夢見の魔女、前皇后の日記を読む

 夕食を終えて湯浴みを済ませると、リリアナは人払いをした部屋で昼間見つけた日記を開いた。最初のページを開いてすぐ、リリアナは眉をひそめた。


『この日記を愛する皇帝陛下に捧ぐ


 万が一に備えてこの日記をしたためる。


 私以外がこの日記を開くとすれば、私はもうこの世に居ないかもしれない。皇帝陛下とハイランダ帝国の末永い繁栄のため、この記録を不正の証拠として遺します。


 どうかこの日記を手にしたものはこれを皇帝陛下に渡して欲しい。


 ハイランダ帝国皇后 エミュレ』


 リリアナは一度日記を閉じて表紙を眺めた。真っ黒の革製のカバーはどこにでもある高級紙のノートに見える。しかし、これはただの日常生活を記した日記で無いことは最初のページを見ただけで何となくリリアナにも想像がついた。


 皇帝陛下は今現在ベルンハルトだ。しかし、日記が書き始められたのはハイランダ帝国歴二百十五年となっている。今から約六年前、ベルンハルトが即位する前のことだ。つまり、これは自身に何かがあった際に前皇帝陛下に捧ぐために前皇后陛下が書きしたたためたものだ。


 リリアナはクーデター事件の時、当時の皇帝やその他の人がどうして亡くなったか詳しい話は知らない。しかし、人々が触れたがらない事実があったことは何となく察している。少し迷ったが、リリアナは意を決してその日記を読み始めた。



『ハイランダ帝国歴215年**月**日


 初日。

 陛下から密命を賜る。この国で恐ろしい陰謀が渦巻き始めているという。私の使命は陛下への愛を失って尚、他人からの愛情を求めるおろかな皇后を演じ、反逆者を誘き出すこと。上手く出来るだろうか? しかし、愛する陛下の期待にお応えするためにもやるしか無い』


 ──……


『ハイランダ帝国歴215年**月**日


 10日目。

 なにも変化は無く日常は過ぎている。わかってはいたけれど、この計画が始まってから陛下のお渡りが無い。不仲説に信ぴょう性を持たせるためとはいえ、淋しくて堪らない。今日は侍女達の前で大袈裟に陛下の渡りが無くなったことを嘆いて見せた。皆十日くらいで大袈裟だと言ったけれど、これまでの陛下の渡り具合から考えれば十日もお渡りが無いのは異例だ。早く反逆者が釣られてくれないと淋しくてどうにかなりそうだ』


 ──……


『ハイランダ帝国歴215年**月**日


 15日目。

 早くも皇帝陛下の夜のお渡りが無いことが噂になりはじめた。何人かの貴族が娘を側室にあげようと動き始めているようだ。陛下に側室なんて耐えられないわ。陛下に優しく抱きしめて欲しいけれど、今は我慢するしか無い。宰相が怪しい臣下リストを作るらしい。作るなら、早くして欲しい』


 ──……


『ハイランダ帝国歴215年**月**日


 18日目。

  公式なお渡りはやっぱり無いけれど、昨晩陛下がこっそりと訪ねて来て下さった。久しぶりの陛下の温もりはやっぱり安心する。これからもこっそりと会いに来て下さるそうだ。陛下も私と一緒に過ごせないことに心を痛めていると聞いて喜びに震えた。早くこんな密命を終わらせたい。だから、今日は宰相の作ったリストに名があった大臣や側近達が見える場所でわざと悩ましげな顔をしてくるぶしまであらわにしてみた。皆見ていない振りをしていたけれど、見ていたことはわかっている』




 リリアナは十八日目まで読んだところで顔を上げた。毎日欠かさずに書いているが、半分はいかにその当時の皇帝陛下を愛しているかの想いの吐露、残りの半分は密命の進捗具合といった具合だ。

 この日記から判断するに、後のクーデター事件に繋がるような反逆者が居ることに気付いた皇帝陛下は、宰相が行っていた調査と並行して妻の皇后に色仕掛けによるあぶり出しを依頼した。皇后はその密命を受けて皇帝陛下との中が冷え切った淋しい皇后を演じ、反逆者を釣ろうとしていたと言うことのようだ。


 リリアナは時計を見てベルンハルトが来るまではまだ時間があることを確認すると、もう一度日記を開いて続きを読み始めた。



『ハイランダ帝国歴215年**月**日


  25日目。

  殿下がまた体調を崩された。お見舞いに行くと、いつになく顔色が悪い。あぁ、お可哀相な皇太子殿下! いっそのこと代わって差し上げたい。殿下は私の顔を見ると心配そうに眉をひそめ、『無理をしないように』と言った。皇太子殿下は陛下に似てとても聡い。私達夫婦の最近の噂の理由も全て察しているようだった。次期皇帝がこのような賢者であることは喜ばしい限りだ』


