第22話 脱出作戦

 どれだけ時間が経っただろうか。

 小窓から見ると、いつの間にかしらじらと夜が明けてはじめていた。


 どうやって逃げればいいのか。

 どうやって彼の心を救えばいいのか。


 ぐるぐると浮かんでは淀み溜まっていく悩み事を少しも消化することができないまま、アンジェラはいつの間にかまどろんでいた。

 いくつか悪夢を見た気もする。全身が冷や汗でびっしょりだった。

 膝を抱えて顔を埋めたままだったアンジェラは、小さな声に目を開ける。


「パーシヴァル、ジョシュア──」


 苦しげな表情が薄暗い部屋に浮かび上がる。


「置いていくな──おれを……もう、置いていかれるのは、まっぴらだ」


 押し殺すような、切なげな声が漏れ、アンジェラは泣きたくなる。


(だからなのね)


 彼は彼が言うように、仮初めの関係を保つため、必死で壁を作り続けていたのだろう。先に逝ってしまう者たちにけっしてほだされないように。愛してしまわないように。

 だけど、本来の彼がそうさせなかった。見ていればわかる。情に厚いのだ。きっととても。

 そんな彼が親しい者を見送るのはどれだけ辛かっただろうと思うと、身が切れるような思いがした。

 同時に自分の浅はかさに嫌気がさしてくる。彼がなぜ祝いを呪いと呼ぶのか。どれだけ呪いを厭うているのか、まったく理解していなかった。疎いにもほどがある。


(……落ちこんでいる場合じゃないわ)


 アンジェラは顔を上げた。

 だってアンジェラは確信している。仲間がブラッドを助けにきてくれると。彼らがブラッドを慕っているということを。

 そしてブラッドも口ではあんなことを言いつつも、仲間たちに未練を抱えている。

 このまま終わらせるわけにはいかない。

 

(逃げないと。だけどどうやって?)


 アンジェラは考える。

 そしてふと、深い眠りについたままのブラッドを見つめる。


(この人が起きるまで、あと少し)


 アンジェラに触れて彼が眠るのは、たいていが半日くらいだった。

 丸窓から外を見ると、陸地が見える。おそらく、港まで距離はない。帝都についてしまえばアンジェラの命はないし、ブラッドもただではすまないだろう。

 時間がない。

 自分ができることなど限られている。使えるものは全て使うつもりでいなければ、きっと切り抜けられない。

 計画を思い浮かべると、胸がざわざわと騒ぐ。

 怖い、やめようと臆病な自分が訴える。


(でも、それしか方法はないでしょ?)


 大きく深呼吸をすると、アンジェラは腹を決めようと、拳を握りしめた。



 *



「あのっ……」


 女が声を上げたのは昼過ぎだった。

 見張りを任されていた男は、寄りかかっていた壁から背を離して立ち上がる。聖女だという女と、死にかけた男を見張るという、退屈な仕事だった。

 女だとしても手を出せない女。女神信仰の象徴である聖女。救世主となり亡国を再興させるという、与太話を恐れる皇帝をなだめるために引き渡すのだ。

 これまでにも何人も犠牲者が出たが、十五年前のような大虐殺をされるよりはマシだと思っている。火の粉が自分にかかるのが嫌だと、皆思っているのだ。

 気の毒な女だと思うと、女に飢えていても手が伸びない。


(まぁ、修道女ってのもな、興が削がれる)


 頭から足先まで黒い服に全身を包んでいるせいで、体の線もよくわからない。女を感じさせないのは、俗世を捨てた女に乱暴を働かせないようにするためのものなのか。


 小窓を覗き込むと、女と目が合った。女は被っていたフードを取り払っていた。薄暗い部屋の中で長い銀髪が虹色にきらめいた。


(は、なんだ、この……女)


 前見たときとは違い、色香が漂ってくる。どきりとして目をそらす。フードは男の顔にかけられていた。


「あの、この人、死んだみたいなんで……埋葬をしていただけたらと」


 涙声。怯えているのだろうか。それとも、本当に悲しんでいるのだろうか。


(たしか、誘拐されたとか、聞いた気が……)


 考えようとするけれど、男はその表情に釘付けになる。

 気の毒な女だと、興が削がれると、思っていたはずなのに。

 男は気がつくと扉の鍵を開けていた。


「死んだって?」


 女が頷く。悲しそうにはらはらと涙をこぼす女がこちらを見上げ、そして、男に手を伸ばした。



 *



(こ、こ、怖かった……)


 自分から触れて眠らせるのには慣れていない。

 まだ心臓がうるさい。触れた途端にばたりと倒れる人を見るのは、たとえ死なないと知っていても、自分たちを囚えている人間だとしても、恐ろしいのだ。


(でも、うまくいってよかった)


 うまくいくかは賭けだった。見張りはブラッドが死んだら捨てると言っていた。捨てるときには扉を開けるだろうという予測だけで、計画を実行に移したのだ。

 隙を見て『眠らせよう』と考えていたけれど、あの熱っぽい視線は一体なんだったのだろう。おかげであっさりと見張りが消えた。


(そういえば……最初に海賊船に乗ったとき……)


