第16話 対面

どうして、昨日あんなことを言っちゃったんだろう…真理絵はずっとその事を考えて居た。

朝が来ていつも通りにマラソンを済ませ、仕事の時間になっても、彼女は急に手を休め、ボーっとしながら窓を見ている。

 「真理姉、手が止まっているよ!」

勇一郎がそんな彼女を見兼ねて声を出す。

「ああ…すみません。」

そう言われてやっと気付き、再び仕事に戻るのだが、また、すぐに手が止まり彼女は頬杖をつきながら、わずかに開いている窓の外を覗き込んだ。

外には真っ青な青空が広がっており、時折見えるポッカリ浮かぶ白い雲が、彼女の脳裏に色々な想像を思わせる。

ああ…何を見ても、彼の顔に見えてきてしまう。

こりゃ、相当気にしているな…当り前よ。有名人のマルセルキスクにあろう事か暴言を吐いてしまったのだから。

ふっと小さく溜息をつくと急に、真理絵の携帯が鳴りだした。

何だろう。

この時間は仕事中だから、電話はしないでって言ってあるのに…携帯の番号を見ると知らない番号からだ。

真理絵は気乗りしなかったが、とりあえず出る事にした。

 「はい?浅野ですが…」

「真理絵?」

若い男の声が聞こえた。

 「そうですが…?どなた?」

「俺だよ。マルセル。」

 「えっ!?えーっ!?マルセル!?」

電話の主はマルセルであった。

先程から彼女がずっと気にしていた張本人。

マルセルキスクが電話をしてきたのだ。

勇一郎は、彼女の言葉を聞くと、ビックリした様に思わず仕事の手を休め、電話に耳を傾けた。

 そんな、弟の様子を見た真理絵は、急に電話機を隠すように持ち替え小声で話をする。

 「ど…どうしたのよ…こんな時間に電話をかけてきて…あの…今仕事中なのよ…。」

 「ごめん。…それは分かっていたんだけど、どうしても君に伝えておきたい事があったもので…。それで電話をしたんだ。」

「伝えておきたい事?」

真理絵が首を傾げる。

 「真理絵。明日休みでしょ?」

「そうだけど…。」

 「明日、俺に付き合ってほしいんだ。」

「えっ!?」

真理絵は驚いた。

マルセルが私を自分から誘うなんて初めてだ…。

 「い…いいけど…でも…何処へ行くの?」

「来たら分かるよ。ま、危ない所じゃないから心配はないよ。」

 彼の言葉には、嘘や偽りがないように思えた。

それよりも何故だか、彼の感じが変わったとさえ、真理絵には思えたのだ。

 「じゃあ、朝の10:00に、あの公園で待ってるよ。」

「待って、マルセル。あの公園って…?」

 そこで、彼からの電話は途切れた。

真理絵は切れた携帯を見つめながら、茫然としていた。

あの公園って…まさか、私とマルセルが初めて会った公園のこと?


