……すこし休んでいたほうがいいと思うんですけど。いつまた帝国兵が現れるかわからないんですし」
だから、枕になります。そう言って両手を差し伸べると、ブラッドは怯んだ。
「眠りたくないと言っただろう。──俺は平気だ。休むならお前だけ休め。……散歩に行ってくる」
ブラッドはそう言うと頭巾を深くかぶり直して、ふらりと外に出ていく。だけど、彼を一人で行かせるのはだめだ。男性だとバレたら大騒ぎになってしまうし。
アンジェラは彼のあとを追いかけた。
真夜中の修道院は静まり返っていた。出入り口にオイルランプが一つだけ灯っている。橙色の目印の隣を横切ると、獣脂の臭いがかすかに漂った。
足音を立てないように、アンジェラは小走りでブラッドの後ろを歩く。彼はアンジェラに気づくと大きなため息を吐いたけれど、追い払いはしなかった。
こじんまりとした中庭の芝を踏むと、さくりと小気味の良い音がした。足元には影。空を見上げると、半分の月。その光を蓄えた小さな噴水が、かすかな水音を立てる。さらさらという音は夜の闇に溶けていく。
無言のままアンジェラは彼についていく。沈黙が少し重たくなり、アンジェラは話題を探して口を開いた。
「……船のみんな、今頃どこにいるんでしょうか」
「無事に逃げて新しい獲物を見つけてるに決まってる。ああ見えて百戦錬磨なんだよ、あいつらは」
「でも船長は必要です」
「役割は分担できている。船長なんて、行き先を決めるだけだ」
「……」
じゃあ、ひょっとしたら行き先がわからずにいるのでは? アンジェラは思ったけれど言わなかった。──言えなかった。
いつしかブラッドが遠くを見つめ、苦しげな目をしていたから。
「パーシヴァルがいれば、大抵のことはなんとかなる。俺なんかより、船の扱いが上手いんだ」
「そうなんですか?」
「あいつが船に乗ったのはもう三十年も前だ。あいつの父親が連れてきた」
「三十年……」
ブラッドの外見は多く歳を見積もっても二十代前半。どの差異が、彼にかけられた呪いを物語っていた。
それ以上何も言えずにいたけれど、ブラッドはそのまま話を続けた。
「……あいつの祖父も船に乗ってたんだが、代々、堅物で融通がきかなくてな。パーシヴァルは特に呑み込みが悪かったが、タフで、真面目で、淡々と繰り返して覚えていたな」
ブラッドの口から船員の話が出るのは初めてかもしれない。もっと聞きたいとアンジェラは問いかける。
「ジョシュアさんは?」
「……あいつは……海賊船でこき使われてたのを引き取った。ガリガリに痩せてて、目ばっかりギラギラしてて。たらふく食わせたら、猫みたいになついてしまったな。……だけど、今じゃあ、世界中の料理を作ってみんなにたらふく食わせてる」
それはきっと彼なりの恩返しなのだろう。
船の皆の素顔が見えるに従い、一つの確信がアンジェラの胸を覆っていく。
「じゃあ……ジーンは?」
苦しげに眉を寄せる。きっと彼の裏切りを思い出したのだろう。
「あいつは赤ん坊のときに、港街に置き去りにされてたんだ。それをみんなで育てて。女手がなかったから、ずいぶん苦労した。よく病気をするやつで……」
聞いたアンジェラは目を見開いた。
「じゃあ、ジーンは寂しかったんですね、きっと! 私なんかが特別扱いされたから……ほら、妹とか生まれると、上の子は嫉妬するものだっていいます。あぁ、だから、あんなふうに絡んできたんですね……」
あれは、親を奪われたような気持ちになっていたからなのか。なるほど。
すとんと腑に落ちる。だが、今更わかっても仕方がない。会えなければ、文句さえ言えないのだから。
「…………妹? いや、あれはむしろ……」
「え? 何です?」
「……いや、なんでも、ない」
ブラッドは「俺も、人のことは言えないか」とつぶやく。
答えて貰えそうにないのは不満だった。だけど、その顔からは先程まで貼り付いていた陰が消えていた。代わりに懐かしさが滲んでいる。
アンジェラは確信を口にした。
「ブラッド。あなた、やっぱりあの人たちのこと、大好きなんですね。そして彼らもあなたが大好きなんです」
「……気色悪いことを言うな」
ブラッドは口を僅かに尖らせた。表情を見るに、頬が僅かに赤らんでいるように思えたけれど、この暗さではよくわからないのが残念だ。
(なんだか、かわいい)
アンジェラはふふ、と小さく笑う。するとブラッドは小さく舌打ちをしたあと、空を見上げ、ため息を吐いた。
短い沈黙の後。彼はかすれた声で言った。
「好きとか、そんなんじゃない。あいつらは、俺に、夢を見ているだけだ」
「……ゆめ?」
「だけど、俺は、その夢をどうやって叶えてやればいいか……わからない。あんな小さな船で、あの大きな敵にどうやって歯向かえばいいか、全くわからないんだ」
「敵?」
「つまり、俺は臆病者だってことだ」
それだけ言って彼は再び歩き出した。
(どういう、意味?)
橙色のオイルランプを目印に建物に入ったところでブラッドはふと足を止めた。
外に出るときには気づかなかったけれど、小さな炎でぼんやりと照らされた廊下の奥には肖像がひっそりとかけられていた。
アンジェラはその姿を見て、目を見開いた。
描かれていたのは、ブラッドその人だったのだ。
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