第8話 船長の抱きまくら
ジーンはくるくるとよく働く少年だった。小柄な体は風のようにすばやく動く。船首から船尾までを駆け回っていた。
だが、彼はアンジェラのモップに足を引っ掛けて転びかけて、苛立ちを顕にした。
ちっとあからさまに舌打ちをする。敵意はどんどん増してきている気がする。
「邪魔なんだけど」
「ごめんなさい」
アンジェラなりに必死だったが、修道院とは勝手が違うのだ。モップは大きいし、ささくれた甲板を磨くのは石造りの床と違って力がいる。
ジーンはもう一度舌打ちする。だけどあんまり上手じゃない。そういう仕草に慣れていないのだろう。
「おとなしく枕でもしてればいいのに」
「枕?」
「船長の! 船長は慢性睡眠不足だし、眠ったほうがいいと思うけど、俺たちは眠ってる場合じゃないし。害虫はこもっててもらったほうがマシ」
「……害虫?」
(自覚はあるけれど……虫?)
人に真正面から言われると別の衝撃があった。
アンジェラが言葉を失っている間にジーンはさっさと走り去ってしまう。かと思うと、器用にマストをよじ登って見張りを代わっている。
あの働き様を見ていると言い返すことはできない。アンジェラは悔しさを噛みしめながらも掃除に戻る。
ジーンのおかげで、この仕事は投げ出したくないと思ってしまったのだ。
(負けるもんですか)
それは不思議な感情だった。今まで人とあまり関わり合うことがなかったアンジェラに初めてできたライバルのような存在だった。
「がんばろう」
ひとりごちていると、「アンジェラ、船長がお呼びだ」と船員が呼ぶ。
(え、もう起きたの? まだ半日よ?)
アンジェラは甲板の隅に未だ転がされている男たちを見てため息をついた。雑な扱いだけれど、全く起きる気配はない。彼らが皆、幸せそうに眠っているのが救いだ。
(普通の人間だと、一週間は眠ってしまうような力なのに……)
彼にかけられた呪いは、アンジェラの力を相殺してしまうものらしい。そのことには妙に安心してしまう。半日眠るくらいの呪いなら、あってないようなものだからだ。
(見るたびに……っていうか、眠るたびに色気が増してない?)
寝起きのブラッドを見たアンジェラは思った。最初見たときにはほぼ干からびていた生気が眠るたびに回復しているのだ。
生気というのは彼が元来持っていた魅力を輝かせるものなのだろう。男前、とジョシュアが言っていたけれど、それが男の人を褒める言葉ならば、アンジェラは思わず頷いてしまう。
(だめだめ、この人、海賊よ? 悪人なのよ?)
わかっているはずなのに、顔から体から滲み出る何かが、彼を海賊という印象から遠ざけていた。
「来い。今たっぷり寝た後だから、今度こそいける」
彼は性懲りも無くアンジェラをベッドに呼ぶ。
「あの……何をするんです?」
「俺はな。一刻も早く呪いを解きたいんだよ」
そう言いながら彼はアンジェラに手を伸ばす。
(なに、この人、懲りないの? わたしのこと、怖くないの!?)
アンジェラの力を見た人間は、たいていが一定の距離を取るものだ。それに慣れていたし、そうなるのも当たり前だと思っていた。自分でも不気味なのだから。
「ちょっと――眠りたいんですか!?」
「そんなわけあるか。眠ったらやることやれないだろ」
「じゃあ触らないでください!」
「触らなかったら呪いが解けないだろうが」
なんだか会話が全く噛み合わない。後ずさりするアンジェラの腕をブラッドは掴むと自分に引き寄せた。そのまま彼はアンジェラをベッドに押し倒す。
(ちょっと、自殺行為!!!!)
「きゃ――」
大きな体がアンジェラの体を包み込んでいた。肩幅も、胸の広さも、アンジェラの二倍くらいあるのではないか。
この間はのしかかられたけれど、今回は腕が体に回されていて、なんだか妙な気分だった。
頬がちょうど胸にふれていた。筋肉だろうか。シャツ越しだけれど心地よい硬さだった。どくん、どくんと彼の脈が聞こえると、ちゃんと生きているとすごく安心する。そして温かさに心がなぜか震えた。
(あれ? ……わたし、もしかしたら生まれて初めて抱きしめられたのかも……)
アンジェラはこの温かさを知らずに育った。最初に与えてくれるはずの母でさえ知らないのだ。
胸がじわりと熱くなる。
こうして自分に触れてくるような人間が現れるなど、思いもしなかったのだ。それが海賊だとも思いもしなかったけれど。
それにしても……妙に静かだ。
アンジェラは予想が確信に変わるのを感じながらも一応確かめる。
「…………あの」
「…………」
アンジェラの予想通り、ブラッドは再び眠っていた。
力強い眉、精悍な頬からは男らしさが滲み出ている。だというのに、ひどく無邪気で……まるで遊び疲れて眠った子供のような、あどけない寝顔だった。
普段が普段だけに、差異がすごい。
「……なんなの……この人」
アンジェラは思わず噴き出した後、自分で自分に驚く。この海賊を、なぜだか、可愛いと思ってしまったのだ。
***
(くそっ……どうやったら、コトを成せる?)
翌日は、珈琲の濃縮液。凄まじい苦味を堪えて飲んだものの、十秒も持たなかった。
その次の日は、唐辛子をまぶたに塗った。目が開けられなくなっている間に眠っていた。
そのまた次の日は、苦労してミントなる薬草を手に入れたものの、一瞬だけ爽快な気分になっただけで、翌日ジョシュアに「男前にさわやかさが加わって最強になってる。今酒場に行ったらモテまくるよ」と笑われた。そんな副作用はいらない。
そんなこんなでアンジェラが乗船して、一週間が過ぎてしまった。半分を寝て過ごしたようなものだ。無駄に生気がみなぎっている気がするが、ジョシュアが言うにはどんどん男前度が上がっているらしい。そんなものは海の上ではまったく必要ない。
そして今日。ブラッドは最後の手段を睨む。
「ほんとにそれやるの? 失敗したら苦しみそうじゃない?」
酒樽の上に腰掛けたジョシュアが半笑いの顔で見つめている。
ブラッドの失敗が海賊船の娯楽になりつつあることは、自分でもよく知っていた。ブラッドが成功するかどうかで賭け事をしているのだ。
そしてこのところ、アンジェラの勝ちにかける人間が大半で、儲からなくなったとブラッドに賭けた人間が嘆いている。そしてそういうやつらが大穴を狙ってブラッドの応援とばかりに、いろんなものを持ち込んでいたのだ。
手の中の小瓶には、俗に言う媚薬と言われるものが入っている。つまりは最終的に性欲が勝てばよいのではないかと思ったのだ。
「苦しむことには慣れてる」
「って、不眠の苦しみとその苦しみはまた別だと思うけどなあ……」
ジョシュアは苦笑いをしている。心配半分、面白さ半分といったところか。
だが、ブラッドは本気だ。長年の願いがあと一歩で叶うかもしれないのだ。とても冷静ではいられない。
「って、アンジェラちゃん、怖がらせちゃうんじゃないの」
「あいつはそもそもわかってない。『身も心もきよらかな修道女』だからな」
アンジェラを呼べ、とブラッドが言うとジョシュアは肩をすくめて出て行った。
船長室を出たジョシュアはため息を吐くと呟いた。
「そんな無垢な子を無理やりっていうのが、そもそも柄じゃないんだけどなあ」
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