第1話 箱庭の修道院

 空は青く、鴎(かもめ)が数羽、羽ばたいていた。大きく息を吸うと潮の匂いが体を満たして行く。


「今日も、平和ね。いつも通り、なんの変哲もない退屈な日。平凡な日々に、感謝しないと」


 とアンジェラは呟いた。

 ときおり波打つ音が響く。ここは孤島にある鄙びた修道院だった。裏門を出て階段を降りると、足元には海がひろがっている。内海なので、波はおだやかだ。だが、背丈の二倍ほどの深さがある。泳げないアンジェラにとっては高い壁と同じだった。


 週に二度、小舟が食料を運んでくるけれど、定員は一人で、人を運ぶことはできない。不自由することもないけれど、監獄のようだと、アンジェラは口にはしないけれどもずっと思っていた。


 階段に腰掛けると、新聞を開く。レイラが食料と一緒に本土から取り寄せているものを拝借しているのだ。新しいものだとバレるから、古いものをこっそりと。

 穏やかな潮風がアンジェラの白金の髪を躍らせた。日に輝く波の色だ。そして海の水の色はアンジェラの瞳の色と同じだった。だか、美しい海に比べると、見劣りする自分を彼女は良く知っていた。


 アンジェラは父も母も知らない。十六年前、嵐の翌日に修道院の門の前に捨てられていたらしい。


 そしてこの場所には、そういう娘たちばかりが住んでいる。

 よちよち歩きの娘こそいないが、まだ甘えてばかりの幼女もいる。しかしアンジェラより年上の娘はいない。十五歳になると、街の修道院に出て、奉仕を行ったりするものなのだ。


 だが、十六歳になってもアンジェラは未だここにいる。おそらく一生ここにいるのだろうと思えた。

 そうして、まるで眼の前の凪いだ海のような、穏やかだけれど、刺激のない人生を送るのだ。

 想像すると、ひどく苦しくなる。こんな事をしていていいのだろうか? そんな焦燥感がなぜか湧き上がってくる。


(あぁ……わたし、このままじゃ、退屈で死にそう)


 ため息を吐く。そして鬱屈を晴らすように新聞に目を落とす。新聞は、アンジェラにとって世界に開かれた唯一の扉だった。


『皇帝動く。十五年前の悲劇、再びか』


 そんな不穏な見出しが目に留まる。


(ん? 十五年前って……)


 記憶を探ったときだった。


「アンジェラ。何をしているの」


 鋭い声が建物の窓から飛んできた。親代わりにアンジェラを育ててくれた院長のレイラだ。アンジェラは慌てて新聞を隠す。

 アンジェラが外に関心を持とうとすると、すぐに注意されるのだ。それは幼い頃からずっとだった。


(あぁ、今日はこっち側なら誰も気にしないと思っていたのに……)


 顔をしかめそうになるのをぐっとこらえると、アンジェラは声の方を仰ぎ見た。


「今日はお客様が来られるって言ったでしょう。どうして外に出ているの」

「でも、レイラさま。いらっしゃるのは正門でしょう。むしろ裏には誰もいませんよ?」

「念には念を押さないと。もし何かあったら騒ぎになりますよ。それはあなたもよく知ってるはず。――ほら、歌の時間ですよ、すぐに聖堂へ」


 アンジェラは唇を噛む。牽制の理由はわかっているため、黙って受け入れるしかないと思っている。アンジェラだって、もう二度と《被害》を出したくないのだ。


「……はい、レイラさま。すぐに戻ります」

「それから、歌が終わったらすぐに部屋に戻ること。今日は、絶対に――部屋から出てはだめよ?」


(レイラさま、今日は妙にピリピリしているけれど、どうしたのかしら)


 小言には慣れているけれど、ヒステリーは苦手だ。ひっそり肩をすくめると、アンジェラは貝殻を一つつまんで階段を登った。



 ***



 アンジェラが屋内に入るのを見届けたレイラは、ひっそりとため息をついた。

 海に入ろうとしたのかと思って肝を冷やしていたのだ。

 昔、彼女は一度だけ溺れかけたことがある。泳げないくせに、脱走を試みたのだ。しかも、懲りもせず、泳げるようになりたいと言い切った。


「だって、泳げないと外に出られないじゃない?」


 と、とても不思議そうに言ったのだ。恐怖など少しもなかったかのように。


 当時のことを思い返すと今でも動悸が激しくなる。

 昔から好奇心旺盛な娘だった。この修道院という箱庭に閉じ込めてもう十五年だが、その間、何度脱走を試みたことか。


 三年前の事件以来、『自分がなぜここにいなければならないのか』を理解してからはずいぶんと大人しくなったけれど、生来の気質を抑え込むのは難しいようだ。

 もとより外の世界で輝くように生まれついたものならばなおさらであろう。


 だが、そうわかっていたとしても、時がくるまでは、隠し通さねばならない。

 ――そして他の娘よりも厳しく躾けなければならない。

 いつか彼女が仕えるはずの主のためにも。

 レイラは大事な預かり子を立派に育てなければならないのだ。それが使命だと思って生きてきた。


 聖堂からは聖歌の伴奏が流れ始める。ピアノの固い音に乗せて、少女たちの歌声が響く。どこか独特な旋律は覚えるのが難しい。だが、特別な想いがこもった歌だ。


 時を超え また逢い見る日まで

 日よ 空よ 風よ 海よ 守り慈しみたまえ


 アンジェラの声はさほど大きくはないけれど、レイラの耳には特別に聞こえた。

 とんとん、と扉が鳴り、来客を告げる。

 息を大きく吸うと、


「それもこれも、全部、私たちの悲願のため」


 ひっそりと、レイラは呟いた。

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