 翌日、真理絵は、灰色のパンツスーツに身を包み、焦げ茶色の後ろに小さなリボンが付いた、お気に入りのパンプスを履いて、デート気分で例の公園へと向かった。

その日は、寒い12月とは思えないほどの小春日和で、真っ青な空が何処までも続く良い天気であった。

彼女の足は、いつの間にか弾んでいた。

しかし…この間の争いの事を考えると…微妙な気持ちを心に引きずりながら、真理絵は公園へと急いだ。

 5分程して、例の公園に着いた真理絵は早速マルセルを探し始めた。

しかしマルセルの姿はなく、何人かの子供が、滑り台や、ブランコで遊んでいる姿が見えた。

まだ来てないのかな?そう思い、彼女はマルセルと初めて出会った思い出のベンチに腰掛ける。

北風がスウッと真理絵の横顔を通り過ぎ、その度に、黄色い葉もなくなってきた銀杏の木が、サワサワと音を立てた。

そう言えば、今日はクリスマスイヴだった。

何かプレゼントを持ってくるべきだった。

と、真理絵は考えた。

 ここで、あった事は1か月くらい前の事なのに、もう何年もマルセルと付き合ってきたようなそんな錯覚を真理絵は覚えた。

すると突然…

 「だーれだ!」

真理絵の目を、何かが覆った。

ビックリする真理絵。

しかしすぐ「マルセルでしょ?」と笑いながら言う。

マルセルは「当たり!」と、真理絵の目から手を離し、そしてニッコリと笑った。

 彼は、黒いヒートテックを着て、革のジャケットを羽織り、下はピッチリとしたジーンズを履き、黒い膝まであるブーツを履いていた。

しかし、いつものマルセルとは明らかに違う箇所を彼女は見つけることが出来た。

それは、頭に野球帽を被って居た事であった。

 「やだ、マルセル。この帽子どうしたの?すっごく可愛い。」

 「ヘヘッ。似合うだろ。哲太が貸してくれたんだ。これで髪を隠して行けってね。」

 すると、真理絵が首を傾げた。

 「髪を隠せって、どう言う事?黒く染めているはずじゃなかったの?」

 マルセルは、徐に帽子を取ると、真理絵の瞳を見つめ、後ろを向いた。

途端に彼女は仰天した。

なんとマルセルの髪は、少し伸びており、黒色の部分とブロンドの部分がクッキリと分かれていたのだ。

 「ちょ、ちょっとどういう事?この前まではこんなんじゃなかったわよね!?」

 「うん。実は、こんなだったんだ。」

 「えっ!?」

真理絵は、ビックリした。

「何で、今日は隠して来なかったの?バレたらまずいじゃない?」

そういえば今日は、瞳もカラーコンタクトをしていなかった。

 マルセルは、帽子を被り直すと、「もういいんだ。」と言った。

その顔は、一点の曇りもなく、晴れやかであった。

 「さ、それじゃあ、行こうか?」

マルセルが言う。

 「ねえ…一体何処へ行くの?そろそろ話してくれてもいいんじゃない?」

 真理絵がマルセルに訪ねる。

 「お楽しみは、後に取っておくものさ。とにかく着いてくれば分かるよ。」

彼は、なかなか話そうとしない。

 「じゃあ、せめてどんな乗り物に乗って行くの?電車?バス?」

一向に諦めようとしない真理絵。

 「公園を出てから、ずっと歩きだよ。」

「えっ!?歩いて行くの?」

「そう。」

 平気な顔をして、マルセルが言う。

 「なあんだ。歩いて行ける所か。それじゃあ、近所じゃない?ドレスアップなんかしなけりゃ良かった。」

半分不満気味の真理絵に、マルセルが囁く。

 「それとも…バスか電車で行く?」

「えっ!?行ける所なの?」

 「いいや。行けない。」

そう言うと、マルセルがニヤリと笑う。

「もう!マルセルの意地悪!」

途端にふざけながら逃げるマルセルを、真理絵が追いかける。

2人はそのまま、公園を出て通りへと出た。

周りには住宅街が広がっており、のどかな風景を描き出している。

その、真ん中のアスファルトの道路をユックリ歩く2人の頭上の空は、真っ青であった。

 「ねえ。でも、どうして私だけを呼んだの?哲ちゃんはどうして呼ばなかったの?」

 真理絵が、マルセルの横顔を見ながら聞く。

すると、マルセルは暫く間を置いてから、彼女の方を見ずに言った。

 「彼は、せっかくの休みだったしね。ユックリ寝かせてあげたかったんだ。バイトのキツさは俺も体験済みだしね。でも、本音を言えば…君と二人で行きたかったからなんだ…。」

そう言って、幾らか顔を赤らめるマルセル。

 やだ…そんなこと言わないでよ。マルセル。余計好きになっちゃうよ。それに今日は特別優しいから、ドンドンのめり込んで行ってしまいそうな気がする…この間、あんな事があったのに、何故?何故そんなに優しいの?


