第39話

 深谷ニノはサンダルを履きながら、正面を見た。水の檻はまだ崩れることなく建っている。その表面に広がる波紋が中の様子を見えなくしていた。

「アイツらまだ死んでねえのか」

「だろうな」と福田アキラは周囲を見回しながら言った。公園内には人気がなかった。木々の間でセミの鳴き声が忙しく響いている。二人の男たちは出て来たばかりのドームを眺めている。戻る気はないがそのままにしておく気もない。深谷ニノは緑の病衣を脱ぎ捨て、新しいシャツへと着替え始めながら言う。

「どうする?」

「逃げるのも癪だな。どうせ追われるんだ。こいつらだけはシメておこう」と言って福田は腰を低くし拳を構え、大量のうごめく水へと狙いを定める。

「お前のそれってなんなん? すげえ強いけどさ」

「知りたいか?」と福田は構えたまま言う。

「ああ、それも歪曲能力なんだろ?」

「俺はこれを『見えざる手』と名づけている」

「見えざる手?」

「そう。手だ」と福田はにやける。それから拳をすばやく前方へと突き出した。空を突いた拳のまわりでは変化は起きない。一見すれば空手の型を出しただけだ。ただ、その先にある水の壁の表面が大きく凹んだ。その巨大なくぼみはドーム自体を歪ませていき、最後には半分まで縮ませた。その様子を見て福田は表情を少し曇らせ、呟いた。

「まだ足りないか」

 彼は拳を肩まで上げ、地面に向かって殴りつけるような動作をする。ニノは口を開けたまま福田の行動を眺めていた。そのまま水のドームのほうを見る。今度は天井の部分から凹み始めていた。そして二方向からの圧力に耐え切れずにドームは潰れ、大きな音を立てて弾けた。

「……お前、壊すなら言えよ。また濡れちまったじゃねえか」と大量の水しぶきを浴びた深谷ニノはぼやく。

「なに、すぐ乾くさ。夏だぜ、今は」

「そういう問題じゃねえっつうの」

「だな」と同じくびしょぬれの福田は笑う。

「けど、アイツら見あたらねえな」

「だな」と福田は笑わずに前を見据える。巨大な水溜りが二人の前には広がっていた。半壊した公衆トイレの近くには人影もない。ニノは水溜りに注意を向ける。弾けた割にはだいぶ水が残っていた。日差しを反射させながら揺らめく水面はどことなくプールを思い出させた。

「なあ、水ってさ、すぐ広がるよな」

「ああ、だな」と福田は言って、水溜りから距離をとり始める。

「これってさ、どうもおかしいよな。だって一ヶ所に固まったままだもん」とニノも後ずさりながら言った。

「たぶんだが、そういう歪曲なんだろう。意志のまま水を操れるのか。それとも」と福田が言いかけたとき、水溜りから巨大な水玉が勢いよく飛んできた。二人ははねるようにしてそれを避ける。成人男性ほどの大きさのそれはそのまま二人の背後にある林へと突っ込んでいった。木々をなぎ倒すような音が響く。セミの鳴き声が止んだ。深谷ニノは振り返って、ため息をついた。

「壮観だな。あんなのくらったらひとたまりもないぜ」

「前を見ろ。来るぞ」と福田は注意を促す。二人の正面では次々に水溜りから水の塊が分離され空中へと浮かび上がっている。

「冗談だろ」

「自分の身は自分で守れよ。俺は守りながら戦えるほど器用じゃない」と言いながら福田は駆け出し、空を蹴り段々に飛び上がっていった。水溜りの上空に到達すると、真下と拳を振り落とした。間を置かずに地響きのような音を起きる。見えない拳が水溜りを大きく抉った。水は左右に勢いよく弾けた。それから浮かび上がり、空中にいる福田を囲うように広がる。

