第2話 帝都からの役人
「アンジェラ」
歌の時間が終わり、院長の言いつけどおりに部屋に戻ろうとしていると、一人の少女が駆け寄って来た。ナタリアだ。二つ年下の、アンジェラを気味悪がらずにいてくれる唯一の少女だった。
あの事件のあと、ほかの少女たちはアンジェラに近づかなくなったのに、被害者の張本人である彼女だけは相変わらず。
アンジェラには、物思いがつく頃には呪いがかけられていた。触れたものが眠りに落ちてしまうという、誰に得があるのかわからないような不可解な呪いが。
ナタリアは三年前、アンジェラの手に触れたせいで、一週間もの深い眠りに落ちてしまった。アンジェラに触れるなというレイラの言いつけを守らず、好奇心からの暴挙だった。
アンジェラはパニックに陥った。いつまでも目を覚まさないナタリアを見て、殺してしまった、と思ったのだ。
だから、ナタリアが一週間後に「よく寝たわ」と何事もなかったように目を覚ました時には、ホッとすると同時に、あまりの呑気な様子に腹が立ってしまったくらいだった。
どれだけ皆が心配したかを知らないから、未だにこうして近づいてくるのかもしれない。
だとしても――。
(ほんとうに、どうして)
このナタリアという少女は、太陽の輝きを持つ黄金の髪を持ち、朝露を乗せた若葉のような瑞々しい深緑の瞳を持つ、強烈な美少女だった。だからこそ、地味な自分にどうして近づいてくるのか、アンジェラは不思議でしょうがなかった。
「ナタリア。近づきすぎよ」
学習というものをしないのかと呆れてしまう。他の娘はあれ以来、アンジェラをわかりやすく遠巻きにしているというのに。
「平気よ。触れなければいいってわかってるんだから」
「でも」
「皆して、気にしすぎなのよ。眠るくらい大したことない。むしろしっかり休めて感謝してるくらい」
「そう言うのはあなただけだし、前みたいに目覚めるとは限らないの。とにかく、私の方は二度とごめんよ、あんな恐ろしい思いをするのは」
そう言ってもナタリアはにこにこと聞き流すだけだ。アンジェラはため息をつく。
「……それで、何の用?」
尋ねると、ナタリアは破顔した。花が咲いたようだと思う。
「今日は、帝都から役人が来ているらしいの。男の人よ? 皆で覗きに行ったみたいだから、あなたも一緒に見に行かないかと思って」
帝都、役人、という言葉に胸がドクンと跳ねるのがわかった。レイラが言っていた来客というのは役人のことなのか。しかも憧れの、帝都からの。
辺りを見回すと、先ほどまで聖堂でさえずっていたはずの少女たちの姿が消えていた。
「興味ないわ」
と、口では言いながらも、アンジェラの心はぐらりと傾いていた。
外の世界に繋がる物事に興味を持たずになどいられない。平凡な毎日を退屈に過ごしていると、風が運んでくる小さな物音、かすかな匂いにさえも敏感になる。来客など、外から来た人間には心が弾むに決まっている。
だが、覗きなどレイラが黙っているわけがない。アンジェラが外と繋がりを持つことを嫌っている。アンジェラは敷地を一歩外に出ることさえ許されない身の上なのだ。
それもこれも疎ましい呪いのせい。人を夢の世界へと連れて行ってしまう力のせいだと……レイラに何度も言い聞かされた。
不満がないわけではない。だけど、ナタリアが目覚めないかもしれないと泣き続けたあのような出来事はもうまっぴらなのだ。
自分のせいで、誰かが傷つくほど辛いことはなかった。
「部屋に戻ってなさいって言われてるの。無理よ」
ナタリアはむうっと口を尖らせる。アンジェラは踵を返すと、自分の部屋へと向かった。
***
聖堂からアンジェラの部屋までは中庭を通るのが近道だ。季節の花が、競うように咲き誇っている。香りを嗅ごうと足を止めたときだった。
『とにかく、この修道院で一番可能性のある女を差し出せとのご命令だ』
アンジェラは上から降ってきた声に上を見上げた。円形の塔。修道院で聖堂の次に立派な建物はレイラの執務室だ。
アンジェラは耳をすます。
話し相手はきっと帝国の役人だろう。だが、声に不穏さが混じっていた気がしたのだ。
(差し出すって? 可能性? 一体なんの?)
「可能性と言われましても……」
レイラは戸惑った声で対応している。
「――女なのだから、美しい娘に決まっている。年齢が十五くらいの、一番美しい娘を差し出すのだ」
「しかし――その娘をどうなさるおつもりなのです。第一、異教の女神の娘が、国教である、ザラマ聖教を学び伝えるこの修道院にいるはずがございません。万が一にいたとしても、皇帝陛下のお気に召すとは思えませぬ」
「下々の者が、大きな口を叩くな。知らぬほうが良いこともある」
ひどく冷たい響きに背筋が寒くなった。
(女神の娘? それってまさか)
嫌な予感がじわじわと足元から這い上がってくる。
「ここにいる娘は、皆、神からの大事な預かり子でございます。危険に晒すわけには参りません」
レイラは毅然と言い返すが、声は震えていた。
「その神の代理人であられる皇帝陛下からの命令なのだが。どうしても出さぬと言うのなら、勝手に連れて行くまでだ――ちょうどよく集まっているようだしな」
修道女たちは盗み聞きがばれたことにおどろいたのか、悲鳴をあげた。
アンジェラは慌てる。あの場にはアンジェラ以外の修道女がすべて集まっているはず。
思わず今来た道を駆け戻った。
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