第38話
青いタイルの床は微かに湿っている。並ぶ小便器が自浄のために水を流していた。その向かいにある個室のうち一つだけが閉まっている。中では一人のスリッパを履いた男がズボンを下ろさずに便器に腰掛けて、右手に持つ注射器の先端をじっと見つめていた。
周囲に漂うのはこびついた糞尿とそれを落とそうとした洗剤の匂いだ。公園の公衆トイレの便器に座る深谷ニノは額に汗をにじませながら、その空気を一つ大きく吸った。注射器の針を自身の静脈に刺していく。夢でもやった行為だった。プランジャーを押し込んでいき、中の溶液を自己の血流へと混ぜ合わせる。静かにゆっくりと針を抜いて、腕に滲んでくる血を震える親指で押さえつけた。
「わかっちゃいるが、俺はバカなのか? アイツが渡してきたコレが毒だったらどうすんだ?」
深谷ニノは一人呟き、首を振った。
「いいや、毒でもかまわねえか。どうせ、いや、どうでもいいんだ」
その言葉は震えながら公衆トイレの隅々まで霧散していく。深谷ニノは注射器をケースに戻し、ズボンのポケットの入れた。立ち上がり、なんとなく便器の水を流した。その間にドアがノックされる。
「ああ、もうでるよ。今すぐね」と深谷ニノは言いながらドアの鍵に手をかける。そして気がつく。自分が来たときにはどの個室も空いていた。用を済ましている間、誰もトイレに入ってきた様子はなかった。分かっている。これは確実に何かの合図なのだ。ニノは一瞬ドアを蹴破ってやろうかと考えた。しかし、実際にはいつものように鍵を横にスライドさせ、自分の手についている細菌の量を気にかけながらドアを開けるだけだった。
ドアの向こうには二人の少女が立っていた。少女は二人とも同じセーラー服を着ていて、同じお下げにした髪型だった。そして、瓜二つの顔をしている。ニノはさすがに面食らって、一歩後退した。
「あ~、えぇっと、ここは男子トイレだったはずなんだが、……あ、いいやこいつは失礼な言い方かもしれねえな。まあ、とりあえず自由に使ってくれ。オレはキレイに使ったからさ」
深谷ニノはそう言って、ニコニコと笑っている二人の横を通り過ぎた。出入り口の前にある手洗い場の蛇口をひねり、水を流す。排水口に飲まれていく流水を眺めながら、微かに震える体をボウルの縁に手をかけて抑えつける。自分の中で何かが起きつつあることを深谷ニノは理解し始めていた。二人の少女はその様子を見ながら口を同時に開く。
「きみって深谷ニノ?」
「ああん?」
二重に響く声に驚きながらも、ニノは少女たちのほうを向いた。
「きみって深谷ニノ?」と二人はそう繰り返す。
「ああ、そうだが。オレってそんな有名人だったっけな」
「だってさ。ねえねえ、『彼』がやってくれって頼んできたんだもの。ちゃんとやらないとね」
「うん、ちゃんとやっちゃお。ドキドキするね」
「うん、けどあのスーツの人たちをやったときと同じだよ」
二人の少女はそう言い合いながらくすくすと笑い始める。ニノは蛇口を閉めて流れる水を止め、震える体を出入り口のほうへと近づけた。
「ねえねえ、深谷ニノ。凍って死ぬのと、おぼれて死ぬのどっちがいい?」と二人の少女は声を重ならせながらニノに尋ねた。
「アンタら、ネジはずれてんな」とニノは声を震わせながら、スリッパを鳴らしてドアのほうへと駆け出した。体当たりするようにドアにぶつかったが、開くことはなかった。なぜか。ニノはドアの全体を見る。その枠は見事に凍り付いていた。そこでようやく気がついた。自分の体の震えはけっしてクスリの副作用だけではなかったことに。
「出れないよ。どんどん寒くしちゃうもん」と双子の一人が言った。
「氷って硬いんだよね」ともう一人は言った。その少女の傍らには氷柱が出来つつあった。ニノはドアを背中で押しながら、二人の少女たちに言った。。
「お前らなんなんだよ!」
「スイ」
「レイ」
「ちがう、名前じゃねえよ。お前らなんでオレを殺そうとしてる?」
「なんでって、『彼』に頼まれたから?」
「殺人は犯罪だ」と息を白くさせながらニノは言う。
「つららで人を殺したら、完全犯罪。だって溶けちゃえば凶器が残らないもの」
「わ、天才だ!」
「でしょおう?」
