第37話


 深谷ニノには父親がいない。少なくとも深谷の母親、サラはそう主張していた。

「わたし一人で妊娠して、一人で産んで、一人で育てたんだ。だからアンタはわたしの分身」

 夕食後に食器を洗っているとき、入浴後にぼんやりと髪を乾かしているとき、そんなときにサラは息子にこう呟いた。

 ニノは自身の父親について気になったことはあまり無い。そういうものだとしか考えていなかった。父親がいなくとも十分に快適な生活をおくれていたからかもしれない。

 

 サラは大手の商社に勤務している。ここ数年はブラジルで農地を開拓していた。そのために日本に帰るのは月に3回ほどだった。一人息子が全寮制の高校に入学すると聞かされたとき、少し安堵したのは事実だった。そこには一緒に住む人がいる。一人っきりの家よりはマシだろう、と。

 多感な時期に一人で過ごすことほどつらいものはない。しかし、孤独が人の中でまぎれるわけでもない。サラもかつてはそうだった。見知らぬ人々、見知った人々、どんな人々の中でも心の奥底ではここではないどこかに自分の本当の居場所があるのだと思っていたのだ。大人になったら探しに行こうと彼女は決めていた。だから大学に入学し時間と金に余裕が出来たとき、バッグパックを背負って旅に出始めた。

 初めは東南アジアを巡った。飲めば腹を下すような水、焼けるような日差し、工場から漏れ出す薬品の匂い、そして街を行きかうバイクの喧騒。路地裏に入れば暗い湿った世界があった。なんども危険な状況にあった。それでも旅をやめず、国々を渡り歩いた。

 持ってきていたニコンのカメラに百人ほどの笑顔を収めたころ、テロに出会った。金曜日のことだった。昼の市場を歩いていたら背後で爆発音がした。爆薬を詰め込んだ車が弾けとんだのだ。怒号と悲鳴。あと三十メートル歩いていなかったら死んでいたという確信があった。十五歩だけうしろにある死。サラはほこりと排気ガスの中で血を流しながら人々が助け合う姿を眺めていた。それから鼓動を高まらせたまま宿に帰った。バックパッカー用の安宿だ。そこではサラと同じような年ごろの異なる国籍の人々がぼんやりとロビーにあるテレビを見ていた。宗教的価値観の違い。それがテロの原因だった。サラは体を微かに震わせながら自室に入った。二段ベッドが二つ並んでいる部屋だ。窓もなく汗とタバコの匂いがこもっている。下段のベッドに腰掛けて、じっと自分の体を抱きしめた。

 明かりが点けられた時、ようやく夜になったことに気がついた。出入り口に一人の若い女が立っていた。東洋人風の女で背が高く、髪は短い。サラはまだ話したことがない同室の宿泊者だった。タンクトップに半ズボンという格好したその女はサラをまともに見つめた。サラはその瞳が淡い緑色なのに気が付いた。女は近寄ってサラの隣に座った。ベッドの軋む音が短く響いた。

「今日、市場に居たんだってね」と女は日本語で言った。

 サラはうまく言葉を出せないでいる。唐突に耳へと届く母国語。自分の行動が気にかけられていたという事実。そして、なによりも射抜くように見つめてくる淡いエメラルドのような瞳。サラはのどを鳴らす。

「あなた、日本人でしょ?」

「え、うん」

「サラフカヤって名前、日本人しか居ないもん」とその女は笑った。あどけない笑みだった。

「えっと、あなたは?」

「わたしは、レイナ。故郷は日本じゃないけど、血は日本から来てるらしい。だからかちょっと勉強したらすぐに日本語を話せるようになった。で、まあ自分の日本語がどう通じるのか気になってね、あなたと話す機会をうかがっていたわけだけど」とレイナは言って、口元を緩めた。「いちおう日本語として聞き取れてるみたいね」

