夢見の魔女は皇帝と気持ちを通わせる

 リリアナが戻ると、ベルンハルトは大層ご機嫌斜めだった。知らない間にリリアナが姿を消したのがよっぽど気に食わなかったようだ。


「陛下、申し訳ありません」

「……よい」


 おずおずと謝罪するリリアナの方を見ようともしないベルンハルトの様子に、リリアナは途方に暮れた。口では『よい』と言っているのに、態度は完全に真逆だ。


 夕食はリナト国の伝統的な工芸品が飾られた小綺麗な部屋で、テーブルにはリナト国の名物料理が沢山並んでいた。本来なら楽しい食事の時間の筈が、無言で黙々と食事を口に運ぶベルンハルトの様子に胃がキリキリと痛む。

 リリアナは少しだけ食べるとフォークとナイフを動かす手を止めた。気持ちの問題なのか、紙でも食べているような感触で全く味がしなかった。目の前のベルンハルトは控えている給仕人に何かを伝えると、給仕人は仰々しく頭を垂れて下がって行った。


「戻るぞ」

「はい」


 リリアナは大人しくベルンハルトに従った。ハイランダ帝国と同じく大皿に盛られた料理は殆ど手付かずで残っていたけれど、食欲もない。あの料理はどうなってしまうのだろうと思ったけれど、リリアナは自分が心配しても仕方のない事だと気づき頭を横に振った。


 部屋に戻ると、扉が閉まるやいなやベルンハルトはリリアナの方を向き手首を掴み上げた。そのままドンと壁に押し付けられた。容赦なく力がこもったそれにリリアナは痛みを感じた。


「痛っ!」

「なぜ何も言わずにいなくなった!」


 ベルンハルトは顔を歪ませたリリアナの顎を掬うと噛みつくような口づけをしてきた。前触れも無く突然始まったそれにリリアナは翻弄される。余りの激しさに生理的な涙が流れた。ようやく終わると今度は痛いくらいに力強く抱きしめられた。


「俺を………な」

「はい?」


 耳元でボソリと呟かれたベルンハルトの声は小さすぎて聞き取れない。


「俺を…置いていくな。いやだ。もう、一人はいやだ」


 今度はしっかりと聞き取れた、懇願するような小さな震える声に、リリアナは目を瞠った。

 リリアナの肩におでこをぐりぐりと押し当てるベルンハルトはリリアナよりずっと体が大きい。それなのに、まるで小さな少年のように感じた。それと同時に、なぜ一言だけでも声を掛けなかったのかとひどく後悔した。


 リリアナはおずおずとベルンハルトの背に手を回し、背中を優しくさすった。


「陛下。私は決して陛下を残して消えたりはしませんわ」


 リリアナの囁きに、ベルンハルトは身体をピクリと揺らす。リリアナはその態度で自分の予想が正しいことを悟った。ベルンハルトはかつて一人だけ残されて家族を失った。異国で前触れなくリリアナが突然姿を消し、ひどく心配したに違いない。また一人残されるのではときっと不安だったのだ。


「私はいつまでも陛下のお側におります。離れろと言われても離れませんわよ?」


 リリアナはぴったりとくっついていた身体を少し離してベルンハルトに微笑みかける。ベルンハルトの腕は意外なほどすんなりと力を緩めると、泣きそうな顔をした。


「……悪かった」


 リリアナの手首を見てひどく落ち込んだ表情のベルンハルトはリリアナの腕を今度は優しく掴むと、その手首をさすった。リリアナの手首はベルンハルトに容赦なく掴み上げられたせいで青あざが出来ていた。


「痛かっただろう? 治癒魔法を使えるナエラ嬢を連れてこればよかった」


 ベルンハルトは苦しげに唇をかんだ。リリアナは治癒魔法を使えるが、それは本人には効かない。リリアナは叱責するかわりに、ベルンハルトの頬をそっと両手で包み込んだ。


「陛下、私が陛下に与えた痛みに比べればこれくらい大したことはありません。でも、あとが残ってしまいましたわ。これはきっと二、三日は消えませんわね。仕返ししても?」

「仕返し?」


 ベルンハルトはリリアナを不安そうに見返した。


「そうだな。俺が悪かった」


 ベルンハルトはそっと目を閉じる。この時、ベルンハルトはリリアナに平手打ちでもされると思っていた。平手打ちなど母親であった前々皇后からも、義母であった前皇后からもされたことはない。身構えていると、唇にふにっと柔らかいものが触れた。