 ──……


『ハイランダ帝国歴215年**月**日


  32日目。

  今日の御前会議でハナブル伯爵が娘を側室に入れることを陛下に進言したという。ハナブル伯爵令嬢はまだ16歳の筈。ベルトと殆ど一緒だわ。可愛い娘を父親と同じ年頃の、しかも側室にしようだなんて、あの人は人でなしだわ。けれど、娘を側室に入れることを打診するくらいなら陛下を皇帝位から引きずり下ろすことは考えていないはず。ハナブル伯爵はシロだ。私はもちろん、側室の受け入れに合意するつもりは無い。陛下もそれで良いと言ってくれた』


 ──……


『ハイランダ帝国歴215年**月**日


  36日目。

  今日、廊下を歩いていたらビリング侯爵に声を掛けられた。少し立ち話をして陛下のお渡りが無いことと陛下が側室を娶るかもしれないことを嘆いてみせたら手を握られ、甲を撫で回された。皇后である私に対してなんたる不敬かと怒りが湧いたが、何とか理性でその怒りは抑えつけた。側近でありながらもし皇后である私を誘惑しようなどと考えているのならば、彼は立派な反逆者だ。ビリング侯爵の事はすぐに陛下に報告した』


 ──……


『ハイランダ帝国歴215年**月**日


  41日目。

  ビリング侯爵に皇室専用の庭園に来るように呼び出された。あそこは皇室専用であり、ビリング侯爵は側近であるから入れる許可があるだけだ。なんという不敬だろうか。

 熱っぽい目で見てきて本当に寒気がした。万が一口づけされたら思わず引っぱたいていたと思うわ。ビリング侯爵は私が胸元に寄り掛かると肩を抱いてまるで自分の女で在るかのように扱ってきた。私は陛下の女であり、それ以外には成り得ない。あの男が黒幕だろうか?』


 ──……


『ハイランダ帝国歴215年**月**日


  47日目。

  ビリング侯爵が皇位継承権の話をしていた。陛下が居なくなった場合、第1位は皇太子殿下、第2位はベルト、第3位はなんとわたくしだという。そう言えばそうだったわ。

 いやらしい目で私を見つめて愛を囁いてくるこの男はもやは黒幕にしか見えない。きっと陛下と2人の皇子を殺せば私と結婚して自分が皇帝になれると思っているのだ。けれど、そうは問屋が卸さないわ。こんな男の妻になるなら死んだ方がマシね』


 ──……


『ハイランダ帝国歴215年**月**日


  50日目。

  陛下と宰相にはビリング侯爵が黒幕だとお伝えしたのだけど、この密命はまだ続くようだ。陛下と宰相は何を気にされているのだろうか?

 昨晩、陛下は私の寝所をこっそりと訪ねてきて散々甘やかして下さった。ああ、陛下。私に触れて良いのは陛下だけなのに。あんな男には指一本ですら触られるのは不本意だけれど、陛下のためにもう少し頑張ろうと思う』


 ──……


『ハイランダ帝国歴215年**月**日


 54日目。

 ビリング侯爵が気になることを言っていた。軍に自分の支援者が居ることを示唆したのだ。確かにビリング侯爵1人の力では陛下と2人の皇子を殺すことなど到底無理だ。ビリング侯爵は今日遂に私の唇を奪ってきた。疑われないように耐えるしか無かったけれど、吐き気がしたわ。

 ところで、ビリング侯爵と密会している現場を皇太子殿下とベルトに見られた。皇太子殿下がすぐに状況を察してベルトも連れて行って下さったけど、大丈夫だろうか? あの子はまだ周囲から状況を読み取るほど大人では無い。心配だ』


 ──……


『ハイランダ帝国歴215年**月**日


 60日目。

 陛下と宰相はビリング侯爵と内通している軍幹部の特定に難航しているようだ。この30日間でビリング侯爵が接触した軍幹部はラング将軍とワイル副将軍も含めて15人にも上る。1人1人潰していくのはかなり時間がかかるようだ。でも、ラング将軍とワイル副将軍は代々我が国の軍事を担う名家出身。さすがにシロだと思うわ』


 ──……


『ハイランダ帝国歴215年**月**日


 68日目。

 依然としてビリング侯爵と内通している軍幹部がわからないようだ。今日からラング将軍が国境地帯に戻る。陛下と宰相はラング将軍にこの件を伝えるか迷ったようだが、黒幕がわからない以上はラング将軍も例外では無いとして伝えないようだ。

 後どれ位この密命は続くのだろう。早く陛下と元の生活に戻りたい』



 残り数日まできたところで、リリアナはガチャンと扉が開く音がして顔を上げた。いつの間にか扉のところにベルンハルトが立ってこちらを覗っていた。


「寝所に居なかったので見に来たのだが……リリアナはまだ寝ないのか?」

「いえ、寝ます。お待たせして申し訳ありません、陛下」


 リリアナは読んでいた日記を閉じると、笑顔でベルンハルトに駆け寄った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る