第6話 思慕
その日、浅野家は朝から忙しかった。
今日は真理絵の父、『浅野秀三』が経営する、ゴム会社の締め切り日であった。
秀三はこの会社で、石油を原料とした工業用ゴムを作っており、真理絵とその弟、『浅野勇一郎』はこの会社で働いていたのである。
しかし、家族ぐるみでしか仕事をしていない零細企業なので人手不足の為、仕入れ先に荷物を出荷するのに大わらわだった。
先程から、品物を検査し続けている彼女の顔は、段々と険しい表情になってきた。
そして、そんな真理絵の表情が変わった事などいざ知らず、この会社の社長の秀三は彼女が検査した物を無言のまま、箱に並べていく。
向かいの席では、勇一郎が下請けの子会社に、ずっと低姿勢で電話をかけっぱなしでいた。
「あの…。ですからね、先程も申しましたが、今日中に品物を仕入れて頂きませんと、こちらも困りますので…。」
その言葉を、ずっと繰り返す勇一郎の言葉に、真理絵は苛立っていた。
あー、うちの下請けは、なぜ、ギリギリまで納期を伸ばすんだろう…!今日も徹夜だわ。
すると、不意に真理絵の携帯が鳴った。
忙しいから勘弁して。
真理絵は10回コールが鳴ったスマートフォンを無視し、仕事に集中していた。
遂に、スマートフォンが止まった。
すると、次は自宅に電話がかかってきた。
仕事用ではなかったので、真理絵は無視して仕事を続けていたが、勇一郎が「真理姉!電話!」と怒鳴ったので、彼女は電話を取ろうとした。
すると、それは3回でコールが終わった。
どうやら、母の『貴子』が電話を取ったようである。
「真理絵!!電話!!橋本君からよ!!」
貴子が工場まで来て、彼女に声をかけた。
「哲ちゃん!?」
「そうよ、電話、早く出てよ」
哲ちゃんには、納期ギリギリの時は電話してこないでくれとあれ程言っていたのに。
一体何だろう!真理絵は苛立ちを爆発させるかの様に、仕事場のデスクに手をつき疲れた表情で椅子から立ち上がる。
すると、電話をしていた勇一郎が、受話器を持ったまま彼女の方を向き、向こうで取れ、と目で合図する。
自分の思い通りに事が運ばない事に、尚も苛立った彼女は台所に行くと保留になっている受話器を取り、哲太に当たり散らした。
「哲ちゃん今日は何の日だと思っているのよ!!うちの仕事の締め切り日なのよ!!その日は電話はかけないでって言ってあるでしょっ!!」
「マルセルが倒れた!!」
哲太の慌てるような一言で、彼女の怒りは一気に吹き飛んだ。
「…えっ!?」
真理絵が改めて聞き返す。
「なんて言った。今?」
「マルセルが倒れたんだ。救急車を呼ぶのはまずいので、俺の家のかかりつけの医者に来てもらってみてもらったんだが、疲れから来た風邪らしい。でも熱が下がらないんだ。」
「嘘でしょ?」
真理絵が確かめるように聞く。
「こんな時に俺が嘘ついてどうしろって言うんだよ。それで俺がずっと見ていたんだが、俺も今日バイトがあるもんで、いつまでも見ているわけにもいかなくて・・・。それで、お前に頼みがあるんだよ。」
哲太の頼みとは、真理絵に夜の6:00までに彼のアパートへ来て欲しいとの事だった。
哲太が、今日だけ朝のバイトから夜の方へと回してもらった為、18:30までにバイト先へ行かなければならなかったからだ。
「分かった。仕事が終わったらすぐ行く。」
そう言い、彼女は電話を切ったが、今日は納品日。
途中で抜けるのは困難だ。
でも、マルセルのこともとても心配だ…
どうしたらいい…。真理絵は一見何事もなかったかのように仕事へと戻ったが、先程と打って変わり仕事のペースが落ちてしまった。
その為、手が止まってしまうので秀三に怒られる始末。
彼女は怒られると、すぐ我に返るが、やはりまた、ボーっとして仕切りに考え込んでしまう。
そんな彼女を見ている人物がいた。
母の貴子だ。
貴子は、つい先日電話をかけてきた姉の純子の言葉を思い出していた。
「真理絵。恋しているんじゃないかしら?この間、和己さんと池袋へ行った時に、真理絵に似た子が外人の男の人と歩いて行くのを見たのよね。…お母さん知らないの?」
貴子は、母親として堪らなく不安になった。
そこで仕事が終わる夜の6:00頃、空に星が輝き始めた頃、貴子は意を決して真理絵の部屋を開けた。
が…居ない!
