第4話 赤い瞳と黒い髪
人質として拘束されたままのナタリアと、レイラだけが門まで付き添った。
海はいつもどおりに凪いでいて、本船は沖に浮いていた。ここには小舟を漕いでやってきたようだ。
海賊船というものは初めて見たけれど、遠くから見る分には案外普通の帆船だった。ドクロの旗などを掲げた、おどろおどろしいものを想像していたから、少しだけホッとする。
「ほら、おいで。聖女サマ」
ジョシュアが優しい口調で案内する。だがその手にはナイフが握られたまま。ナタリアの首に押し付けられている。見かけと行動がこれ程違う男も珍しいのではないだろうか。
「ナタリアを離して」
「眠らされたら大変だから。君がおとなしくしているって約束できるなら考えるけど」
ジョシュアが笑う。このままではナタリアまで船にのせられてしまいそうだ。ナタリアには呪いがない。なにをされるかわからない。危険だと思った。
「約束するわ。あなた達が触れてこない限りは、眠らせたりしないって保証する」
「アンジェラ!」
「大丈夫よ。わたしには呪いがついている」
ジョシュアは、「清く正しい聖女サマの言う事なら、信じていいのかな?」と笑った。だが、その目は笑っていない。もしアンジェラが下手なことをすれば、修道院の皆は無事ではすまない。それを教えるような目だった。
「……信じて大丈夫」
アンジェラが言うと、彼はナタリアを解放する。
泣き崩れるナタリアに向かって精一杯笑う。生まれてこの方、こんなに笑ったことはない。笑い納めになるかもしれないなら、ここで笑っておこうと思った。
「船長、ほんっと重い……」
ぶつぶつ言いながら少年と壮年の海賊が――ブラッドと言っていたか――船長を運んでもう一方の小舟に乗せた。
光のない目が印象的すぎたが、それが閉じられていると、顔立ちがかなり整っていることに気がつく。
船長を鋭い眼差しで見つめていたレイラがふと目を細めた。そして「黒い髪……赤い瞳……」とつぶやいたあと、はっとしたように目を見開く。
「あの、その方は……まさか、彼の国の――」
「ん? なぁに?」
「……いえ」
レイラは口をつぐむと、なぜか涙ぐんだ。そして空に向かって、囁くような祈りを捧げる。
「ああ……イア。これも運命なのでしょうか」
なにか名が聞こえた気がしたけれど、聞き取れない。
小舟は、岸を離れるとすごい勢いで船に向かって進んでいく。みるみるうちに小さくなる二つの影を見ていると景色が滲んだ。
さらには塔の上から修道女たちが一斉に手を降っているのを見たら、もう涙を堪えることができなかった。
波の音に混じってレイラの声が聞こえた。
「アンジェラ! 何かあったら、どこでも良いから近くの修道院を頼りなさい。必ずあなたの力になってくれる!」
アンジェラは手を振りつづけた。
「レイラ様――!」
そして力の限り叫ぶ。
「育ててくださって、ありがとうございました!」
***
「ねえ、いい加減、わたしを愛しなさいよ」
ブラッドの目の前では、壮絶な美女が誘っている。淡い白金の髪は透明感があり絹糸のように滑らかだ。そして大きな青い瞳は海のよう。高すぎず低すぎない絶妙な高さの鼻に、花びらをかたどったような艶やかな唇。露になる肌はバラ色で、身体は完璧な曲線を描いていて、どこもかしこも柔らかそうだった。
この世のものとは思えない美しさ。誘惑に負けそうだといつも思う。
だが、頭を過るのは一つの疑問だ。
「なあ、その体は誰のものだ?」
「わたしのものよ」
「いや、違うだろう? その娘には意志があった。将来の夢も、希望もあった。好きな男だっていたかもしれない――それを根こそぎおまえは奪った」
「あなたは国を統べる男だというのに、娘一人の些細な幸せをそんなに大事にするの?」
「それを些細なことだと言う、おまえを愛することはとてもできない。俺はそう言ってるんだがな?」
「ほんっと、石頭。このわたしが、フレイア様が、あなたに世界を手中にできるだけの力を授けるって言ってるのよ!? ありがたくもらっておきなさいよ!」
怒った顔さえも美しい。だが、これは矜持だ。どんな小さな願いでも、踏みにじりたくないと誓ったのだ。
「おまえがいくらおれを愛していたとしても。おまえに身体を乗っ取られた可哀想な娘がおれを愛していないのなら、おれはその身体を受け入れることはない。わかったら、ここを立ち去れ」
踵を返すと、背中に触れる空気が急に熱を持った気がした。
「あなたが……その気なら」
この熱は、怒りだ。
そう気づいたときには遅かった。
「あなたに一つ呪いをあげるわ」
振り向くと赤く燃え上がる娘の体が見えた。その神々しさと禍々しさに息をのむ。
「愛してくれたらあげるはずだった祝いの力と一緒に。そうしたら、きっとそのうちわたしの想いを受け入れる気になってくれると思うのよね?」
直後、かっと体が熱を持ち、ブラッドは呪いと祝いをその身に受けた。
苦い記憶は身体に染み付いてしまっている。
(青かったってことだろうな)
まどろみの中を泳ぎながら、ブラッドは思った。
あの後、ブラッドはすべてを失った。
そして、何が最善か理解して、迷いなく女神の手を取ればよかった、と何度も後悔した。
あの高慢な女神を利用してやればよかった。
(娘一人の小さな願いと、国だ。比べようもない。そうだろう?)
自分に何度も問いかける。二度と過ちは繰り返さないと言い聞かせる。だが――
女神の晴れやかな顔の下で、名も知らぬ少女が泣いていると思うとたまらない。もし同じように求愛されたら、また同じ過ちを繰り返してしまいそうな気がして仕方ないのだ。
『まぁだ、うじうじ悩んでるの? あなた』
どこからか声が聞こえる。長らく聞いていなかったが、この世で一番美しく、そして一番嫌いな声だ。忘れることはない。
「うるさい。それより、この呪いを解け」
姿を探そうとするけれど、目が見えない。体が動かない。なぜだ。
『いやよ。あなたがわたしを愛してくれるまで』
「姿を見せろ。そうしたら今度こそ望み通りに愛してやる」
『どうだか。ずっと見てたけれど、あなた全然変わってないもの。また同じ理由で断られるのはまっぴらよ』
「じゃあ、おれはどうすればいい」
『簡単よ。つまりは聖女もあなたを愛せばいいんでしょう? 愛させてみなさいよ』
「なにを、言っている?」
ああ、これは《夢》だ。あまりに久しぶりすぎて、わからなかった。
そう思ったとたん、なにか不思議で、懐かしい歌が聞こえた。
荒んでいた心が潤っていく。
(こんなに気分が安らいだのは……何年ぶりだ?)
ブラッドは目を開ける。
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