「つかまんぞ!」と叫びだしながらニノは駆け出し、福田を助けに行こうとする。福田は眉間にしわを寄せながら、さらに高く跳躍した。水は福田を迫っていく。福田は舌打ちしながらも何もない場所を蹴り、さらに上へ上へと昇っていく。地上にあった水はすべて空中に行き、福田の足元で大きく広がった。福田は笑った。

「おもしろい」

 大量の水が福田を包み込もうとする。とっさにニノはあの言葉を叫ぼうとした。

「少女のまなざし、とけないわたあめ、まどう星」

「あ?」とニノは耳元でした声に身を固める。肺を刺すような冷気がニノの周りに広がっていた。全身の筋肉が収縮していくのをニノは感じる。声を出そうにも動かなかった。

「スイ、貸して」とニノの横に立つ少女は言った。少女の言葉に応じるように上空にある水の塊から巨大な水滴が下りてくる。その水滴は身を固めているニノの全身を包んだ。若干の温かさが水にあった。寒さは問題ではなくなった。今度は息ができないことがニノのすべてとなった。

「ねえ、聞こえる? このままキミは死ぬんだ」と少女は水の中に浮ぶニノに言った。ニノにその言葉が聞こえている様子はない。ただ必死にもがいているだけだ。

「悲しいね。けどそれがすべてなんだ。弱い人は死んじゃうの。キミだってそう。どの道、これから来る世界には追いつけないよ」

 少女は空を見上げる。そこには巨大な球体状の水が浮んでいた。その中心には一人の男が胎児のように蹲っている。

「彼だって所詮、施設の中で頑張ってた人。私たちには絶対に勝てない。歪みと和解した私たちには」と少女は言って手を上げる。彼女の表情は変わらない。その視線の先に居るニノはもう動いていない。上空の水から一人の少女が出てくる。その少女は地上に降り立ち、自分が出て来た場所を仰ぎ見る。

「少女のなみだ、にじむ文字、かすむ指先」と少女たちは唱える。浮ぶ水が徐々に端から凝固していく。ニノを包む水も同様だった。そして最後には二つの氷塊が出来上がった。

 二つの氷は夏の日差しに溶かされることなく浮んでいる。地上ではその氷を作った少女たちが寄り添うように立っていた。

「もう死んじゃったね」

「うん。弱かったから」

「うん。彼に褒められるかな」

「ちゃんと仕事したもんね。ほかの人たちとは違って」

「だよね。帰ろうか」

「うん」

 二人は手をつないで、公園から出て行った。すると氷塊は浮かぶことやめ、轟音を立てながら地に落ちた。アスファルトに広がる氷の破片のなかにはニノと福田が居た。二人は氷に埋まったまま、動くこともなく転がっている。


 氷の中で、深谷ニノは夢を見ていた。


 そこは洞窟だ。並ぶ松明がゆらゆらと影を作っている。その影は二つあった。一人は深谷サラ、もう一人はレイナと名乗る女。二人の若い女は洞窟の奥に祀られている『何か』を見つめていた。それは黒い立方体の箱だ。レイナはそれを掴もうとする。

「大丈夫なの?」とサラは尋ねた。

「大丈夫じゃなくとも、これは壊さないと」

「けど、私たちがやることなのかな」

「少なくとも私の仕事ではある」

 レイナは箱を掴んだ。そのとき二人の後ろから複数の足音が響いてくる。

「来たよ!」とサラはレイナの肩を叩いた。

「わかってる」そう言うとレイナは箱を握る手に力を入れた。黒い箱は次第にひび割れていき、外面から崩れていった。レイナは砂のようになった箱の残骸を地面に投げ捨てる。ばら撒かれた残骸から黒い煙が立ち上がってきた。サラはそれから本能的に目をそらした。

「それが、『歪み』?」

「そう。私たちの敵。たぶんこの奥にある『穴』から出て来たやつだ」とレイナは言ってサラをその影からかばうようにして立った。そのときにはもう足音は止んでいた。男たちがサラたちと『歪み』を囲うようにして遠巻きに立っている。その男たちは口々に何かを囃し立てていた。

