夢見の魔女、執務室に押しかける
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宮殿の鍛錬場にカンッ、カンッ、キンと言う軽快な剣の音が響く。打ち合いをしていた二人の若者はほぼ互角であったが、徐々に一人が押され始めた。
勝負は一瞬のことだった。カキンッという音と共に、一方の腕から剣がふき飛ばされた。
「勝負あり!」
審判をしていた近衛隊員の声に、ベルンハルトはその剣を
「大丈夫ですか、兄上」
手を差し出すと兄である第一皇子はその手をぐっと握り返した。
「ついこの前まで互角だったのにな。もう俺ではベルトの相手にならない」
「何を仰いますか。兄上は強い」
ベルンハルトの慰めに、第一皇子は転んだときについた埃を叩きながら首を横に振った。
「何を言う。ベルトは今、本気ではなかっただろう?」
ベルンハルトはぐっと言葉に詰まる。さすがに自分が負けるのはすぐにやらせだと悟られると思い勝ちに行ったが、聡い兄はそれでもお見通しだったようだ。第一皇子はベルンハルトの肩をポンと叩き、「強くなったな」と微笑んだ。
「兄上、お身体の加減は?」
「すこぶるよい。今日は楽しめた」
近衛兵に持っていた剣を手渡すと、第一皇子はベルンハルトにも戻ることを促す。ベルンハルトはすぐに第一皇子の後を追い掛けた。
「ベルト。最近セドナ国との国境付近がきな臭い。何にもなければ良いが」
「俺が軍を率いて叩きのめしてやります。ラング将軍に言って前線に出ましょう。ハイランダ帝国の強さを見せしめてやります」
第一皇子はそれを聞くと困った子供を見るかのように眉尻を下げた。
「ベルト、軍事の力に頼り切るな。戦いは戦いを、憎しみは憎しみを呼ぶ。先入観で相手を見ると大切なことを見逃す可能性がある。話し合いで何とかなるならそれが最善だ」
ベルンハルトは肩を竦めて見せた。兄上は頭がいい。脳筋のベルンハルトとは違い、いつもまわりを冷静に
宮殿の中でも皇族とごく限られた重鎮しか入れない庭園に差し掛かったとき、ベルンハルトはひそひそと話し声がするのに気付き足を止めた。第一皇子にも聞こえたようで足を止め、険しい顔をしている。
何かの密会現場かと思いそっと近づいて様子を窺ったベルンハルトは予想外の光景に言葉を失った。ありふれた男女の逢い引きの現場。しかし、片方は自らの義母である皇后陛下だった。そして相手の男は父親である皇帝の側近の一人だ。普段は決して見ることのない皇后の女の顔を見て、嫌悪感から吐き気すら覚えた。
言葉を失うベルンハルトの肩を第一皇子はポンと叩くと首を左右に振って見せた。決して口外するなという意味だとベルンハルトにもすぐに察しがついた。
皇后陛下と国の重鎮、しかも皇帝の側近が許されない関係にあるなどと父親である皇帝が知ったら? あの二人は拘束され、最悪の場合処刑される。
第一皇子に無言で促され、ベルンハルトはそっとその場を後にした。
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目を覚ますと白井で天蓋が目に入り、ベルンハルトは顔を手で覆った。
あの時、父親である皇帝にこのことを報告しておけば……
ベルンハルトの中で、それは今でも重い枷となって心を沈みこませる。あの時、もしくはその後に一言でも言っていさえすれば、父親と兄上は死なずに済んだかもしれない。
表向きは父親である皇帝を立て、善良な国母を演じていた義母は父を裏切っていた。しかも、最悪の形でだ。
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リリアナのまっすぐに見つめるアメジストの瞳と凜とした口調が脳裏に蘇る。こちらを見つめるリリアナの表情は表面上は真剣だった。ベルンハルトとて未来の妻を信じたいという気持ちがないわけではない。しかし、手放しに信じるにはベルンハルトの受けた心の傷は深すぎた。
♢♢♢
皇帝であるベルンハルトには毎日謁見の時間というものが設けられている。地方の領主からの陳情やこの国の貴族からのご機嫌伺い、たまに他国からの使者も来たりする。
この日の謁見は四人ほどで、それぞれ西部地区のオーサ領主から街道の盗賊団の取締り強化の陳情、北部地方イワタと首都トウキを隔てる大河に橋をかけて街道整備を望む陳情、リナト国との国境線の軍配備を増強するようにとの陳情、輸入品関税を上げて国内製品を保護して欲しいという陳情だ。
どれもすぐに解決できる問題ではなく、然るべき会議で関係者と議論を行い方針を決める必要がある。それらの資料を作るのは文官の仕事だ。
謁見が終わればすぐに執務室に向かい山積みの執務をこなしてゆく。各大臣達からの報告書を読むだけでも何時間もかかるのだから、時間が幾らあっても足りない。
