第二章 夢見の魔女は皇帝と距離を縮める
夢見の魔女、皇帝と初めて一夜を過ごす
リリアナはすっかりと整理された部屋を見回して満足げに頷いた。リリアナは皇后になったことで、これまでの客人用の部屋から皇后用の部屋へと引っ越しをしたのだ。
皇后用の部屋は皇帝の私室の並びにある。ハイランダ帝国では皇帝は一人の皇后と二人の側室を持つことが出来るが、皇帝の私室の傍に自分の部屋を持つことが出来るのは皇后のみだ。宮殿の執務室や政治が行われるエリアとは別の奥まった場所に位置しており、静かで陽当たりもよい。そして、ここまで入ることが許されるのは皇帝と皇后の侍女及びごく限られた側近達だけに限られる。
リリアナも婚姻式を挙げて皇后になったこの日に初めてこの部屋を訪れた。元々の客室に置かれていた私物は婚姻式の最中に全て運び込まれており、広さはこれまでの三倍程ある。家具は前皇后の時代からのものをそのまま使うことになるが、しっかりとした造りをしていて全く問題はない。
私室には続き扉がついており、そこは皇帝を迎えるための寝室になっている。側室用の部屋とは異なり朝まで皇帝と同衾することを前提とした大きな天蓋付きベッドがかおかれているのも皇后のみだ。あらゆる意味で、側室と皇后では明確に立場が異なるのだ。
とは言っても、今のところベルンハルトには側室は居ないし、娶る場合も皇后であるリリアナの同意が必要になる。リリアナがそれに同意することはもちろんあり得ない。
「リリアナさま、そろそろご準備を」
リリアナを静かに促すのは部屋に控えるハイランダ帝国側が手配した侍女達。これまではサジャール国から連れて来た侍女達がリリアナのお世話をしていたが、今後はそうはいかない。ナエラを残して他の者達はハイランダ帝国の侍女達に変わるのだ。
準備と言われてリリアナはカーッと頬が赤くなるのを感じた。ベルンハルトは未だに婚姻式後の晩餐会に参加しているが、リリアナはこの後の準備のために先に部屋に戻った。一国の王女として様々な教育を受けてきたリリアナは男女の色々について最低限の知識は持っている。当然、これから自分とベルンハルトの間で行われることもわかっている。しかし、否が応でも緊張はする。
戸惑うリリアナの気など知らぬ様子で侍女達はあっという間に服を剥いでリリアナを風呂に入れる。全身くまなく磨き上げ清められたところで丁寧に塗り込められた上質な香油はこれまで付けたことが無いような魅惑的な香りがした。
「陛下はいらっしゃるかしら?」
大きな寝室のベッドにポツンと座るリリアナは不安げに呟いた。着せられたガウンは白い絹製で、ハイランダ帝国の新皇后の初夜の伝統的な衣装だという。
婚姻式は無事に終わった。今やリリアナは対外的にはハイランダ帝国の皇后であり、ベルンハルトの妻だ。しかし、リリアナは未だにベルンハルトが自分を妻として受け入れてくれるかが不安だった。もしかしたら今夜は来てくれないかも知れないという覚悟もしていた。
時計の振り子の揺れる音が異様に大きく聞こえる。胸がドキドキする音まで聞こえてきた気がしてリリアナは緊張のあまり心臓が止まってしまいそうな程だった。
「いらっしゃらないわ……」
どれ位待っただろう。一向に現れないベルンハルトの姿に、リリアナは半ば諦めの気持ちが湧いてきた。来ないとわかると気持ちの緊張も自然と緩む。リリアナは婚姻式の後の晩餐会で殆ど食事出来なかったので空腹を感じてきた。
「お腹がすいたわね……」
リリアナは寝室の中を見回した。天蓋付きベッドの脇にあるソファーセットのローテーブルには水さしとコップ、蒸留酒とちょっとしたナッツやクッキーなどのお摘まみが置かれている。
「食べちゃってもいいかしら?」
リリアナは摘まみ食いしようとソファーセットに座り、何があるのかの物色を始めた。夢中で選んで最初のナッツを口に入れてもぐもぐと咀嚼しているところでリリアナの入ってきたのとは違う扉が開く。誰かが入ってきた事に気付き、リリアナはギクリとして動きを止めた。
錆び付いた蝶つがいのようなぎこちない動きで視線を向けると、リリアナと同じく伝統的な白いガウンに身を包んだベルンハルトがこちらを眺めていた。