「あっ!!あった!!」

突然マルセルが歓喜の声を上げた。

真理絵は驚き彼の方を見た。

するとマルセルは自然に真理絵の手を掴み、自動販売機のある方へと歩いた。

「安く買える自販機を探していたんだよね。」

見ると、オール100円と書かれてある自販機であった。

 「真理絵。何飲む?コーヒーでいい?」

マルセルが彼女に聞く。

だが、真理絵は何よりも彼に掴まれた腕の方が気になって、コーヒーどころの騒ぎではなかった。

腕が熱くなり、そこだけ血が逆流しているように思えてくる。

彼に体の一部を触られた彼女は、あまりのショックに足がふらついていた。

しかし、マルセルはそんな真理絵に気が付かないのか、100円玉を2枚入れてコーヒーを2本買うと、1本を彼女に渡した。

 それと同時に、マルセルは彼女の手を離した。

あっ…ふと、真理絵は心の中で残念がったが、彼はもう、缶コーヒーの蓋を開け美味しそうにそれを飲んでいる。

 「日本では、こういう缶のインスタントコーヒーが手軽に買えちゃうんだもんね。ドイツには無いからとてもビックリしたよ。」

缶コーヒーを飲みながら、そんなことを言うマルセル。

 「だってマルセルは、日本で暮らしていた事もあるじゃない?缶コーヒー位知ってるでしょ?」

 「俺は、まだ小さかったから、あまり記憶にないんだよね。でも飲んでたのかな。やっぱり。」

 「そりゃあ、マルセルが生まれたのって、1990年代でしょ?その頃は、もうあったわよ。うーん。でも、これが当たり前の生活になってたから、あまり気が付かなかったわ。感謝しなきゃね。」

 そんな話をしながら、2人はひたすら歩き続ける。

 今日のマルセルは本当に上機嫌であった。

何故なら、あまり自分のことを語りたがらなかった彼が、サベージパンプキン時代の話を始めたからである。彼が今まで話さなかったメンバーの零れ話や、レコーディングの裏話。

