第46話

 足元に確かな地面があることが分かった。目を開ける。ほの暗い空間が広がっていた。光源は天井にぶら下がる蛍光灯だけ。気道に届くのはいくぶんか埃っぽく乾燥した空気。うまく方向がつかめない。この地下駐車場のような場所で、どこへ進めばいいのか僕には分からなかった。ふと思う。これはまた騙されたのではないか。

 コツコツと歩く音が奥のほうから響いてくる。それは次第にカタチを伴って僕のほうへとやってきた。その黒服の男には見覚えがあった。死神と呼ばれる男だった。頬に大きな傷を負っているのは相変わらずのようだ。死神は僕の前に立った。

「『蓋』へと案内しよう」

「いいのか? 僕を殺したいんじゃないのか?」

「……、上からの命令だ。ついてこい」

 死神はそう言って歩き出した。僕はとくに逆らうことなくその背中を追った。

 

 味気のない広場を抜けると細い道につながった。その道は傾斜のある下り坂で、少しずつ地下奥深くへと向かっているのだと分かった。だいぶ肌寒くなってきたころ平坦な道にたどりついた。いくどかくねるように曲がってからふただび開けたところに出た。

 そこに出たとき、僕は息を飲んだ。奥は見えない。天井も見えない。ただただのっぺりとした薄暗闇が広がっていたのだ。死神はその中をしばらく歩いてから、立ち止まった。

「お前にはここに何が見える?」

 僕は死神は指差す先を見た。石造りの井戸があった。あの世界で見た井戸に酷似していた。

「井戸だ。おそらく水も入ってない」

「そうか。お前にはそう見えるのか」

「どういうことだ? アンタには何も見えないのか?」

「そうだ。オレのようなものにはまだ見えぬ。だから不適なのだ。お前には見えた。つまり資格があるということだ」

「意味が分からないね。しかしまあいいさ。それで僕にどうしろっていうんだ?」

「オレの任務はここにお前を連れてくることだ。この先はオレの仕事ではない」

 死神はそう言って来た道を引き返していった。取り残された僕は井戸の中を覗いた。底は見えず、水が入っているのかも判別できない。僕はため息をつく。このなかへと飛び込めということだろうか。

「やあやあ。キミは今とってもはしごが欲しいんじゃない?」

 僕の隣でそんな声がした。僕は横を向く。背丈が僕の方くらいの少女が居た。ニコニコと笑っていてその小脇には丸められた縄はしごを抱えている。

「キミは?」と僕は聞いていた。

「よく聞いてくれました。私はね、そう、この蓋の管理人」

 少女はそう言って胸を張った。

「ここにも管理人が居るのか」

「ここは世界で一番大切な『蓋』だからね。管理人のひとりやふたりつけちゃってもおかしくはないのだ」

「なるほど」と僕は頷いて少女を見る。小学生ほどに見えるその管理人は僕に縄はしごを差し出した。

「はい、これ。つかいなよ」

「ああ、じゃあ使わせてもらうよ」

 僕は縄はしごを受け取る。ごわごわした肌触りが腕に広がった。少し持ち直してから端にある大カギを井戸のふちにかける。しっかりと固定されているのを確認してからはしごを下ろした。少ししてから地面にぶつかる音がした。そこまで深くはないようだった。