二人の少女たちはクスクスと笑いあう。ニノは息を止めて、目を瞑る。状況を打破するためには使うしかなかった。
「手加減は出来ねえ。夢とは勝手が違うかもしれねえし」
「なあに? 手加減って」と双子たちはじっとニノを見つめる。
「オレって親指から火の玉を出せるんだ、こんなふうに」そう言って、ニノは親指を立てて二人に見せる。その親指の先に、猫の毛玉のような火が出現した。
「すごーい」と双子は拍手をする。配水管がひび割れる音がした。
「で、実はこの火の玉を投げることが出来る、こんなふうに」
そう言ってニノは二人に向けて子どものこぶし大ほどある火をボールのように投げつけた。炎は揺らめきながら、双子に向かっていく。しかし、二人に届く前に消えてしまった。
「ちょっと温かかったね」
「ねっ!」
「お礼に冷たくしてあげよう」
「そうしよう」
双子はそれぞれの片手をニノに向ける。
「少女のいたずら、背中をなぞる指、首筋にかかる吐息」
「は?」
二人の詠唱が耳に届いたときには、ニノの視界は白で埋まっていた。周囲の水分はすべて凍りつつあった。ニノは呼吸も出来ずに目を瞑り、公衆トイレのなかで起る吹雪に耐えた。身を裂くような風が吹き荒れる。ニノはタイルに膝をつき、身を丸めようとする。ここはトイレだ。うすぎたねえ公園の、ボロボロの公衆トイレだ。おっさんどものションベンにまみれたそのタイルに身を誰が預けるんだ。起きろ、深谷ニノ。起きろ。そんな思考がよぎった。夢のときの感覚を思い出す。声を聴くんだ。あの声を。
「吹き荒れろ、砂塵」
そうニノは呟いていた。ほとんど無意識にその言葉を口にしていた。それから、ニノは自分の体から熱がこみ上がってくるのを感じた。立ち上がり、目を開ける。吹雪は消えていた。二人の少女たちはニノをじっと見つめている。
「アンタらも、声が聞こえるのか?」とニノはドアに手を置きながら言う。凍っていた扉の縁が溶けていった。
「『彼』から教わった。わたしたちはみんなトモダチなんだ。だから語りかえればもっと強くなれる」と双子の一人が答える。
「そのことは『わたしたち』だけの秘密なの」
「だから」
「死んで」と少女たちは再び手をニノのほうへと向けた。ニノはかまうことなくドアを蹴破り、外へ出た。
その轟音を聞いたとき、福田アキラはディスカウントショップを足早に出るところだった。店に行ったのは深谷ニノのために靴と服を調達するためだった。福田は音源を捜がす。通行人も何事かと首をめぐらせている。時刻は正午を回っていた。日は中天していて、夏そのものの時間帯だ。そんなときに響き渡る爆発音。福田は駆け出し、深谷ニノを待たせている公園へと向かった。
夏の日中だというのに、ニノの周囲は肌寒かった。その冷気のもとは大破している公衆トイレからだ。凍る水蒸気が煙のように見えている。スリッパは濡れてもう使い物にならない。スリッパを脱ぎ捨てニノは裸足でアスファルトの上に立った。公衆トイレからセーラー服を着た少女たちがしゃべりながら出てくる。
「外に出ちゃったね」
「ちょっと面倒だよね」
「スイ、まかせたよ」
「まかせて、レイ」とスイと呼ばれた少女は天に向かって両手を突き上げた。ニノは口を開けたままその動作に見入ってしまう。スイの口から詠唱が響く。
「少女のひみつ、とりすぎた金魚、くすぶる線香花火」
「だから、何言ってんだよ」とニノが言ったとき、すでに事は起きていた。
三人を囲うように雨が降り始める。その雨は空中で積み重なっていき、水のドームを形づくっていく。そして、壁をも作り出し三人を外界から完全に隔離した。ニノは自分の背後にある水の壁を触った。ぬるい水だった。
「すげえな、水族館みてえだ」とニノは周囲を見回しながら言う。
「少し遊ぼう、深谷ニノ」と双子の片方がニノに笑いかける。
「殺すのは簡単。遊ぶのは難しい」ともう一人も笑う。
「いいね、何して遊ぶ?」とニノは水の壁から身を離しながらにやけた。
「少女のあそび、毛糸のあやとり、絹のハンカチ落とし」と双子の一人が呟く。途端にニノの頭上から巨大な氷柱が落下してくる。ニノは豆鉄砲を食らったハトのようにその場を転がって避けた。氷柱はアスファルトに勢いよくあたり、砕け散った。