ワールドツアーでの出来事など、事細かに話したのだ。

いや、今日の彼は話したくてウズウズしているように真理絵には見えたのだ。

彼は間違いなく、何かが吹っ切れたように思えた。

それが何なのかは真理絵には分からなかったが、とても素敵な笑顔をマルセルはしていた。

彼の瞳を見つめながら、彼女は思った。

 だが、それと同時に真理絵はもう一つ、ある事を思い起こしていた。

それは、ジミーが来る前の時間。

哲太が煙草を買いに外へ行った、あの2人だけの時間の時にマルセルが言った言葉…

 「もし…恋人が居なければ…俺と…」

そう言って、彼は私に唇を近づけた。

 何故…あの時彼は、そんな行動をとったのだろう…。酔っていたから?それとも…。

 真理絵は、その後の言葉を聞きたい衝動にかられた。

けれどもし、私がそのことを聞いて、また2人の仲が気まづくなっちゃったら。

…そう思うと彼女はいたたまれない気持ちにかられた。

言えない彼女が出現した。

マルセルはその横で口笛を吹き、歩いている。

そんな彼を横目で見ながら、真理絵の心の中では葛藤が続いていた。

 聞きたい!でも…もし…2人の関係をこのままにしておきたい切なる願望が、彼女を動かそうとしなかった。

 右に行き、左へ折れて、ついに2人は大きな豪邸が立ち並ぶ界隈に出た。

その近辺には、坪にして、100程あるかの屋敷があちらこちらに建てられていた。

一体こんな所に何の用事だろう?そう、真理絵が思っていると、マルセルがある所で立ち止まった。

 「ここが、目的の場所さ。」

 見るからに、大きな豪邸であった。

この辺では恐らく一番大きい屋敷だろう。

門は白く洋風式で、頭の高さまである。

その奥は大きな庭になっており、1メートル程先に、ロココ風の大きな玄関があった。

表札には『御園生』と、大きく達筆で書かれてある。

 「ここは…俺の生みの母のヘレナが嫁いだ家なんだ…」

表札を見ながらマルセルが言った。

 「あ!じゃあ。マルセルのお母さんが居た所?」

 「そう。今日は母の墓参りをしようと思って、来たんだ。」

さり気なく照れ笑いをしながら、マルセルが真理絵を見つめる。

それに優しい笑顔で応える真理絵。

 「ばか。それならそうと、言ってほしかった。」

「恥ずかしくてね。言えなかったんだ。この間の事もあったし…。」

そう言って、彼は帽子を取ると、彼女にニコッと笑いかけ、それから意を決して、その門に付いていた、インターフォンに手をかけた。

 「どなた様でしょうか?」

途端に女の人の声が聞こえてくる。

恐らくこの家の女中か何かだろう。

 「ドイツから来た、ミハイル・ アルベルト・ フォン・ シュワルツと言います。そう言って下されば…分かると思います。」

 「…少々お待ち下さい。」

インターフォンの主は少々ぶっきらぼうに答え回線を切った。

 その態度に、不安な顔色を浮かべるマルセル。

しかし、その数分後、荒々しく中年風の太った男が出てきて、門の側で立ち止まると。

側にあった青いボタンに手をかけた。

その拍子に、門は左右に『ギギギギーッ』と開いた。

男は驚いた顔つきでその場に立ち、マルセルの顔を繁々と見つめ、そしてやっと口を開いた。

 「ミ…ミハイル…ミハイル…アルベルト君かい?」

「え…ええ…。」

彼が困惑したように答える。

すると、その中年風の男は彼をいきなり抱き締め、泣き叫ぶように言った。

 「よく…よく来てくれた!来てくれないかと思いました…!!」

涙を堪える様に、しかし体全体を震わせてその男は言った。

 「ああ!こうやって見ると、ヘレナを思い出します。なんてヘレナに似ているのだろう…さあ、お茶の支度をしますので、ユックリしていって下さい。…そちらの方は…君の彼女かな?」

 「いえ、違います…彼とは友達で…。」と、言うのが早いか、マルセルはキッパリと

 「そうです。」と言った。

 「そうですか。とにかく嬉しい。さあどうぞ。上がって下さい。」

 そう言い、中年風の男は、マルセルと真理絵を中に入れて門を閉めた。


男の名前は、『御園生年造』現在66歳。

御園生グループが経営している、大手呉服問屋『京錦』の社長であったが、そろそろ楽をしたいとのことから、年造の妹である、『御園生くらら』の長男、『好信』に会社を任せ、今はすっかり企業界からは足を洗って居た。

そして時々、好信の様子を伺いに本店がある日本橋へ足を延ばすだけで、あとは優雅な楽隠居のような生活を送っていたのだ。

 しかし年造はやっと、安定した生活を取り戻して、毎日を過ごせると思った矢先に最愛の妻であるヘレナを失ってしまったのだった。

 「…私は世を恨みました。そうです。神も仏もこの世には居ないのかと言う程、神を恨み自分の運命を呪いました。この時ほど、そう思った事はなかったと思います。ヘレナは、とにかく私と結婚してから苦労ばかり背負って、挙句に子宮筋腫に掛かったのです。幸い癌ではなかったので、一命は取り止めましたが、子宮と左の卵巣を摘出してしまった為、子供が出来ない体になりました。」