 僕は振り返って管理人の少女を見た。彼女は僕に一連の作業を興味深そうに眺めていた。

「これでいいのかな?」

「いいんじゃない? キミが納得してるのであれば」

「そういうもんなのか」

「たいていのことはそういうものだ」

「それで僕はこの井戸の奥へと行く。するとどうなる?」

「教えて欲しいのかい?」と少女はいたずらっぽく笑った。

「ああ。出来れば仔細に語ってほしい。それが現実となるだろうから」

 少女は黙った。僕はポケットに手を入れた。

「キミじゃ、私たちを映せないよ。まだね。この奥に行って『蓋』になったらありええるかもしれないが」

「今そう決めたのか?」

「ふーむ。なんだか勘違いしているようだけど、語り部と言っても私たちは全知全能なわけじゃないのだ。結局私たちもルールに従う存在でしかないのだよ」

「話が違うな。お前らが現実を決めているのだと聞いた。前島さんをこの井戸の奥へと追いやり、そして僕をここへ連れてくる。そういう現実だ」

「私たちが語るのは過去のことだけだ。キミはここまで来た。だがこれから井戸の中に入るかは不明だ。私たちは知りえないし、知ろうともしていない。しかしキミは行動するだろう。私たちはそれを知り、語る。それだけなのだ」

「現在の一瞬前の過去を決定し続ければすべてを操れるんじゃないか? それなのに今までの、そしてこれからの僕の行動も束縛していないともいうのか?」

 少女は微笑む。後ろに手を組んで井戸の周りを歩き始めた。

「私たちが望むのは世界の安定。どうすればこの歪みきった世界を滅ぼすことなく回し続けられるか。過去を決定するのも歪みへの抵抗だ。過去すら歪まされたら何を信じればいいのだろう。この世界では誰かが世界の自己同一性を担保しなければならない。それを我々が担っているというわけだ。しかし一方では、我々は観測し記録をつけているだけとも言える。厳密なデータを求める科学者のように。条件を整え、観測という行為がなるべく影響を出さないに工夫をし、影響があったとすれば補正する。そういう厳密さだ。そのような厳密さこそが現実を現実たらしめると私たちは信じている」

「信じてる?」

「そうだ。私たちは信じている。もしかすれば神はこのような試みは無駄なことだと唾棄するかもしれない。この世界を滅ぼすために『歪み』を作ったのだと。だが我々はそうだとしても抗うだろう。世界を改変し、そして適応することこそが人間の本質であり本能だからだ。キミもそうだろう?」

 少女は立ち止まり、僕に笑いかけてきた。僕は問いかける。

「アンタたちが観測結果を補正するとき何を理論としているんだ? 理論値を持たないかぎり補正などという言葉は出ないはずだ。お前たちはあくまで私利私欲でしか動いてない。そうじゃないのか?」

「簡単な話だ。可能な限り多くの人間が生き残る。それが我々の理論値だよ」

「その結果、切り捨てられる人間も居るというわけか」

「『世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない』だとすれば仕方がないことだと思わないかい?」

「それは誰かを切り捨てるときに使う言葉じゃない。全員が生き残るときに使う言葉だ」

「それでもキミは自分を切り捨てる」

 今度は僕が黙った。彼女は再び井戸の周りを歩き始めた。

「この蓋は非常に大切なものだとキミにも分かってるはずだ。ここが開いてしまえば世界は終わる。私たちはもちろんそれを望まない。そしてある種の『歪み』たちもそれを望んでいない。だから我々はときおり協力してここに巨大な『蓋』を置くことにしている。今回の蓋、つまりは前島さなえは過去最高の『蓋』だ。そのおかげで『学園』が消え去っても世界は安定した状態、つまり歪みと現実がほどよく均衡している状態にある。これは歪みがある種の現実となるような世界の訪れとも言えるだろう。我々はその一端に立っている。そして現状維持を望んでいる。だがキミが来た。キミは言うのだろう? 蓋を外せと。そして自分を蓋にしろと」

 少女は僕の前に立った。その顔はもう笑っていない。僕は答えた。

「そうだ。アンタらに操られていようがなんだろうがしっかり言ってやろうか。前島さなえを日常へと戻せ。もし代わりが必要ならば僕がなろう」

「然り。キミにはその資格がある。井戸を降りるのだ。そしてその底でいつしかのように眠るといい。あそこにいける。キミは前島さなえと再会できる」

「それから?」と僕は聞いた。

「それからキミは前島さなえと戦うことになるだろう」と少女は言った。

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