「あらっ?真理絵!何処に行っちゃったのかしら。あの子・・・。」
部屋の中に入って、キョロキョロと辺りを見回してみるが、やはり彼女の姿はどこにもなく部屋には一面に余所行きの洋服があちらこちらへと、飛び散らかっている。
仕事場だろうか。
貴子が仕事場に向かうと、まだ勇一郎が仕事をしていた。
「真理絵はどうしたの?」
貴子が勇一郎に聞く。
「真理姉なら出かけるって言って、飛び出して行っちまったよ。食事はいらないってさ。」
黙々と仕事をしながら、勇一郎が話す。
「出掛けたって、何処に行ったの?」
「知らないよ!俺はとにかくそれだけ聞いただけなんだから。全く、今日の真理姉は全く使えなかった。使えないどころか、ちょっと出掛けてくるって、仕事半ばで飛び出しちまうんだもんなー。まだ仕事が残っているのに。いいご身分だよ。」
勇一郎がブツブツ文句を言う。
「そうなの…。」
彼の言葉を聞き、貴子はいよいよ、真理絵に男がいるのではないか?と直感で察知し始めていた。
貴子が、必死で娘の身を案じている同時刻。
彼女は橋本哲太のアパートに居た。
「それじゃ、これが部屋の鍵な。それから、なにか必要な物を買いに行く時は、その引き出しに茶色の封筒があるから、その金を使ってくれ。」
そう言うと、哲太は真理絵に部屋の鍵を渡した。
「ごめんね。哲ちゃん。こんな事までさせちゃって…。」
真理絵が哲太に謝った。
「気にするな。それより俺はマルセルの方が心配だよ。医者の話によると、極度の疲労と過労だそうだ。きっと母親が亡くなった事や、連日のコンサート。それに声が出なくなったと色々な不安が重なっただろう?ついに、ダウンしちまったんだと思うよ。」
彼は真理絵にそう言うと、マルセルの方を向き、憐みの表情を浮かべた。
その後、哲太は、真理絵に全てを任せ、夜のバイトへと出掛けて行った。
彼の、階段を駆け下りていく足音が消えていくのを耳で確かめた後、真理絵は隣の4畳の部屋へ行き、そこの布団に眠っているマルセルを確かめ、その傍へ静かに座った。
彼はひたすら眠り続けている。
その表情はとても苦しそうだ。
額には脂汗がにじんでおり、真理絵が冷たいタオルで彼の顔を拭っても、また汗が途切れなく噴き出してくる。
その表情を見つめる真理絵の心は痛いほど辛かった。
そんな気持ちに打ち勝つように彼女はマルセルの為に、氷を砕いたり、お粥を作ったりした。
だが、彼は一向に目を覚まそうとはしなかった。
時計が、夜の9:00を指していた。
もう此処に来てから3時間ほど経過している。
しかし、依然として、彼と彼女の間には静寂の時が存在していた。
ただ、時計の針を動かす音だけが定期的にコチコチと聞こえるだけだ。
真理絵は思った。
これがマルセルキスクであろうか。
これが、サベージパンプキンでは、常にヴォーカリストとして活躍し、そしてヘビーメタル雑誌では堂々と自分の考えを主張し、自分のポリシーをいつも大事にしていたアーティストであろうか?
これが、私の憧れたマルセルキスクなのだろうか?
あの、写真のような笑みはどこにも存在しない。
あるのは、全てに傷ついてどうしたらよいかも分からず今、自分の迷路をひたすら歩いている男の姿だけだ。
真理絵の目から、涙があとからあとからとめどなく、溢れ出てきて止まらなくなった。
一生懸命止めようとしたが無駄であった。
どうしよう…どうしよう…!私は本気でマルセルのことを…!!
マルセルには、ドイツに帰れば素敵な恋人が待っていることは、雑誌で知っていた。
だから、この人は諦めなければならない人ということも、分かっている。
分かっているけれども!!
