第43話
三池と呼ばれていた女は腐葉土の上に両手と膝をついている。それに相対する男は木々の青々しい葉に覆われている空を見上げていた。野鳥のさえずりはない。
「『詠唱』はしなくていいのか?」
彼はそう聞きながら、音もなく地面から突き出てきた木の根を避けた。その木の根は彼にまとわりつこうとするが、彼が片手を振ると簡単になぎ払われた。メイド服を着る女は下唇を噛んだ。出し惜しみは出来ない相手だと悟ったのだ。呟くように言葉を重ねていく。
「きこりの斧、猟師の安息、持たれかかるは大樹。生えよ、這えよ、栄えよ」
その言葉に呼応して、女の周囲の地面が盛り上がっていく。魚網のように絡まりあった巨大な根が二人を囲うように出現した。女はじっと福屋アキラを見る。もうその意識にはニノやミカのことはなかった。この男を倒さなければいけない。それだけであった。立ち上がり片手を挙げる。
「手加減はしない。あなたはここで眠っていてもらう」
「もとよりこちらも加減する気はないな。では僕のほうも『詠唱』しようか。実際には必要もないんだが」と彼は言って、ポケットから手を出した。
その一瞬の合間に周囲の木々の枝がすべて彼の方へと伸び、絡みつく。出来たのは一つのオブジェ。カエデの葉と幾重にも巻かれた枝の塊。中にあの男が居ればいい。そう願いながら地面から数多くの根を出して、その塊へとつぎつぎ突き刺していく。
その様子を横で見ていた芦田ミカは気絶しているニノに抱きつきながらただただ震えていた。どれだけの『歪曲』がこの場を満たしているのか。三池はおそらく広範囲の木々をすべて自分の支配下においている。自分の意のままに木を生長させ、動かせるのだ。囲まれていると思った原因はそれだ。森全体がメイドのテリトリーだったのだ。
そして何よりもあの『詠唱』だ。あの言葉を発した瞬間、メイドがまとう『歪み』の濃度が格段に跳ね上がった。あそこまでの『歪み』を持つ歪曲者を見たのは今までなかった。学園の幹部たちでさえあのレベルには達していなかった。いや達せなかったのだ。常人ならばあのレベルに達する前に『歪み』に呑み込まれ、同化してしまう。そう。前島さなえのように。ミカは身を震わせながら思った。
リミッターを外している。いま目の前に立つ二人は。
枝の檻の中から福屋アキラが出てきていた。襖を開けて部屋を出るような気軽さで。その服は一切汚れていない。
「人がしゃべってるときに攻撃するのはいただけないな。アンタとこの幹部だっていってなかったか? 人の話は聞けってさ」
メイドは黙ったまま、下唇を噛んだ。アレだけ刺したのに死んでいない。上からの報告は事実だったようだ。この男は死なない。ならば戦い方を変えるだけだ。そう思い、ふたたび福屋を包み込むように周囲の枝を伸ばしていく。拘束して別の場所に転送するためだった。
「伝令、緊急システムの起動を求む。対象Aと遭遇した。行動開始する」とメイドは左腕にはめた銀のブレスレットに声をかける。
「それはめんどうだな。映せ、黒檀の瞳に」
そう福屋アキラは言った。その言葉を聴いて三池は彼が『詠唱』を行なったのだと理解した。彼女は咄嗟に叫ぶ。
「豊饒の土、黄金の小麦。慰めろ、飢える者を!」
途端に福屋アキラの周囲の地面が大きく盛り上がり、彼をすっかり覆ってしまった。膝に手をつき、肩で息をする三池は目の前に出来た土のドームを見た。音はない。中は寸分の隙間なく土で埋っているはずだ。身動きも取れないだろう。
システムに任せ、転送するには直接マーキングをしなければならなかった。メイドはそのドームに近づこうとする。そのとき首元へ何かが巻きついてくるのに気がついた。とっさに避けるよう身をかがめるが、それは蛇のようにしなり結局メイドの首に収まった。徐々に締め上げられ、息が出来なくなった。三池は気を失う寸前、自分の首を絞めていたのが長く伸びた木の枝であることを認識した。
メイドが気絶した直後、土のドームが割れた。芦田はニノを抱き寄せながらその中から出てくる福屋アキラを見ていた。彼は服についた土を平然と払っている。それから首に枝が巻きついているメイドの元へと歩いていった。彼女が失神しているのを確認してから根で作られた網状の檻を破って二人の下へと向かう。
「やあ、はじめましてって感じかなキミは。僕としては二度目、いや三度目になる」
「あなたが福屋アキラ?」と芦田はニノを抱き締めながら尋ねる。
「そうさ。僕は福屋アキラで、前島さなえの友だち。キミもそうなんだろ? 芦田ミカさん」
「え、うん」
「そっちが深谷くんか。なかなかいい男だね」と福屋アキラはニノを見る。ニノはまだ気を失っている。ミカは不安そうにニノの額に手を当てた。
「もう少し早く来れば怪我しなかっただろうけど。まあ、そこは許してくれ。僕たちはわりと努力した方だよ」
「僕たち?」
「あっちには友瀬がいる。たぶん大丈夫だろう」
そう福屋アキラが見た方角からは断続的に轟音が響いていた。
半壊したログハウスから大量の水が抜き出されていく。渦を描きながらその水流は一人の少女へと向かっていった。金髪の少女は不敵に笑いながら、片手を振るって水流を霧散させる。舞い上がった水滴は瞬時に氷結し、雹となって少女へと降り注いだ。
「めんどくさっ」と少女は言いながら高く飛び上がった。両手を上げ、空気の渦を形成する。それを地表に居る双子の少女たちへと投げつけた。つむじ風となって周囲にあるさまざまなものを巻き込みながら、滞空していた雹を弾き飛ばしていった。