 思い出したアンジェラは、次の計画を思いつき、小さく頷く。男にむしろをかけて部屋の隅へと避けておくと、そっと部屋を抜け出した。



 *



「なんなんだ、これは」


 目を覚ましたブラッドが部屋の外に出ると、帝国兵がことごとく倒されていた。しかし苦悶の表情を浮かべているものは一人もいない。すべてが幸せそうに眠りについていたのだった。


「……どうやった?」


 犯人は分かりきっている。だがその方法を想像したブラッドは嫌な予感がして仕方がなかった。

 たとえあの強烈な呪いがあろうとも、非力な少女に過ぎない。狼の群れに羊を投げ込むようなものなのだ。弱点だってある。どういうわけか、は彼女の貞操を守るためのもの。命を守るためには別の手段が必要だ。

 帝国兵はアンジェラの呪いについて知っていたはず。警戒だってするだろう。

 だというのに、行く先々で兵が倒れている。嫌な予感は増していく。全滅だろうかと思ったときだった。

 船長室で声がした。


「修道女が男を色香で惑わすのか? 聖女だと聞いたが、魔女の間違いではないのかな」


 嘲るような声だった。

 そっと覗き込むと、部屋の中にいるのは、あのとき仕切っていた赤マントを身につけた帝国兵だった。


「色香? 惑わす……?」

「だが俺は惑わされんぞ」


 兜を脱いだ頭以外、全身を鎧に包まれた彼は、ゆっくりと剣を構える。


「最悪、生死は問わないと命じられているのだから」


 アンジェラは固まっている。場慣れしていないため、動きが取れないのだろう。

 男が剣を振り下ろそうとした。ブラッドは思わずアンジェラの前に飛び込んだ。

 背中に熱が走った。焼けるような強烈な痛みが全身に伝わる。


 だがそれも一瞬のこと。傷はすぐさま修復を始める。普通の人間ならば塞がるのに二週間かかるような傷も、おそらく一秒もかからずに塞がるのだ。

 だからどんな傷も致命傷にはならない。ただ、傷を受けた時の痛みだけは避けることはできない。傷は体には残らないけれども、心には傷がつき続けている。

 またか、と思いながらも、やはりとっさに痛みを厭う。積み重なった傷はいつの間にか深くなっている。


(そういえば)


 そのことに初めて触れたのは、アンジェラだったと思い出す。


「おま、え、なんでまだ生きている!? 急所に当たったはずだし出血もかなりのものだった──」


 男が驚愕の声を上げ、ブラッドは我に返った。


「まさか。でもあれは単なるおとぎ話で──」


 更に男はつぶやくと、蒼白になる。


「おとぎ話が何かは知らないが……俺は、なかなか、

「ブラッド!」


 アンジェラが固まった男に体当たりをする。彼がバランスを崩したのを見計らい、唯一むき出しになっていた男の顔に触れると、男は一気に崩れ落ちた。

 最後の兵が倒れ、船には静寂が広がった。


「だ、大丈夫!?」

「大丈夫だと知っているだろうが」


 アンジェラは血相を変えてブラッドに駆け寄ってきたけれど、呪いを思い出したのか、ブラッドに触れる寸前で手を止めた。

 そしてそのままその小さな手で自分の顔を覆う。


「よ……よかった」


 囁いたアンジェラは、しばし顔を手で覆っていた。やがて、顔を見せるとその目からはらはらと涙がこぼれはじめて、ブラッドはぎょっとする。


「こ、こわかった……。眠るだけだって、自分に言い聞かせてたけど、やっぱり、人が倒れていくのは怖かった……」


 ブラッドはこの、悩みの一つもなさそうな──能天気そうな娘が心に大きな傷を抱えていたことに今更ながら気がついた。

 触れた者が眠ってしまう。しかも数日起きない。ブラッドにとってはある意味薬のような効能だったけれども、薬は毒にもなる。

 自らを毒薬のように思っていたのだろうと考えると痛ましい。

 ブラッドど同じく、ずいぶんなトラウマ持ちなのだ。


「少しは、お役に立てましたか?」

「……あぁ」


 ふるふると震えながら見上げてくる様は、うさぎのように思える。無性になでたくなったブラッドはその衝動に戸惑う。


「よかった」


 アンジェラは、涙目のままホッとしたように微笑む。とたん、体の底から熱い感情の塊が突き上げてくる。


 怖いのを必死で我慢して、男たちを眠らせて回ったというのだろうか。自分のために? あんなふうにひどく詰ったというのに?


 思わずアンジェラの頬に手を伸ばそうとしたブラッドは、「どうしたんですか!? 眠ってしまいますよ!?」とアンジェラが慌てて身を引いたため、すんでのところで手をとめた。


 そうだ。今は、眠るわけにはいかない。アンジェラが創り出してくれた、この状況を無駄にするわけにはいかなかった。


 微かに頭を振って衝動を振り切る。止めた手を握りしめると、キョトンとした様子のアンジェラに向かって言う。


「とりあえず逃げるぞ」

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