今までは、普通のファンと同じ気持であった。
マルセルは高根の花だった。
だから決して届かない人だからこそ、その姿は鮮烈に真理絵の心に残ったのだ。
しかし、いざ蓋を開けてみると、あんなにも憧れていた彼も普通の人間だったということに、真理絵は気づかされたのだ。
その本心に気付いてしまった彼女の心は、彼に対して本気になってしまったのだ。
真理絵は、その思いを懸命に打ち消そうと試みたがそうすればするほど、彼女の心の中にはマルセルが好きだという感情が大きく広がっていった。
涙がとめどなく流れてきた。
駄目よ!冷静にならなきゃ!頭を冷やしてもう一度よく考えてみるのよ。この人は、ドイツのヘビーメタルミュージシャン。
私は単にこの人のファンで、ファンとしてあくまでも、役に立ちたいな・・・と思っただけなんだから・・・その初心を忘れちゃいけない。
・・・そうよ!自分に言い聞かせるように相槌をうっていると・・・その様子をマルセルがずっと見ていた。
「マルセル!!」
飛び上がるような声を出す真理絵。
「お、おはよう。き、気分は?もうよくなったの?」
思わぬ醜態を見られたことに、収拾がつかなくなった彼女は、とんちんかんな言葉を述べた。
「どうして泣いているの?」
マルセルが聞く。
真理絵はマルセルに言われて、まだ自分の頬に涙があることに気付き、慌てて手の平で拭った。
「…なんか、目にゴミが入っちゃって…。私のことはいいんだってば。マルセル、もう大丈夫なの?」
「夢を見ていたんだ。」
マルセルは回想するかのように呟いた。
「夢?」
彼の意外な言葉に真理絵は幾分冷静になった。
「辺りが物凄く白くて、俺はその中をたった1人で歩いていた。すると、向こうから声が聞こえるんだ。何だろう。そう思って足早に声がする方へ行ってみた。すると、そこにはヘレナがいたんだ。ヘレナは俺に向かって微笑んだ。俺はヘレナのもとに行こうとした。でも、行けないんだ。よく見ると、俺とヘレナの間には、見えない透き通ったガラスの壁が貼ってあり、それが邪魔してどうしても向こう側に行く事が出来ない。俺は必死になってその壁を叩き、ヘレナを呼んだ。でも、彼女はこちらに来ようともしないで、とうとう誰かに強引に連れて行かれてしまった。俺は…それを、止める事も出来なかった…。」
そう、話すマルセルの顔は、夢の中の出来事なのに、まるで現実にあったように重苦しい表情であった。
真理絵は辛そうな彼を見ていると、泣き出したくなるほど苦しい気持ちになった。
彼が、母、ヘレナに対して、どのくらい悲しい心境になっているか、マルセルのその夢が、如実に語っていた。
真理絵は敢えて、その話を避ける事にした。
これ以上苦しんでいる彼に追い打ちをかけるような言葉は出したくなかったし、まず何て言ったらいいか、言葉が見つからなかったからだ。
しばらくすると、哲太が帰ってきた。
哲太は元気そうなマルセルの顔を見るととても喜び、アルバイト先でもらって来た肉まんとあんまんを彼に差し出した。
マルセルは初めて食べるこのまんじゅうを最初繁々と見て居たが、真理絵達が食べている姿を見て、安心したようにちぎって食べ始めた。
「肉まんとあんまんは、こうやってかぶりつくから旨いんだぜ。」
哲太がそう言いながら、マルセルに食べ方を表現する。
するとマルセルもちぎって食べるのを止めて、丸のままかぶりついた。
3人で肉まんとあんまんを一つづつほおばった後、真理絵は帰り支度をしアパートを出た。
途中まで哲太が彼女のことを送ったが、彼の話を真理絵は上の空で聞いていた。
今の真理絵には、人の話を聞く余裕すらなかった。
自分の本当の気持ちに気付いてしまったショックで、哲太の言葉が耳に入らなかったのである。
家に帰ってからも、真理絵はただ放心状態であった。
貴子はそんな彼女に何かあったのか?と聞くのだが、彼女はただ首を横に振って俯くだけで、自分の部屋へと上がってしまった。
部屋へ入ると、服があちらこちらに散らばっていた。
それをやっとの思いで片付けて、普段着に着替え、化粧を落とし、フーっ!と溜息をつきながら寝転ぶ。
そして、ファーのバックから哲太のアパートに行く途中で買った、『ミュージックスピリッツ』というヘビーメタル専門雑誌を出し、パラパラと捲った。
時計は深夜の0:00を指していた。
やはり、ミュージックスピリッツにも、マルセルの失踪事件について特集で載っていた。
彼は今何処に居るのか?日本中がその話題で持ちきりだ。
サベージパンプキンのメンバーがインタビューで「帰ってきてほしい。」と答えている。
真理絵はその悲痛な面持ちのメンバーの顔を見ながら、彼らに対して一種の罪悪感を抱いた。
私さえかくまわなければ…冷たく突っぱねれば良かったのかしら…。
その時彼女は、世界中の人々の視線が重くのしかかってくるような錯覚を覚えた。
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