第6話 あれが偶然でないなら
部屋は案外すっきりと片付いていた。というより物が極力ない。修道院のアンジェラの部屋といい勝負だ。
中央に、地図の乗った大きな机と椅子、窓際に置かれた狭いベッド。床はきれいに磨かれている。失礼な話かもしれないが、もっと薄汚れているものを想像していたので、漂う清潔感に驚く。本当にここは海賊船なのだろうか?
などと観察していると、ブラッドがベッドに腰掛け「来い」と呼ぶ。
(な……何が始まるの?)
警戒しながら近づくとブラッドは「さすがに修道院にいたのなら、知らないか。教えに背く情報だしな」と笑った。
そして隣をぽんぽん、と叩く。座れということらしい。
(妙に胸が騒ぐのはなぜなの)
囚われの身だ。断る権限はないだろう。アンジェラは言うとおりにした。ブラッドの表情が柔らかいせいなのか、不思議と怖くはなかった。
「まずは、昨日のが偶然かどうか、確かめる」
「昨日の、というと」
「おれを眠らせたあの力だ。あれが偶然でないなら、本物の聖女の可能性がある」
疑われている? アンジェラは慌てた。
「で、ですから、わ、わたしは聖女ですし」
「あぁ、そうだったな」
男はなぜかアンジェラの《言葉》は本気にしていないようだ。だというのに、アンジェラを聖女だと疑っている。
思考回路がよくわからないが、もしや、この呪いを聖女の力だと勘違いしているのだろうか。
(だとしたら……誤解は誤解のままにしておいたほうが、いいわよね?)
今後どう動くべきかと、アンジェラは慎重に探りを入れた。とにかく、情報が足りない。
「あの……それで聖女になんの用があるのです?」
「おまえが聖女なら、おれの呪いを解いてもらうだけだ」
「あなたの……呪い?」
「おれの受けた呪いを知りたいか?」
口を歪ませ、にやっと笑うと、ブラッドはずいと顔を近づけてきた。反射的に身を反らして衝突を避けると、バランスを崩してそのままベッドに倒れ込む。
すると、彼はアンジェラの上に覆いかぶさる。
「な、何してるんです?」
アンジェラは裏返った声を出した。
「おれの受けた呪いはな」
彼はアンジェラの質問を無視して、話を続けた。
赤い瞳に射抜かれると胸がすごい音を立て始める。
ブラッドはゆっくりとアンジェラに顔を近づける。息がかかるくらいの距離。なんだか良い匂いがする。爽やかで、どこか甘い香り。海賊というのは、風呂にも入らないイメージだったけれど……、香水でもつけているのだろうか?
(いやいや、今はそんなこと考えてる場合じゃない気がする!)
本能が危険を訴える。このままでは危ないと。どう危ないのかは、よくわからないけれど!
圧迫感を感じてアンジェラが顔を背けると、ブラッドはくっと喉の奥で笑った。
「不眠の呪いだ」
「え?」
思わず顔を元に戻して、ブラッドの顔を間近で見つめた。
「お前に触れたら眠れた。だからお前が聖女だと思ったんだ」
(そういうこと)
頭の中で話がつながって、アンジェラは納得しかけた。
(え、でも、わたし、本当は聖女じゃないから……呪いを解く力なんかないし? それでも解けたというの? それに……)
アンジェラは考え込む。
(万が一あれで不眠の呪いが解けたのなら、もう用は済んだはずじゃない? なのに、さらに呪いを解いてもらうって……どういうこと?)
アンジェラの思考を遮るように、ブラッドが「だが」と補足した。
「他の呪いが解けていなかった。それなら、女神との約束通り、お前を手に入れれば、全部の呪いが解けるのかもしれない」
「女神? 他の呪い? 手に入れる……って」
(どういうこと?)
なにか含みがあるのはわかるけれど、はっきり言ってもらわないとわからない。
訝しむアンジェラに、彼が静かにかがみ込む。そしてアンジェラの頬に、彼の指がそっと触れる。長くて筋張った、意外にきれいな指先に驚くと同時に、「だめ!」と反射的に拒絶したとき、
「……!?」
ブラッドの目の焦点が急にぶれた。
「さっきたっぷり眠ったのに……この程度で……? お前のその《力》は、一体……なんなんだ」
彼はなにか重要なことに気づいたのか、徐々に愕然とした表情になる。必死でまぶたを持ち上げているけれど、奥の瞳はすでに力を失っている。
「お前に触れられないのなら……じゃあ、おれは、どうやっ……て呪いを、解けば、いい……?」
最後はろれつの回らない口調で言うと、ブラッドはぐったりとアンジェラの上に倒れ込んだ。
「え、ちょ、ちょっと、あなた……」
それっきり、ブラッドはピクリとも動かない。
大きな体の全体重がアンジェラの上にのしかかっているせいで、アンジェラも動きが取れず、彼が今どのような状態なのかがわからなかった。
(息、して、る?)
そう考えたとたん、急激に怖くなった。脳裏に蘇るのはナタリアが倒れたときのことだ。彼女の呼吸は次第に浅くなり、脈もどんどん弱っていった。
だからこそ命がいつ途絶えるかと心底怖かった。
アンジェラの呪いで眠った人間は、ブラッドに触れるまでナタリアだけだった。ナタリア以外はレイラの言いつけを守っていたし、あの事件以来は傍に寄ろうとも思わなかったのだ。
前例が少ないということは恐怖だった。
(というより、この状態が、まずい気がする……!)
一瞬触れただけで、長い眠りに落ちるくらいに強力なのだ。触れる時間が長いほど、呪いの効果が高くなる気がした。
「ブラッドさん。ブラッド……ねえ、起きて!」
だがブラッドはぴくりともしない。これは、危ない。アンジェラは自分が毒薬であることを改めて痛感していた。
たとえ相手が自分を攫った海賊だとしても、こんなふうに殺したくない。殺したくないのに……!
(ああ、わたし、やっぱり……外に出てはいけなかったんだ……!)
絶望感が体を蝕んでいく。
「……誰か」
アンジェラは細い声で呼ぶ。だが、覗くなと言われていたせいか、誰も近くにいないようだ。
泣きたくなりながら、アンジェラは押しつぶされそうになりながらも必死で叫んだ。
「誰か! ブラッドさんが死んじゃう!!!!」
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