 年造は思いつめたようにヘレナとの思い出を語ると、寂しそうにメイドの出した紅茶を一口コクッと飲んだ。

そして、『カチャッ』とカップをシックな深緑色のソーサーに置くと、視線を宙に向けて、黒いソファに体をうずめた。

その様子を反対側の黒いソファに座って、同じ紅茶を飲んでいる真理絵とマルセルは黙って見ていた。

紅茶の湯気がユックリと立ち上るのが見えるだけで、この屋敷全体の時間が止まってしまったかのように、周りはひっそりと静かである。

 「私は何としても、ヘレナの子供が欲しかった。そこでもし、ルドルフさんが許して下さるのなら君を…ミハイル君を養子として迎え入れる事を考えていたのです。ルドルフさんは、まだ奥様をもらっていませんでしたから…男手一つでミハイル君を育てて行く事は無理なのではないかと思って。悪い事だと思っても、人の弱みにつけこもうと思ったのです。しかし、いざルドルフさんの家に行ってみますと、ルドルフさんも、マルセル君も、居なくなっている。近所の人に聞いてみましても、2人の消息を知らないと言う…私はその時、本当に最後の糸がプッツリと切れたような音を聞いた様な思いでした。」

 「あの後、僕と父さんはドイツへ帰ったんです。母さんが居なくなって、もう日本に居る意味がなくなってしまったからだと、あとで父さんから聞きました。」

 「そうでしたか、そしてドイツに帰った後ルドルフさんはご結婚をなさったのですね。」

 「はい。そして、僕には義妹がドイツに居ます。」

「それでは、…ルドルフさんは、あの奥様との間にお子様を?」

「はい。義妹の名前はリアと言います。」

「ああ…なんて事だ…。」

 年造はそれから、紅茶をまた一口飲むと皺のよった細い目で、ジッとマルセルの顔を見て言った。

 「私は、本当は貴方にこの、京錦を継いでもらいたかったのですよ。今では私の妹の子供に任せていますが、出来れば妻の忘れ形見である貴方と一緒に経営して行きたかった。」

そう言って、また一口紅茶をすする。

 「TVで貴方を見た時はそれはビックリしました。失踪してしまった事も…TVで見ました。そのニュースを聞いて私はピン!ときました。ヘレナの事で悩み苦しんでいたのですね。」

 まるで、愛しい物でも見つめるかの様に語り掛ける年造に、マルセルは暫く何も言わなかったが、ついにマルセルは真剣に彼の顔を見ながら、口火を切った。

 「御園生さん。…母は、母は最期にどのような気持ちで、この世を去ったのでしょうか?いえ、その時、母は何を考えていたのでしょう?是非教えて下さい。僕はその言葉が聞きたくて、自分自身に決着をつけたくて、だから失踪したのです。ここにとどまったのです!」