「これでおあいこです。仲直りでよろしいですよね?」


 目を開けるとリリアナはベルンハルトを見つめてにっこりと笑っていた。ベルンハルトはそっと自分の唇を指で撫でた。


 リリアナはどんなに拒絶してもベルンハルトの内面に土足で上がり続けてきた。殻に閉じ籠もったベルンハルトをいつも優しく包み込み、外に出そうと促す。その逞しさを最初、ベルンハルトは鬱陶しく感じていた。しかし、いつの頃からか次第にベルンハルトにとってとても心地よいものへと変わり、安心感を与えるものになっていた。


「ああ、仲直りだ。リリアナ、俺はお前を一生離してやれそうにない」

「離す必要がないから問題ありませんわ。だって私、陛下を愛しておりますもの」


 リリアナの通常運転の返事にベルンハルトは思わず噴き出した。そして、リリアナの髪にそっと触れて指に絡めた。身体の線に合わせて波打つシルバーブロンドの髪は流れ落ちる水のように美しい。

 そのとき、トントンとドアをノックする音が聞こえてリリアナとベルンハルトは顔を見合わせた。ベルンハルトはリリアナから身体を離すと入室の許可を出した。


「お待たせ致しました」


 ドアの前でお辞儀をした給仕人が持ってきたのは様々なスイーツだった。焼き菓子からフルーツまで色々と用意されている。給仕人は部屋のダイニングテーブルにそれらを綺麗に並べていった。


「リリアナは先ほどの食事があまり口に合っていなかっただろう? 甘い物なら食べられるかと思って用意するように言付けたのだが……」


 リリアナは予想外のことに目を丸くした。そして、夕食の場所でベルンハルトが最後に給仕人に何かを伝えていたのはこれだったのだと考えが至った。


「先ほどは作ってくれた料理人に悪いことをしました。沢山残してしまって」

「いや、あれはあれでいいんだ。リナト国は毒味係を除いて基本的に身分の高い者から順番に食事をとる。あの大皿の残りはあの後に他の者達が食べるんだ」

「そうなのですか?」


 リリアナは心底ホッとした。料理人に悪いことをしたと気に揉んでいたのだ。それと同時に、ベルンハルトの自分に対する気遣いが身に染みた。ベルンハルトはいつもなんだかんだ言いながらリリアナを気に掛けてくれる。


「陛下はやっぱりお優しい。いつも私を気にかけて下さいます。そんな陛下が好きです」


 まっすぐにベルンハルトを見上げて笑顔でそう言ったリリアナをベルンハルトは見返し、僅かに目を伏せた。


「俺もリリアナが好きだ」

「へ……?」


 リリアナは驚きで目を見開いた。想像すらしていなかった返事に、驚きのあまり口をポカンと開けてベルンハルトを見上げた。


「俺はリリアナが好きだ。その愛らしい見目も、底抜けに前向きな性格も、全て愛しく感じる。もう認めよう。俺の負けだ」


 ベルンハルトは今度は先程よりはっきりと、リリアナの目を見てそう告げた。

 その言葉を反芻して、リリアナは両手で口を覆った。ベルンハルトの顔は真剣で、冗談を言っているようにも見えない。初めてベルンハルトに出会ってからの日々が脳裏に蘇り、感激で思わず涙がこぼれ落ちた。


「リリアナが居なくなったかもしれないと思った時、目の前が真っ暗になった。俺はお前を一生離してやれそうにない」

「離す必要がないと申し上げました。死ぬまで陛下のお側におります」

「……そうだったな。では俺も死ぬまでリリアナの傍に居よう」


 ベルンハルトは目尻を下げてリリアナに微笑みかける。指でリリアナの涙を掬い取ると、口を覆うリリアナの手を優しく外した。ゆっくりと顔が近づいて唇が軽く触れる。そっと触れただけのそれに、リリアナは今までで一番の幸せを感じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る