第10話 海賊船に響く歌
海賊船には似つかわしくない歌声が響いている。アンジェラが甲板にモップをかけながら歌っているのだ。
アンジェラはだんだん遠慮がなくなったのか、以前と比べて声量が徐々に増えている。
聞いたことのない変わった旋律だが、どこか懐かしい感じがする、不思議な歌だった。
声は流れる水のように柔らかく涼やかで耳障りがひどく良い。船員たちが密かに聞き惚れているのがわかる。ジョシュアもその一人だ。
じゃがいもの皮を剥く手を動かしながら、歌を聞く。心休まる時間だ。
唐突に歌声が途切れる。どうやらモップを絞るために一時歌をやめたらしい。なんだか残念な気分になったジョシュアは、アンジェラをふと見やった。
(あれ?)
彼女にはずいぶん見慣れたはずだったのだけれど、一瞬、別人に見えて驚く。
何度か瞬いたあと見ると、いつもの見慣れた彼女だった。
だけど何か引っかかる。気になった彼は注意深く観察する。
白金の髪、青い海の色の瞳。それ自体はさほど珍しいものではないが、潮風にさらされているはずなのに輝きは失われていない。
目鼻立ちは整っていて、顔立ちは華やかだ。そして体は娘らしい柔らかそうな曲線を描いている。男が奮い立つような、そんな体つきだと言っていい。
ジョシュアは目を見開く。
造作だけ見れば、確実に美人のはず。……だというのに、なぜだろう。全体の印象が薄く感じられるのは。
そういえば、内面に関してもだ。修道院で皆をかばった時に感じた鮮烈な印象が感じられない。
話をしてみると、案外意志のしっかりした娘だとわかるが、そういう個性のようなものが薄い。
まるで、隠されている、ように。
そういえば、最初に会ったときにも『曇らされている』──そういう印象を抱いたことを今になって思い出す。……なぜ忘れていたのだろう。
(皆は、気づいている?)
そう思った時、
「そもそも、アンジェラは本物の聖女なのか?」
船首で海を眺めていたブラッドがぽつり、と呟いた。
「……ねえ、今さらそれを言うわけ。あれだけ迫っておいて」
ジョシュアは吹き出した。とたんナイフが指の上を滑る。危ない。うっかり手をやってしまうところだった。
手に気を取られた瞬間、頭の中の明瞭だった部分が一気に曇った気がする。
(あれ、おれ今、何を考えていたっけ?)
考えても思い出せない。が……、違和感はすぐに小さくなり、やがて消えていった。
(うん、多分、そんなに大したことではない、はず)
ジョシュアはすぐに頭を切り替えた。
ここでこんな仕事をしているのには立派な理由がある。ブラッドの護衛だ。
ジョシュアはナイフを置くと、ため息をつく。
「まぁ、今までになく本物っぽかったから目がくらむのもわからないではないけど、もうちょっと前にその可能性を考えてたら、この間あんなに苦しまなくってすんだんじゃないの」
結局媚薬の効果はなかなか切れなかった。
ブラッドは起きるなりアンジェラに襲いかかったが、直後に撃沈した。それを三日繰り返し、最初怯えていたアンジェラも最後には呆れ果てていた。
そして副作用はそれだけではない。媚薬の効能をまとったブラッドのせいで、船員何人かが道ならぬ恋に落ちかけて、現在もまだ継続中。
だからブラッドは薬が切れるまで隔離されている。それをジョシュアが見張っているのだ。迷惑だ、とジョシュアは思うが、さすがにブラッドも懲りたらしい。次策が浮かぶまでと、あれ以来アンジェラに近づこうとしない。
ここ数日の騒動のせいで、船長の仕事が山積みだったのだ。それはそうだろう、今まで寝るかわりにやっていた仕事なのだ。半日寝るという、普通の人間と同じように過ごしてしまえば、仕事は終わらない。
『この辺には獲物がいません。そろそろ外海で《仕事》をしないと、船員たちが食いっぱぐれます。なんとかしてください』
高い声が聞こえて、そちらに目をやると、ジーンがアンジェラの歌声を気にもせずに口を尖らせてパーシヴァルに食ってかかっている。ジーンはパーシヴァルの補佐をしていて、食料の調達などは彼の仕事だ。おそらく現状に一番危機感を持っているはず。
(ああ、あれはちょっとストレス溜まってるなあ……アンジェラちゃんが気になってしょうがないんだろうけど……免疫ないからなあ)
火種があちこちに落ちているのがわかる。あとで話をしておかないと。
(だが、やっぱり優先順位は、ブラッドのこと、だけど)
ため息をついてジョシュアはブラッドを見た。
「あのさあ。そもそも、本物の聖女だったら自分を聖女とか言わないよね?」
ジョシュアが言うとブラッドが顔をしかめた。
「お前はどう思う?」
問いかけられてジョシュアは笑った。この船長は昔からこうやって部下の意見をしっかり聞く。ジョシュアが拾われて置いてもらった時からずっとそうだった。
偉くなると驕るのが人間だ。ブラッドは気が遠くなるくらいの時間を船長として過ごしたはずなのに、その部分はずっと変わらない。彼がこういう人間だからこそ……皆、夢を見るのだろう。
ジョシュアはちらりとパーシヴァルを見た。彼はジーンの言葉を聞き流して目をつぶっている。再び始まったアンジェラの歌に聞き入っているのだろう。
「可能性がないわけじゃないと思ってる。──だから確かめようよ」
ジョシュアは迷える船長に提案した。
「どうやって?」
「手がかりはあの眠りの呪いだよね。聖女の力じゃないとしたら古い魔術だ。それを今も使えそうな人間っていったら?」
パーシヴァルから昔聞いた話を思い出しつつ言うと、ブラッドは目を見開いた。
「辺境の、……魔女か。確かに何か知っているかもしれないな」
赤い瞳は今までになく明るく輝く。彼の名の由来の色は、今は別の色に見えた。
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