「なんて言ってるの?」とサラはレイナの背中に隠れながら聞く。

「……、地獄の門を開いたお前らには裁きが下る」

「え?」

 レイナは男たちを睨みつけ、片手を突きつけた。男たちと同じ言葉で何かを言う。男たちはレイナからじわじわと離れていった。サラにとって耐え難い沈黙が続いた。唐突に一人の男が悲鳴を上げた。サラたちの背後を指差し、体を震わせてから一目散に出口へと走り去っていく。残された男たちも『それ』を見てしまった。男たちは叫びながら逃げ出した。その間にサラは振り返る。祭壇の奥にはまだ道が続いていた。そこはひどく暗く、すべての光を吸い込んでしまっている。その暗闇から『それ』は滲み出るように現れた。

 レイナはサラの手を強く引き、自分の後ろに隠した。

「見ないで!」

 サラは答えることができない。もう『それ』に魅入ってしまっている。『それ』の手がサラへと伸びていく。その直前にレイナは叫んだ。

「吹き荒れろ、砂塵! 炎天の火花を散らすが如く!」

 二人の前に閃光が走った。その景色はニノにも見覚えがあった。あの時と同じだ。芦田さんを守った時と。


 そこで深谷ニノは目を覚ます。黒いアスファルトは所々に水溜りを残しており、その中に福田アキラも仰向けに倒れていた。ニノは立ち上がり福田のもとに行く。横たわったまま福田はぼんやりとした様子で雲一つない空を眺めていた。

「よく生きてんな、俺ら」と福田を見下ろしながらニノは言う。

「だな」と福田は呟くように答える。

「お前がやったのか?」

「いいや。俺だけじゃない。深谷、お前の能力だろう」と言いながら福田は身を起こした。

「俺の? どういうことだ?」

「さあな。お前は無自覚に氷を溶かし、脱出した。ついでに俺のも少し溶かした。おかで俺も脱出できた。そういうことなんだろう」

「少し? 全部溶かしてやったんじゃないのか?」

「俺は自分で割って出てきたよ。案外楽にできたのはお前が体積を減らしてくれたからだと推測してる。しかし、アイツらも二流だな。殺しきったことを確認せずに去るなんてな」

「その二流に殺されかけてんだぜ、俺ら」とニノは福田に手を差し出す。

「だな」と笑って、福田はニノの手を借り立ち上がった。

「で、どうするよ。俺はもう家に帰りたいんだが」

「俺も帰りたいな。一緒にふけるか」

「はっ。お前、けっこう不真面目なんだな」とニノは笑った。

「いいや、真面目だ。どの道、俺たち幹部レベルでもあのレベルの能力者に太刀打ちできやしない。つまり戦っても意味がない。多くのやつらが犬死するだけだ」

「ああん? 戦略的撤退ってやつか?」

「だな。笹倉さんが殺された時点で俺たちは負けを認めるべきだったのかもしれない。だがそうもいかない理由があるとすれば、やはりああいう存在をどうにかするためなんだろう」

「アイツらってなんなん? いまいちわからねえんだが」

「アイツらは学園を破壊し、本部まで壊そうとしてる。分かるのはそれだけだ」

「マジであそこ壊されたのかよ。ほかのやつらはどうなってんだ?」

「どうも。ただ正統派に付いていったやつが多い。あっちに行けば制限なしで能力を使えるからな。こっちでもやりたい放題さ」

「野放しかよ。相当ヤバイ状況なんじゃないか?」

「だな」と福田はため息をついた。

「で、なんで俺を連れて行く必要があるんだ? そんなことよりやることがクソほどある気がするんだがね」

「上のやつらが直々にお前を呼んでるんだ。どうしてか知らない。俺はただお前を指定の場所に連れて行くだけだ」

「指定の場所?」

「都内のビルさ。道中楽しんでいこうぜ」

 そう言って福田は歩き出す。ニノは一瞬の逡巡のち、福田のあとを追った。

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