 マルセルの悲痛な願いを聞いた後、年造は静かに目を瞑った。

それから、語り掛けるような口調で2人に話し始めた。


 その時、マルセルの母親だったヘレナは今にも命の灯が消えかかる寸前であった。

彼女はベッドの上で涙を流しながら何回も年造の手を握り、その時が来るのを待っていた。

 彼女は、年造と京錦で一緒に働いていたが、ある日、仕事中に倒れてしまった。

救急車で運ばれ、精密検査を受けた時は、彼女は卵巣癌と言われた。

余命3ヶ月だった。

 年造は、ミハイルを呼ぼうかとヘレナに話したが、ヘレナが拒んだという。

今更ミハイルには逢えないと彼女は言った。

しかし、年造はルドルフだけにはその事を知らせておいたのだ。

するとルドルフは、息子は今、ミュージシャンとして働いていることを告げ、その息子のデビューアルバムのサベージパンプキンのアルバムとDVDを送ったのだ。

 ヘレナは、そのアルバムを何度も聴いては涙を流したという。

そしてDVDで、あの時、幼い頃に捨てた息子が、こんなに逞しく成長してくれた事を年造と共に、喜んで居たという。

 そして、ヘレナの亡くなる日に、ヘレナはマルセルにこんな言葉を残した。

「もし貴方が、ミハイルに会うことがあったら…」と。

 「伝えて頂戴。バカな母親で、貴方を捨ててしまったばかりに、貴方に苦労を掛けてしまって、本当にごめんなさい…でも、ママは決して自分の選んだ道を後悔はしていない。貴方と逢えずに、病気に負けて死ぬような形になったけれども、私は年造さんと一緒に暮らした事を悔いていないわ。母親として何も出来ずに死んでいく私を、いつまでも忘れないでと貴方に言う事は出来ないけれど、1人の人間として残しておきたい事が一つだけあるの。それは、自分の人生に責任を持って生きてほしいの。貴方が、自分の一生をかけても悔いはないと心から思っている事柄が見つかったとしたら、それが愛する人達を結果的に犠牲にしてしまう道であったとしても、一歩一歩歩いて行ってほしい。そして、その道を選んでしまったのなら、命を懸けて突き進んで行きなさい。犠牲にした人達の苦しみを受け止め、どの様な事があっても乗り越えて行ってほしい。それが、貴方の責任なのだから。。自覚をもって生きて行けば、その時貴方と犠牲にした愛する人々の救われる道が見えてくるのだから…。」

 そう言って、ヘレナはこと切れたのだった。

 マルセルは、ジッと年造の話に耳を傾けた後、ユックリと言った。

 「母は、僕のことを…愛して居てくれたのですね…。」

 「ああ!愛して居たよ!最後まで!」

年造はそう答えた。

その瞬間、マルセルの目から涙が零れ落ち、そして嬉しそうに

 「ありがとう!その一言で僕は…救われました!」

そう言うと、年造の手を掴み、むせび泣いた。

 今マルセルの心の中にあった、最後のわだかまりは、ユックリと溶けていった。

彼の表情を見ながら、真理絵は心の中で、幸せな思いを一人噛みしめて居た。


日が西の方に傾き始めた頃、年造を含めた3人はヘレナの墓参りに出掛けた。

途中の道で、彼女が生前好きだった白いバラを買い、ヘレナの眠る白い小さな教会へと足を運んだ。

 そして、そこは緑の樹木が立ち並ぶその奥にあった。

 真理絵は、目を見張った。

こんな美しい所が、あったなんて…。

まるで、映画に出てくる1シーンを見ている様だった。

 ヘレナの墓は、入り口から真っ直ぐに見て、墓の先端が見える程の大きな墓であった。

手入れもよく行き届いており、十字架の白い墓標は、彼女の心の様にどこまでも白く輝いている様に見えた。

そして、その墓には『ヘレナ御園生ここに眠る』と、ドイツ語で書かれてあった。

 年造は、持っていた白いバラの花束をそっと置くと、彼女の墓に向かって静かに十字を切り、手を合わせる。

そして立ち上がり、マルセルと、真理絵に言った。

 「ここは、私がヘレナの為に作らせた墓なのですよ。ヘレナはカトリック信者でしたからね。本当は…私のところに籍が入っている以上、御園生の墓に入らなければならないのですが、私が止めさせたのです。最期位ドイツ人で行かせてあげたかったのですよ…もちろん、周りを抑えるのに一苦労しましたがね。ゆくゆくは私も此処へ入るつもりです。此処は、ヘレナだけでは寂しすぎる…私も歳ですかね…愚痴っぽくなってしまって…。」