「少女のささやき、味のないガム、無色のリップクリーム」
双子たちがそう言うと、周囲の気温が大きく下がった。風は弱まり、巻き上げられたものがつぎつぎ地面へ落下していく。金髪の少女は着地して双子たちを睨んだ。
「アンタらまだ粘るの? 手をつないでるってことはもうギリギリなんでしょ?」
「そんなの関係ない」
「友瀬レイナ、あなたを倒さないと彼に示しがつかない」
「はぁ。アンタらさ、いい加減アイツがそんな大層なやつじゃないって気がついたほうがいいよ」
「お前がそう言える立場じゃないだろう」と少し離れたところに居る老人が口を挟んだ。その横には福田アキラが倒れこんでいる。
「うっさいなあ。ちゃんとそのポンコツ守っててよ」と友瀬は頬を膨らませてから両手を双子たちに向ける。その動きを受けて双子たちも手を挙げた。
「金魚のみずばち、セイレーンの咆哮!」
言葉のあと、瞬時に少女たちの前に巨大な水の壁が出現する。
「関係ない!! 吹き飛べ!!」
友瀬レイナの両手から強大な空気弾が放たれ、水の壁をやすやすと貫通していった。そして双子はまともにそれを生身の正面から受け止める。その衝撃は二人が死を覚悟するには十分なものであった。
死ぬことを意識したのはいつぶりだろうか。双子のスイとレイは同じ過去を見た。
あの夜、空を舞っていた巨大な龍を模したそれはいくどもいくども地表に居る仲間たちを喰らいにきた。ザトウクジラがプランクトンを捕食するがのように、地面ごと抉り取りながら。
アレが『蓋』に住まう『歪み』なのだ、と隊長は説明していた。そしてアレを倒すことがお前たちの最終試験だ、と。隊長はそう言い残して姿を消した。
スイとレイはなんとか逃れながら周囲の状況を確認した。アレが封じられていた洞穴の周りはすでに荒廃していた。龍はときおり気まぐれに急降下してくる。すでに仲間のほとんどを喰らってしまった。今はとぐろを巻きながら咀嚼している。飲み下された仲間たちは『存在そのもの』を喰われてしまうのだろう。もう戻ってくることは出来ない。スイとレイは手をつなぎながら、周囲に巨大な氷柱を作っていく。仲間たちを弔うのはあとだ。戦わなければ死んでしまう。
それから二人はその強靭なウロコに幾つもの氷柱を刺し込もうとした。冷気を感じた龍はうっとうしそうに尾を振り、氷柱と二人をなぎ払おうとする。二人はそれを避けつつ、ひたすらに龍へと氷柱をぶつけていった。巨大な尾が二人の真横を割った。二人は手をつないだまま、舞うようにそれを避ける。着地して空を見上げた。その一瞬、龍と目が合う。身がすくむ。すべての筋肉が緊張し、ままならなくなった。龍の口が大きく開かれ、二人へと急速に接近してくる。その最後、レイは手を強く握られたのが分かった。
巨大な水の壁が音を立てながら森のほうへと崩れた。それを見た友瀬レイナは、息をついて肩を回しながら老人の元へと戻った。切り株に座る老人の足もとには福田アキラが倒れている。レイナはその背中を蹴った。
「おきろ、このクソポンコツ!」
福田アキラは身を一瞬こわばらせてから、目を見開き、すばやく立ち上がった。
「あ? アイツらは? というかその声、レイナか!?」
「アンタねえ、まだそのレベルなのにアイツらに挑むとかアホ過ぎ。少なくとも『詠唱』までは行ってないと勝てるわけないじゃん」とレイナは腕を組んで福田を睨む。
「は? 意味わかんねえよ。というかお前どこ行ってたんだ? お前が裏切ったからかあそこはもうなくなっちまったぞ!」
福田はそう言いながらレイナに掴みかかる。その手をレイナは払い除けながら、答えた。
「そんなのどうでもいい。あんな所なくなってもいいし」
「お前なあ、歪曲がどれだけ面倒なものか知ってるだろう。誰かが管理しなければいけなかったんだ。それを簡単に壊しちまえば、あいつらみたいなのがはびこっちまうんだよ」
「いいじゃん。ぶっつぶせばイイだけだし。結局、弱いやつは死ぬ。さっきのアンタみたいにね」
「正統派みてえな言い草だな」
「うっさいな! せっかく助けてあげたのに今度はちゃんと殺してやろうか?」とレイナは金色の髪を風で逆立たせながら言った。
「は! クソが。お前に俺を殺せるわけないだろうが!」と福田は構えを取る。
「おい若いの。痴話喧嘩もいいが、まだ終わっていない」
切り株に座る老人は、杖で二人の背後の森を指した。その言葉を聴いて二人は同時に杖の方向を見た。森のほうから巨大な水流が天に向かって迸っていた。それは徐々に拡散していき霧のようになって広範囲を包んでいく。
「アレに触れると厄介だぞ」と老人は笑う。
「わかってるっての!」
レイナは高く飛び上がり風の壁を向かってくる霧にぶつけた。霧は三人の前で進行を止めるが風の壁に沿って横へ、上へと広がっていく。福田アキラは口を開けながらその光景を見ていた。霧に包まれている森の奥から人影が見えた。出てきたのは一人の少女だった。福田アキラは呟く。
「もう一人はどこに行った?」
「元から一人だった。人間はな。おもしろい存在形態だったよ」と老人は楽しそうに言った。
「どういうことだ?」
「片方はもうすでに『歪み』だったのだ。つまりあやつらはもう『詠唱』の段階をとうに超えてる。さて、若いのはそれに勝てるか」
そう言って老人は自身の長い白ひげを撫でた。
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