第21話 これまでも、これからも

 アンジェラとブラッドは船に載せられた後、薄暗い部屋に閉じ込められた。窓はあるけれど、いつのまにか日が暮れて外は真っ暗だった。灯りはもらえず、廊下の光がわずかに漏れるだけの暗い部屋。海面が近いせいか、湿気はひどく、饐えた臭いが漂っている。

 扉に付けられた小窓が開き、食事がろうそくと一緒に差し出された。闇に慣れた目には小さな灯りが妙に眩しく感じられる。

 受け取りながら尋ねる。


「あの、この船はどこへいくんです?」


 見張りは交代制らしい。これで三度目の食事だけれど、かけられた声がすべて違っていた。


「帝都だよ」


 男が覗き込んだ。薄い笑いを浮かべているが、初めて会話が成立したことで希望が生まれた。


「あの……私、聖女じゃないんです。ですから、ここから出していただきたいんです」


 あれから何度も訴えたけれど、一度も話を聞いてもらえなかった。信じてもらえないのがもどかしいけれど、やはり証明する手段がない。


「へえ」


 男も今までと同じ。小馬鹿にしたような顔をして、小窓を閉じようとする。


「お願いです。聞いてください。私が聖女じゃなかったら、あなたたちは罰せられるのではないのですか?」


 男は笑った。


「罰せられるどころか、褒美をもらえる。俺たちは別にいいんだよ、聖女が誰でも。疑わしい奴がいたら捕まえて連れていくだけ。皇帝がまたをしないようにするための生贄なんだから」


 誰でもいいという言葉にゾッとする。だが、そうかもしれないとも思った。大勢殺されるより、一人で済むほうがいいと思うのが自然だ。その大勢の中に自分にちかしい人間がいるのならなおさら。


(だけど……生贄って……今のこの世の中で?)


 神に仕える修道院でも、生きた動物をにえに捧げることなどしないというのに。人である皇帝の機嫌を取るために、生きた人間を捧げている。それは、国として、本当に正しい姿なのだろうか?

 ひどい歪みを感じ、吐き気がする。

 男はアンジェラから視線を外すと言った。


「……あぁ、そっちのはもうだめだろ。死んだら海に捨てるから、言えよ」


 ろうそくをかざす。ブラッドはまだ眠ったままだった。牢に入れられた後、背に刺さっていた矢を恐る恐る抜いたら、傷はみるみるうちにふさがっていった。だから、今はただ深く眠っているだけ。

 だが、兵たちはそのことをまだ知らない。知られないほうが良いだろうと思った。


  小窓が閉じると、部屋は静まり返った。

 窓を覗くが、新月だろうか。月は見えない。星明かりは頼りなかった。

 うつらうつらしかけていたところ、小さなうめき声が上がり、アンジェラはハッとした。


「ここ、は……」


 乾いた声がした。暗がりの中、大きな影が起き上がる。


「帝都への護送船みたい」


 ブラッドは舌打ちした。


「なんでここにいる。なんで逃げなかった?」

「あなただけ置いて逃げられません」

「俺は、お前を誘拐したんだが? また忘れているのか?」

「それでもです。あなたたちはよくしてくれたもの。そんな恩知らずなことできない」

「お人好しもここまでくるとただのバカだ」

「そう……ね。私も馬鹿だと思う」


 そう言ってじっと見つめると、ブラッドがわずかに怯んだ。


「こんなことには慣れている。昔も一度捕まって徹底的に。でも無事だった」

「無事じゃないわ。だって、痛いのでしょう?」

「痛くない」

「でも、あなたは眠れずに苦しんでたくらいだもの。刺されて痛くないわけがない」

「……人のことより自分の心配をしろ。お前は殺されるぞ?」

「大丈夫。みんなが助けに来ます──といっても、あなたを助けに、だけど」

「来ない。来るなと言った」

「いいえ。来ます」


 断言すると、それは確信に変わった。だって、皆は、ブラッドを慕っていた。

 希望がアンジェラを勇気づける。だが、ブラッドは呆れたようなため息を吐いた。


「来ない。俺がいなくても、あいつらは生きていける」


 切り捨てるような声だった。仲間をまるで信じていないような。


「なんでそんな冷たいことを言うの? ジーンがあんなふうに裏切ったから? だけど、ジーンがあんなことをしたのは、あなたと船を守りたかったからってわかっているんでしょう? だから咎めなかったんでしょう? ……それにあなただってあの人たちのことが好きだもの。だからあんな嵐の中でも一人で船と皆を守ったんじゃない。そんなあなただからみんなきっと」