最初こそ全て自分で読んでいたが、こなすことが物理的に無理だと気付いてからは四人の側近に振り分けて要点だけを報告させている。それでも、執務は深夜になることも多かった。
「今日は夕食はいらん。リリアナ姫と給仕人に伝えてくれ」
ベルンハルトの言葉に側近のカールが無言で頷き席を立つ。厨房とリリアナの侍女に報せに行ったのだ。
リリアナは最近必ずベルンハルトと食事を共にしようとする。そして、他愛ない話をずっと笑顔でベルンハルトに語りかけてくる。
ベルンハルトは忙しくなると食事を抜くことも多かった。別にリリアナには報せなくても晩餐室に行ってベルンハルトが居なければおのずと今日は共に食事をとれないのだと気付くだろう。
しかし、晩餐室でベルンハルトが居ないことにがっかりして泣きそうな顔をするリリアナの姿が脳裏に浮かび、なんとなく報せる事にした。
暫くするとカールが戻ってきたので、ベルンハルトはリリアナのことは済んだ事だとしてすっかり安心していた。
どれくらい時間が経ったのだろう。執務に専念していると、扉をコンコンとノックする音がした。時計を確認すると時刻は既に午後七時を過ぎている。ノックしたのは側近の誰かだと思ったベルンハルトはすぐに入室の許可を出した。
「陛下! お待たせしましたわ」
ドアが開くや否や既に聞き慣れた鈴を転がすような声が聞こえる。書類に視線を落としたままだったベルンハルトは慌てて顔を上げた。目の前に現れたのは満面に笑みを浮かべたリリアナ。軽食とカトラリーを載せたトレーをゴロゴロと押しながら微笑むその姿にベルンハルトは目が点になった。
「……リリアナ姫。何をしている?」
「見ての通り、給仕ですわ」
「そうではなく、なぜ貴女がここで給仕しているのかと聞いている」
「だって、陛下が食事は不要だと仰ってると聞いたので居ても立ってもいられなくなったのです。
『
「短時間に食べやすいようにサンドイッチに加えて特製のニンニクたっぷりのスープを用意させましたわ。冷めないうちにどうぞ召し上がれ」
いつの間用意したのか執務机のソファーセットのローテーブルには真っ白なテーブルクロスが敷かれ、その上には色とりどりのサンドイッチとフルーツ、ちょっとした摘まめるオードブルに件の特製スープがセッティングされていた。
ベルンハルトが呆気にとられているとリリアナは小さく何かを呟く。その途端、ベルンハルトの目の前の執務机がローテーブルと入れ替わる。リリアナが魔法を使ったのだ。
「さあ、どうぞ」
「……」
「陛下、食べさせて差し上げましょうか? はい、あーん」
「い、いいっ! 自分で食べる!」
「そうですか?」
残念そうに唇を尖らせるリリアナ。ベルンハルトはもたもたするとリリアナが何をするかわかったものではないと慌てて食べ始めた。
「美味しいですか?」
「……あぁ」
「
リリアナは悲しげに目を伏せて呟く。そんなリリアナを見ていると、まるで自分がとても悪いことをしたような気がしてきた。
「……すまん」
「いえ、いいのです。こうして今、陛下とご一緒出来てますから」
一転して笑顔になりベルンハルトをうっとりと見つめるリリアナ。ベルンハルトは居心地の悪さを感じ、とりあえず目の前の軽食に集中する事にした。
食べる、食べる、ひたすら食べる。しかし、自らの執務室にも関わらず非常に居心地が悪い。
「……リリアナ姫、あんまり見ないで貰えるか?」
ベルンハルトはあまりの居心地の悪さに思わずそうもらした。
いつもならリリアナも食事をしているので視線は手元に集中する。しかし、今のリリアナはうっとりとベルンハルトだけを見つめているのだ。食事中に至近距離で極上の美女に凝視されるというのは、思った以上に苦行だった。
リリアナは眉間に皺を寄せた。
「なぜですの? 大好きな陛下が目の前にいるのに、見ないなんて無理ですわ。何時間でも見ていられます」
「……。俺が嫌なんだ。リリアナ姫は明日からはもうここへは来るな」
突き放しても懐に入り込もうとするリリアナを再度突き放そうとベルンハルトは不機嫌そうに眉をひそめた。女は皆この顔に怯える。しかし、ベルンハルトの不機嫌顔もリリアナにはどこ吹く風だ。全く怯むことなくにっこりとベルンハルトに微笑みかけた。
「それは陛下次第ですわ。陛下、きちんと食事をして休憩もとって下さいね」
「……」
「今度から二時間おきに紅茶とクッキーを持って来ようかしら?」
「とるっ。食事も休憩もとる!」
ベルンハルトの悲鳴に近い声が執務室に響き渡る。その日以降、ベルンハルトはどんなに忙しくても食事はきちんと取るようになったという。
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