 そしてユックリ、噛み締める様に自分に言い聞かせるかの様に2人に話した。

 「若いということは…いえ、若かった時代も私にもありました。そして、その時代は無限の可能性を秘めた時代でもありました。」

 何かで聞いた事がある。

ふと、真理絵は思った。

人は歳月が経ったから老いるのではなく、理想を失ったから老いるのだと。

今、年造の言葉を聞いて、彼女は急にそんな事を思ったのだ。

それでは、年造にとっての理想は、妻のヘレナだったのだろうか。

ヘレナを失った悲しみ故に、彼は生きる希望を失いかけている。

だが、もしかしたら、それは当然の理なのかもしれない。

この世で一番絆が深いのは、家族と夫婦なのだから。

普段はお互い疎ましい存在でも一番信頼できるのは、この関係しかない。

友達も信頼できるが、この一番信頼できる関係がある日、脆くも崩れてしまったら…それは並大抵の辛さではないだろう。

その時、人はきっと気付くのだ。

自分がどれだけその関係に甘えていたかという事を、そして何が一番大切なものだったかを、苦しみの中から探し当てるのだ。

そして、年造は今その苦しみを味わっている…。

 「それでは、私はここでお暇しましょう。ミハイル君も久しぶりにお母さんに逢えたんだ。思いっきり甘えるといい。」

 年造は、彼の肩をポンと叩くと、入り口の方に向かって歩き出し、帰り際「また、会える日を楽しみにしています…」と、言い残し帰って行った。

 真理絵も、年造の行動を見て気を利かせようと墓地を出ようとしたが、そこでマルセルがこう言ったのだ。

 「真理絵。君は此処に居てもらえないだろうか?」

「えっ!?私、此処に居ていいの?」

彼女が聞く。

 「ああ。」

マルセルが笑った。

そして、彼はヘレナの墓を黙って見つめ、そこに座り、年造が置いた花束の傍に自分の花束を置き、懐かしそうに白い墓へ向かってドイツ語で語り掛けた。

 「やっと、逢えたね。母さん…。」

その声は半分涙ぐんでいた。

 「母さんが、俺のことを愛してくれたって事を、御園生さんから聞いて、俺、長い間わだかまっていたものが一気に出てきて泣けてきた。それから全ての事から逃げ出していた自分に物凄く腹が立った。」

そう言い、彼は頬に流れる涙を手の甲で拭う。

 「でも、もう逃げないよ。だって、俺が選んだ道だもの。それに俺は音楽が好きなんだ。歌が大好きなんだ。それに気が付いたから…もう、決して逃げる事は出来ないとそう感じたんだ。だから、もう心配しなくていいよ。母さん。俺は貴方の言う様に、これからは自分の人生に責任を持って生きて行くよ。また、母さんと離れる結果になってしまうけど、でも今度ここに帰って来た時は、もっと大きな俺になって帰ってくるよ。それに、俺には育ての母のルーザも居るし、父さんも居るから大丈夫さ。」

そう言って、彼は静かに目を瞑った。

そして、ヘレナの墓を左の手で摩った。

 「俺ね。ヴォーカリストになったんだよ。サベージパンプキンっていう、ヘビーメタルグループのね。でも、色んな事が重なって、一時期声が出なくなってしまった。俺はその時、絶望のあまりヴォーカルを辞めようとしていた。でも此処に居る、浅野真理絵という、一人の女性が俺のことを励まし、力づけてくれた。必死になって助けてくれたのさ。俺は彼女に…何と言って、お礼をすればいいか…分からない程感謝しているんだ。…そして俺は、1人の男性として彼女を愛し始めている…結婚したいとも…思い始めている。だから母さんに、一目見せておきたかったんだ。でも、その事は彼女にはまだ言わない。色んな解決しなければならない問題が山積みしているし、俺の今の恋人のミシェールとも話をつけなければならないから…でも母さん。俺は、貴方にだけはこの気持ちを伝えておきたかったんだ。」

 そう言って、マルセルは口を噤んだ、真理絵は先程からマルセルが、ドイツ語で話していたので何を言っているのか皆目見当がつかなかったが、彼が生みの母、ヘレナの墓にやっと手を合わせられた事で、彼にとっての決着はついたと心の中で感じていた。

