第16話 海の青に洗われて
船が大きく傾き、波に呑まれた。
ブラッドの耳は次第に遠くなり、やがて音が消える。
視界は波で真っ白だった。もがいているとロープが手に触れる。手繰り寄せマストにしがみつくと、舵輪を探り当てる。
(まだだ! 持ち上げてみせる!)
高波に煽られマストが立ち上がった瞬間を捕えて舵を切る。ぐらりとメーンマストが起き上がり、船は大量の水を吐く。
雨と風は上から下から右から左から。さらにあらゆるところから波が押し寄せる。いくら海水を飲もうとも、意識は明瞭だった。
(今だけは、《呪い》に感謝してやってもいい)
ブラッドはもみくちゃにされながらも舵輪を手放さない。《これ》は自分以外の船員の命だ。絶対に手放さない。
(この船の上にある限り、手放して、たまるものか──)
白い嵐をブラッドは睨みつける。だが、──やがて、彼の視界は白く染まる。
*
ぎい、ぎい、と木の軋む音でアンジェラは目を覚ます。
船室は壁の一面が大きく大破していたが、その部分からギラギラとした陽の光が床を照らしていた。眩しさに慣れず、目を細めてあたりを見ると、アンジェラの周りを囲むようにしてジョシュアとパーシヴァル、それからジーンが倒れていた。
見ると彼らはアンジェラの体に巻かれたロープをそれぞれ掴んでいる。まるで流されそうになった彼女をつなぎとめようとしているかのようだった。
「!」
思わず起き上がって揺り起こそうとしたが、すんでのところで手を止める。触れない程度のところで手を止めると、全員息はあった。だが目を覚ます気配がまるでない。気を失っているか──それか……
(眠っている? もしかして、……私を守ろうとして?)
偶然触れただけかもしれない。だけど、アンジェラの直感は囁く。彼らは自分を助けようとしたのだと。考えると、なんだか涙が出そうになった。
アンジェラはそろりと足を床に下ろす。服はところどころ濡れたままだが、気温は上がっているからそれほど寒くなかった。
気持ちが逸り、扉をぶつかるようにして押し開ける。
陽の光をふんだんに含んだ海は、嵐が嘘だったみたいに凪いでいた。
甲板の上に置かれていた雑多な荷物は、綺麗さっぱり流されている。モップがけが必要ないくらいに洗い流された甲板の上に視線を流していると、たどりついた船首には黒い人影がぽつんと立っていた。
探していたものを見つけた気がして、胸がぎゅっと締め付けられる。
彼の黒い髪が、穏やかな風にゆるりとなびく。海を見つめる眼差しは驚くほどに柔らかい。赤く鋭い眼差しが、陽光に溶かされているようだ。
(……ああ、この人は)
海を愛し、そして、海に愛されているのかもしれない。
海の青に洗われたような佇まいから、なぜか目を離せずにいると、やがて彼がこちらを振り向いた。
「起きたのか」
「……無事、だったのですね」
なんだか鼻の奥がつんとした。ああ、生きていた。
「当たり前だ」
ブラッドは笑う。美しく誇り高い、自身に満ち溢れた笑みだった。
ホッとしたら力が抜ける。
「おい──」
彼が手を伸ばそうとしてアンジェラは「だめです」と苦笑いをした。
「だいじょうぶです、から」
その言葉でブラッドはアンジェラの呪いを思い出したようだった。わずかに気まずそうに髪をかきあげると、精悍な頬とどこか野性的な耳が顕になり、どきりとする。
「……あいつらはしばらく起きないかもな」
「申し訳ありません」
「別に責めてない。あいつらがしたいと思ってやったことだろう」
ブラッドは肩をすくめると、必要以上にきれいになった甲板を見渡した。
「全部流されたな」
「大丈夫なのですか? 食べ物とか……飲み物とか」
「なんとかなる──そろそろ仕事をしないとと思ってたところだからちょうどいい」
にやりと不敵に笑う。アンジェラがほっとしてつられて微笑むと、ブラッドは僅かに目を見張った。
そしてしばしまじまじとアンジェラを見つめたあと、突如気まずそうに目を逸らす。そして船室の方へと向かうのを見て、アンジェラははっとする。
「他の方は」
「さっき一通り見回ったら、全員なんとか生きてた」
その言い方に不安がよぎる。あの揺れだ。怪我をした人も多いかもしれない。
「……だ、大丈夫なんですか……?」
「海の男はそんなやわじゃない。お前がぴんぴんしているくらいだ。少し寝たらすぐ回復するさ」
そういうブラッドの顔には、一筋の疲れが張り付いている。
「あなたこそお休みになっては」
あの嵐の中に一人で残ったのだ。疲れないわけがない。今一番休養を必要としているのは間違いなく彼だ。
そう思ったとき、ふとアンジェラの脳裏にジョシュアの言葉がよぎった。
『あいつは、死なない』
(って……どういうこと?)
さらに意味ありげなお願いも思い出す。
(アイツと寝てやって……って)
首を傾げていると、
「休んでる暇はない。というかお前に休まされてばかりだから、しばらく寝なくても平気だ」
ブラッドは階段を飛び降りるとアンジェラを見上げた。そしていたずらを仕掛けるかのような笑みを浮かべた。
「俺はいいから、他の疲れてそうなやつを無理矢理にでも休ませてやってくれ。それこそ一週間くらいゆっくり寝たら誰でも元気になるだろう」
背を向けるブラッドからアンジェラはしばし目を離せなかった。そして気づく。これが見惚れる、ということなのかもしれない、と。
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