 助けに。


「──黙れ」


 ブラッドの怒気を孕んだ声がアンジェラの言葉を遮った。低い声で部屋の空気が震え、アンジェラの体にもそれが伝わった。

 闇に慣れた目が、ブラッドの瞳を捉えた。その目にはたしかな寂寥がたゆたっていた。寂しい、と言っていた。


「お前に何がわかる」

「……わかりません。だけど、これだけはわかります。あなたはひとりぼっちじゃない。だから彼らはきっとあなたを助けに来る!」


 だからそんな悲しそうな目をしないで。

 彼を癒やしたいと、アンジェラは祈るような気持ちで言った。


「いいや。俺は、ずっと一人だ。これまでも、これからも、ずっと」


 理解を諦めたような、そんな、絶望の滲んだ声だった。


(あ……)


 アンジェラは自分の勘違いに気がついた。彼が仲間から愛されていないことを悲しんでいるのかと思っていた。ジーンに裏切られて傷ついているのかと。

 だけど違った。

 最初から誰も信じないことにしているのだ。何にも期待しないことにしているのだ。だから、今も腹を立てていない。


「……」


 言葉を失ったアンジェラに向かってブラッドは笑った。頼りない灯りで浮かび上がる顔は、今までに見たことのないくらいに卑屈な顔だった。


「どうした? 説教は終わりか?」

「せ、っきょうなんかじゃ……」


 恥ずかしくて消え入りたいような気分だった。理解していると勘違いして、見当違いな方法で慰めようとした。それが彼の傷を抉るとも知らずに。


「わたし、ただ、あなたの苦しみを、取り除きたくて」

「じゃあ、抱かせろよ。俺を救うにはそれしか方法は無い。俺を、心の底から受け入れろよ。そうしたら、お前の呪いは効かないとあの魔女が言っていた」

「心の底?」

「俺を愛せって言ってるんだよ」

「……意味、が、わからな……」


 愛という言葉は、修道院でもよく聞いた。隣人を愛しなさい、敵を愛しなさい。レイラはそう教えてくれた。誰かの幸せを願う、それが愛なのだと。

 だけど今、ブラッドが口にした愛というのは別物な気がした。


(私が、ブラッドを、愛する?)


 口の中でつぶやく。その響きは、アンジェラの顔をまたたく間に赤くした。


(え、え? なにこれ)


 アンジェラが戸惑っていると、ブラッドは低い声で笑った。


「無理だろ。──安い同情は迷惑だ。もう黙ってろ」


 ブラッドはそれっきり顔を背ける。そして船室の床に横になった。

 拒絶を受けて泣きたくなる。だけど、ここでこのまま諦めたくない。このままにしておけない。

 アンジェラは思わず叫んだ。


「安い同情なんかじゃない! 私、あなたのこと大事だって思ってるし、あ、愛してる、もの!」


(愛、してるもの。院長先生や、それから、ナタリアたちと同じくらい)


 食い下がりながらそう言い聞かせるけれど、なにかが違うと、もうひとりのアンジェラが心の中で叫んでいる。

 だって、院長先生やナタリアたちにはこんなふうにドキドキしない。胸が突然苦しくなったりしない。

 ブラッドは目を見開いた。


「……じゃあ証明してみろよ」


 彼はそのまま隣を手で軽く叩いた。そこに来いということだろう。

 バクバクと、今までになく暴れる心臓を押さえながら、アンジェラは彼の隣に座った。

 ブラッドは片手を床について起き上がり、まっすぐにアンジェラを見つめた。

 どこか苦しげな眼差しを見ると、とたん頭が真っ白になる。心臓が口から飛び出しそう。息ができなくて、苦しくてギュッと目をつぶる。


「アンジェラ」


 唇に彼の甘い声と息が触れるのがわかった。薄く目を開けるとブラッドが目を伏せ、顔を傾ける。


(な、なにを──)


 目を見開く。唇に唇が触れそうだ。急に怖くなって思わず逃げようとしたアンジェラの後頭部に、ブラッドが手を回した──直後、


「……ふ……そりゃ、そうだよ、な」


 ブラッドが僅かに笑った。


「……希望、なんか、持つんじゃ…………なかった」


 その時のブラッドの顔を、アンジェラは一生忘れられないのではないかと思った。

 感情が全て抜け落ちた、無の表情。


 頬をつ、としずくが伝った。それがブラッドのものなのか、自分のものなのかもわからない。

 どさり、と固く目を閉じて床に倒れ込むブラッドを前に、アンジェラはひざまずき、両手を胸の前で組む。

 そして呆然とつぶやいた。


「神様……愛って、なんですか。この人の幸せを願う──それだけじゃ……足りないんですか?」

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