「へ、陛下!」
リリアナは慌てた。これまで五回の婚約を経て結婚に至ったリリアナは婚約するたびに、『新妻たるもの初夜はベッドの端に座り、万を期して殿方をお迎えするように』と教え込まれた。それが、まさかのスナック菓子を摘まみ食いしながら出迎えるという不手際にさーっと血の気が引くのを感じた。
慌ててその場に立ち上がりベルンハルトに向き合い頭を垂れると、タイミング悪く『ぐー』と腹の虫がなる。
「も、申し訳ありませんっ!」
あまりの間の悪さに泣きたくなった。ベルンハルトが何も言わないことを不審に思い、恐る恐る顔を上げるとベルンハルトは顔を片手で覆って肩を揺らしていた。
「あの……、陛下?」
「ははっ、腹が減っているのか。確かにあの晩餐は殆ど食べられなかっただろう」
「いえ、あのっ…、治りました」
「治るものか。よし、俺が飲み直したいから一杯作ってくれ」
ドサリと隣りに腰を下ろしたベルンハルトにリリアナは困惑した。飲み直したいの言うのは明らかにリリアナの不手際をフォローするための方便だろう。
「申し訳ありません……」
リリアナはお酒など自ら作ったことは無かったが、魔法で水差しの水から氷塊を作りグラスに入れると蒸留酒を上から注ぎ、それをベルンハルトに手渡した。兄のクリスフォードがこうやって飲むのをいつも見ていたのだ。ベルンハルトはそれを受け取ると訝しげにグラスを回して中を覗いてから少しだけ口を付けた。
「ふむ。サジャール国の飲み方か? 悪くない」
「ハイランダ帝国では違うのですか? 兄がいつもそうやって飲んでいるのを見たので……」
「ハイランダ帝国の人間は魔法を使わないから氷は作れない。水で割る。だが、これも悪くない」
ベルンハルトはカランとグラスを鳴らすともう一度蒸留酒を口に含んだ。
「こんなものでよければいつでも作って差し上げます」
「ああ、頼む。腹が減っているのだろう? 食べろ」
ベルンハルトはリリアナにクッキーを勧める。リリアナはまたお腹が鳴っては堪らないと有難くそれを頂く事にした。もしゃもしゃとそれを食べると、口の中に甘さが広がった。
「実は、つい先程まで陛下はいらっしゃらないかも知れないと思ってました」
ベルンハルトは蒸留酒のグラスをローテーブルに置くと、少し首をかしげて涼しげな目元でリリアナを見つめた。
「婚姻式の日に花嫁の元に行かないのは流石に周囲にあらぬ憶測を呼ぶだろう。来ないで欲しかったのか?」
「いえ! 来て欲しかったです!!」
勢いよく言ってからリリアナは自分がとんでもなくはしたない事を言っているのとに気付いて慌てふためいた。ベルンハルトは目を丸くしていたが、意味ありげに口の端を持ち上げる。リリアナの好きな目尻が下がる笑い方ではなく、意地の悪い笑い方だ。
「普段からあれだけ熱烈に俺に言い寄るのだから、今宵はさぞかし魅惑的に誘ってくれるのであろうな?」
「え…? あの……」
リリアナは最早限界に近かった。普段だって自分に振り向いて欲しい一心で恥ずかしい気持ちを押し殺して毎日毎日ベルンハルトに愛を囁いているのだ。一国の王女であるリリアナに、このような閨での睦言、しかも女性から男性を誘う言葉など知るよしもない。
「べ、勉強して参りますわ!」
「今からか?」
リリアナはぐっと言葉に詰まる。確かに今からその手の手引書を手配して読んでいては夜が明けてしまう。なんたる準備不足かと己の不甲斐なさに呆然とした。
「冗談だ。少し
力強く抱き寄せられて唇が重なる。リリアナにとっての初めての口付けは熱く、そして少しアルコールの味がした。
「へ、陛下っ」
ベルンハルトの目尻が優しく下がり、再び唇が重なった。リリアナはベルンハルトは酔っぱらっているのだろうと思った。それでも、あの日のような優しい眼差しが自分に向けられた事にリリアナの心は喜びに震える。
その日、リリアナは名実ともにハイランダ帝国皇帝ベルンハルトの妻となった。
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