「深谷ニノにはダンスを踊ってもらうよ」
「タップダンスになるといいね」
「はっ、ダンスは必修じゃなかったんだけどな」とアスファルトの上で横になりながら深谷ニノは薄く笑った。見上げると天井部分には無数の氷柱がすでにぶら下がっていた。ニノの真上にある氷柱がぐらりと揺れた。自由落下してくる氷塊をニノは転がりながら避ける。幾度もそれを繰り返して数ミリ横で氷柱が砕けるようになったころ、ニノの表情からだんだん余裕がなくなっていった。そうして自分がどうして先ほどのような歪曲能力を使えなくなっているのか真剣に考え始めたのだった。
心に燃えあがれと念じても、身が熱くなることはない。あの双子たちのように何か言葉を発しなければならないのだろうか。ニノはあのときの感覚をよみがえらせようとする。その間にも氷柱は容赦なく落ちてきていた。あの時、とっさに口にした言葉。吹き荒れろ、砂塵。そう、これだ。ニノは大きく息を吸った。それから叫ぶように言う。
「吹き荒れろ、砂塵!」
水の檻とも見える巨大な構造物が街中の公園内に出来上がっていた。その公園にたどりついた福田アキラは歪曲能力を使用してすぐさま上空へと飛び上がり、その水のドームの真上に到達する。中の様子は揺らめく波紋によって見ることが出来ない。福田アキラは構うことなく拳を振り上げる。中のことはこじ開けてから考えればいいのだ。拳を振り落としたとき、福田アキラの見えざる拳がドームの天井に巨大な風穴を開けた。
内部の空気が勢いよく噴出してくる。その風のなかをかき分けながら、福田アキラは檻の中へと侵入した。サウナのような蒸した暑さがドーム内部にこもっていた。上空から確認できるのは三人。うち二人は女で、打ち伏せている。福田アキラの目的は膝に両手を当てて、肩で息しているほうの男だった。その男の隣に着地する。
「使いこなしてるみたいじゃないか」
「ああん? ああ、アンタか。いや、……ふう。しんどいぞ、これ」
「あの二人は?」と福田アキラは倒れたまま動かない双子を見る。
「のぼせてんじゃねえのかな。一瞬で熱くなったからな」
「酸欠かもな。じゃあ出るか。かまってる場合じゃない」
「あ、アンタちゃんと靴買ってきたか? あのスリッパ使えなくなったぜ」
「買ってきたぞ、ちゃんとな」と言って福田は片手に持っていたレジ袋からサンダルを取り出し、ニノの前に放った。
「サンダルじゃねえか」
「贅沢言うなよ。シャツも買っておいたぞ。ズボンは我慢しろ」
「我慢しろっつってもよお。パンツまでびちゃびちゃだぜ」
「じゃあ自分で買え。金は渡すから。とりあえずここからでるぞ」
「どうやって?」
「上に穴を開けてきた、そこからでる」
「オレ、飛べねえんだけど」とニノは顔を上に向ける。
「俺が連れて行く」
「おい、穴ふさがってるぞ?」
「なに?」と福田アキラも天井を見上げた。確かに開けたはずの穴がふさがっていた。息を白くさせながら、福田アキラは双子のほうを見た。彼女たちは立ち上がって、二人を無表情にじっと見つめていた。福田はレジ袋をニノに放る。
「先手必勝だ」
そう言って拳を握り、セーラー服の双子に向けて殴りつけた。
「なに空気殴ってんだよ」と受け取ったレジ袋をがさつかせながらニノは言う。それから響き渡る轟音に身をすくませた。驚きながらニノは正面を見る。双子たちの居たところの地面が大きく抉られていた。奥にあった水の壁も破られている。そこから外のはっきりした景色が見えていた。その景色の中に双子たちの姿はなかった。
「壁も簡単に壊せるな。さっさと出るか」そう福田は呟き、振り向いて背後にある壁にも殴りかかった。一つ間をおいてから水の厚い膜は大きく凹み、最後には弾け跳んだ。夏の暑さが風穴から迷い込んでくる。
「お、お前、なんだよそれ」とニノはうろたえながら言った。
「なんでもない、ただの拳だ。とにかく出るぞ。ふさがれると面倒だ」
福田はニノの肩を叩いてから、涼しい顔で作り出した穴を抜けていく。お前、やべえなと呟きながら、深谷ニノも水の檻から脱出したのだった。
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