 真理絵は安心した様に微笑すると、マルセルの隣に座って白いバラを眺めた。

美しく気高いその花は、夕焼けの紅の色と溶け合ってオレンジ色になっている。

まるで、最後まで我が息子ミハイルの身を案じて自分の道に生きた、ヘレナ御園生の尊き姿に似ている…彼女は静かに目を閉じ、ヘレナの墓前に手を合わせた。

そして言った。

 「マルセル。この、白いバラの花言葉知ってる?」

「花言葉?知らない?」

マルセルが答えた。

 「純粋よ。」

「純粋…。」

マルセルが呟く。

 「そう。貴方のことを心から愛してくれたヘレナにピッタリの言葉だわ。…純粋に人を愛して…純粋に人を信じて…そして、純粋にこの世を去った。とても素晴らしいお母さんじゃない…」

そう言い、真理絵はマルセルを見つめた。

するとマルセルも「そうだね。」と微笑んだ。

 それから彼は立ち上がり、「真理絵。頼みがあるんだけど。」と、言った。

 「何?」

彼女が聞く。

すると、マルセルは少し恥ずかし気に

 「俺の歌を聴いてもらえないだろうか?多分、下手くそになっていると思うけれど…これまでの感謝の気持ちを歌に表したい。ぜひ君とヘレナに聞いてもらいたいんだ。」

と、言った。

 真理絵はその気持ちにコクッと頷いた。

するとマルセルはヘレナの墓に向かって、背筋をピンと伸ばし、足を踏ん張った。

そして次の瞬間…

 稲光にも似た鋭く打ち震える様な、張り詰めた高い声を空一杯に出していた。

その歌は、サベージパンプキンのアルバムの中に収録されていたバラードであった。

 真理絵は自分の耳を疑った。

しかし、マルセルの声は確かに戻っていたのだ。

1ヶ月前に確かに聴いたあの高い声…CDでコンサートで聴いたあの声が、今まさにマルセルの体から出ていたのだ。

 ああ!神様!彼女の体に、震えるような感動の嵐が走り抜けた。

そして、知らず知らずのうちに涙が零れていた。

真理絵の脳裏に、マルセルと過ごした数々の思い出が次々と浮かんでくる。

浮かんでは消え。

浮かんでは消え…だが、その一つ一つの出来事は決して無駄ではなかったのだ。

それは、今日のマルセルの高い声が蘇った事で実を結んだのである。

そう、彼女はマルセルの歌を聴きながら実感していた。

 彼が歌を歌い終わって、ホッと満足そうに一息つくと、真理絵がなりふり構わず抱きついてきた。

 「良かった…!戻ったのね…戻ったのね…!」

 クシャクシャになった顔を拭おうともせず、まるで自分の事の様に泣き続ける真理絵。

マルセルはそんな彼女をきつく抱き締め。

愛おしく髪を撫でた。

 それから真理絵を離すと、涙で濡れている彼女の瞳の涙を指先で拭い、また抱き締めた。

 遠くで賛美歌が聴こえた。

そうだ、今日はクリスマスイブだ。

綺麗な鳥の羽を思わせる様な声であった。

 「ありがとう…真理絵…。君のおかげだ。」

マルセルはそう呟いた。

 真理絵は、尚も泣きじゃくって居た。

やっと苦しみからこれで解放されたのと、マルセルとの別れと、声が戻った嬉しさとで、自分でも訳が分からなくなっていた。

 そんな彼女の涙を、今度はマルセルは唇で拭った。

真理絵は驚いた。

驚き、マルセルの瞳を見つめた。

 マルセルは、真剣な瞳で真理絵を見つめていた。

そして、微笑すると真理絵の唇にユックリと自分の唇を重ねた。

 真理絵は、されるがままになっていた。

2人はユックリとお互いの唇の温度を確かめ合い、ユックリと体を重ねていく。

 「好きだ…真理絵。今夜、君を抱きたい…。」

 マルセルが呟いた。

真理絵は、マルセルの突然の告白に驚いた。

 遊び?でも…マルセルは真剣であった。

真剣な顔であった。

 もし、これが遊びだとしても私は今日彼に抱かれたい。

例えドイツにミシェールという、恋人が居たとしても。

 「愛しています。マルセル。私も今夜あなたに抱かれたい…。」

 真理絵が呟いた。


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