君の世界は残虐で

俄かには信じがたい。レベル94、など殆ど絵空事に等しい。かなりの、それも人生の大半で死線を潜って来た冒険者、それか古くから存続している由緒ある王族、その二つの例しか俺は聞いた事がない。


「…………ふむ」


「あっ……そう、ですよね。信じては……、くれませんよね」


眼前の彼女が、蚊の鳴くような声でそう呟いた。信じれる訳が無い。仮にこいつが本当にレベル94だとして、あんなオークに手こずる道理が無い。瞬時に消し炭にしているだろう。


ティア……ティア≡リフィル、か……。


元から少ない記憶を辿ってみるが、そのような名前の王族、片隅にすら無かった。一見、この少女が、あの野蛮に足がついて歩いているような冒険者には、とてもでは無いが見えない。


王族、それも俺が行った事の無い、遠い国の王族だとすれば合点が行く。だがしかし、そんな王族がこんな田舎町に居る理由とは……?


「あの…………、もしよろしければなのですが、私をダンジョンまで護衛してくれた暁には、それ相応の報酬を差し上げましょうか……?」


おずおずとティアが差し出した袋からは、金属同士が触れ合う甘寧な音が流れ出ていた。眩い光沢が隙間から垣間見える。


刹那、俺の中に芽生えた猜疑心は、遠い彼方へと吹き飛んだ。


「よし、行こうか! ティア!」


最早俺の頭の中では、レベルだとか自分の身の危険だとかはカケラも残さず塵芥と化していた。


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♦︎


「あの、フィオさん。フィオさんは、ずっとあそこに居るのですか?」


背の高い雑草が密接して生えている獣道を上がって行く最中、唐突に彼女が口を開いた。


「……ああ。たまに町へ下りる時以外はずっとだな」


そう、ずっと。


「へぇー……。寂しくなかったんですか?」


「……馬鹿にしていると解釈して良いか?」


「へっ?! だ、だめです! いえ、違います!」


ティアが頰を紅く染める。こうして茶化しているが、実のところ、少々孤独だった。退屈だった。俺が何の為に生きているのか、一日中考え込んだ日もあった。


孤独は嫌いだ。危険は嫌いだ。でもそれ以上に退屈が嫌いだ。


逆に、好きなものもある。それはお金。あいつらは何があっても俺を


「ちょっと、フィオさん! 私はそう言う意味で言ったんじゃ————」


「......分かったから。少し黙れ。お喋りはまた後だ」


喧しい少女の口に手を押し当て、会話を遮った。手のひらに生暖かい吐息が広がる。二人で雑草に身を隠すと、すぐ目の前を大きなオークが通過した。どろどろと唾液を地面に垂らし、自慢の棍棒を擦りながら歩いて行く。


ティアの体が強張るのが肌で分かった。瞳孔が開き、腰が震えている。今後ろから大声をかけたら漏らしそうだ。色々と。


ハンドサインで『静かに、俺に、着いてこい』と示し、オークの背後を猫のようにゆっくりと歩く。


静かに。静かに。静かに。


————ぱき————


不意に、小気味好い音が響いた。オークの歩みがぴたりと止まる。振り返ると、右足で思い切り木の枝を踏みつけたティアが、涙目で立っていた。


「このっ————!! 走れっ! こっちだっ!」


すぐ後ろで木々の倒れる音と、滝のような唸り声が響き渡った。ティアの手を引き、全速力で斜面を駆ける。ちらりと後ろを振り返ってみると、まず大粒の涙を零して走るティアが目に入り、その後ろから舌を垂らしながら追いかけて来るオークの姿が目に飛び込んできた。背筋が凍る。


捕まったら————喰われる!!!


再び、前を向こうとした時、右手にあったティアの感覚が忽然と姿を消した。一瞬時間が止まる。振り返ると、ティアが木の根に足を取られ、顔面から滑り込むように転んでいた。すぐ後ろから化け物が迫って来る。


「————ッ!!!」


俺は、ティアを、見捨てて、走った。

振り返らずに逃げた。後ろからティアの叫び声が聞こえても、耳を貸さなかった。


『仕方がないよ』『俺は死にたくない』『あいつがドジなのが悪い』『俺は、悪くない』


様々な思考が頭の中で乱反射する。所詮、全て逃げの口実だ。振り向いて、助けてやらなければいけない事など、とうの昔に分かっている。


出来ない。行けば俺は必ず、最悪二人まとめて死んでしまう。


だって俺はレベル『11』なのだから。


無様に尻尾を巻いて逃げようとした俺を引き止めたのは、たった一つの、彼女の言葉だった。


[あの…………、もしよろしければなのですが、私をダンジョンまで護衛してくれた暁には、それ相応の報酬を差し上げましょうか……?]


そうだ……。俺の……金だ……。オークなんぞに————


「くれてやるかクソッタレッ!!!」


今度は反対方向に今まで以上のスピードで駆け出した。ティアはもう死んでいるかもしれない。けど、懐には金貨の山があるはずだ。それだけでも回収しないと。


直ぐに、オークの巨体が視界の隅に写った。腰を抜かしたティアを舐めるように観察している。まだ生存していた彼女に、少しばかりの安堵を覚えながら、走る勢いそのままにオークの側頭部に蹴りを叩き込んだ。


ティアの顔が、絶望から希望に変わったのが見える。オークが前のめりに倒れこむや否や、彼女をおぶって走り出した。


「フェオさん! 助けに来てくれたんですね!」


「馬鹿か! 俺はその腰の袋を開ける助けに来たんだよ!」


またこいつを抱えて走る事になるとは思わなかった。だが、まあいい、ダンジョンまではもうすぐだ。ここさえ抜ければ————


「————着いた!」


よく分からない、理解し難い模様の数々が拵えられた、重々しい扉が俺たちの前に現れた。


「ティア! 良いな? 入るぞ!!」


「ええ! お願いしま————」


瞬間、背後に引き寄せられ、強く叩き付けられた。呼吸が出来なくなり、掠れた声が喉を貫く。想像する限り、最も最悪な事態だ。


オークに追い付かれた————。


棍棒が地面に叩き付けられる度に、小さく地鳴りが起こる。口から悪臭が流れ、長い舌が口の周りを舐め回している。


原始的で、絶対的恐怖。まさかこんな所で味わう事になるとは。


「フェ、フェオさん…………。私が、囮になるので、貴方は逃げてください……。元々は、私が巻き込んだんですから……」


彼女は最早生を諦めたようだ。体を震わせながら気丈に振る舞って俺にそう言った。


そう言う事ならお前から喰ってやろう————俺たちの考えを見透かしたように、オークが俺に飛び掛かってきた。


ティアの落ちる涙。オークの落ちる涎。全てがスローモーションで見える。絶望の淵にいた筈の俺に、ふと、ある感情が沸き起こった。


それも、原始的で絶対的な感情だった。


「クソッタレがァァァァァ!!!」


飛び掛かってくるオークの口に、自分の左腕を勢いよく奥まで突っ込んだ。突然の出来事に目を白黒させるオーク。その表情を見ながら張り裂けそうに叫んだ。


煙幕ヒュメール!!!」


オークの口が爆発したように振動し、大きく咳き込み出した。手に持っていた棍棒も手放し、無様にのたうちまわっている。


「今! 今だ! 早く中に!」


ティアを大声で急かすが、彼女の目線は、俺の左腕に釘付けになっていた。


「フェオさん……それ…………」


「は?」


ゆっくり目線を辿ると、俺の左腕は肘から先が消え、赤い色の飛沫が吹き出していた。

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