「ええ、すこしイントネーションが私とは違うけど。関西よりなのかな」

「カンサイ! 地名でしょ? まだ行ったことはないけど、いずれは行くつもり。あなたはカンサイじゃないの?」

「うん。関東。千葉ってところ。なにかあるようでなにもないようなところ」

「なにもない場所……。故郷ってきっと若いころにはそう思ってしまう。けど、チバ。いい響き」

「あなたはどこからきたの?」

「おしえてほしい?」とレイナはじっとサラの瞳を覗き込んだ。サラはすこし仰け反るようにしてその視線から逃れた。

「別に言いたくないならいいけど」

「言いたくない? ちがうかな。言えないのかも。言ってもわからないだろうし。そうね。少なくともここではないどこか。なにもない場所であるし、なにもかもがあった場所でもある。ところで、サラって宗教信じてる?」

「いいや」とサラはすぐに首を横に振る。

「ほんとに? 日本人は無宗教だって言われるけど、そうでもないと思うの。だって神社に行くでしょ。お寺にだって行く。だからきっとなにか尊いものを知ってるはずだもの。その尊いものが宗教のなのよ。あなたはそれに気がついてないだけ」

「それがなんだっていうの?」

「どうしてそれがテロにつながるんだと思う?」

「どうしてって……。わたしにはわからないよ。ただ、そう、ただとても迷惑だなって思うだけ。人を殺してまでも意志を通そうなんて、私は思わない。それにたぶん、私は許せない。絶対に」と言うサラの脳裏には砂塵と道に転がる身体がはっきりと浮んでいる。

「今日、爆弾を用意した人は死んだ。自爆だったみたい。その人はこう誘われたらしい。『キミがやれば、キミの家族の面倒は必ず見よう。そしてキミが異教徒たちに正しき裁きを下せば、主もまた天でキミを省みてくださるだろう』って。若い子で、サラと同じくらいの男の子だった。もちろん彼の家族は今捕まっている。おそらくだけど殺されるわね。移民してきた彼らはこの国じゃマイノリティの宗教だったの。だからか仕事もなくてかなり貧困してたっていうのね。今日の実行犯の子が決意したのは家族を救うためでもあったってわけ。でも、結局は家族をも殺しちゃってるのね。人間って不思議」とレイナはため息をつく。

「あなたは、なにがいいたいの?」

「何が言いたいんだろうか。そうだね、すこし外に出ない? その様子だと夕飯もまだでしょう?」とレイナは立ちあがり、右手をサラの前に差し出した。サラは少し戸惑ってから、結局その手を握ることにした。たしかに夕食はまだ食べていなかった。

 二人は屋台のならぶ市場に来ていた。夏の夜の人ごみはサラの体をすこし緩ませた。人々は勝手に行き交い、見知らぬ他人と肌をときおり触れ合わせている。その中をサラはレイナに手を引かれて歩いた。一つの老婦人が営む屋台に着いたときレイナは慣れた様子で串に刺された焼き魚を二匹買い、片方をサラに渡した。

「まずこれを食べよう」

「お金は?」

「いいよ。わたしのおごりってやつさ」

「これ、なんて魚?」

「さあ? 焼いてあれば大丈夫だよ。塩味もついてるし」

「そうね」とサラは言って、焼き魚をかじった。淡白な味だった。「おいしい」

「ちがいないね。座って食べよう。ビールも飲むんだ」とレイナは言って、近くにある露天のテーブル席にサラを誘った。二人が座るとどこからともなく若い男がやってきてテーブルの上にビール瓶を二本置いた。レイナは代金を男に渡した。男はなにも言わずに去って行く。

「よく来るの?」とサラは聞く。

「ああ、だいたいの夜はここですましてるんだ。いいでしょう? こんなふうに人が居る場所は」

「うん。いいよね」とサラは周囲を見回した。物を売り、物を買う人々。木と布で出来た屋台たち。布の袋につまっているスパイス。火事にならないか心配になるほど燃え上がるフライパン。なにもかもが蠢いていたし、なにもかもが巡っていた。サラは焼き魚をかじる。レイナはビール瓶のふたを撫でる。

「サラ、一つ魔法をみせてあげようか?」

「なに?」

「栓抜きがなくてもビール瓶を開ける方法」

「机のふちではずすやつ?」

「いいや、魔法だよ」とレイナは言って、ふうっと息を瓶のふたに吹きかけた。ふたは悶えるように震え始めた。それからぽろりと外れた。サラは焼き魚をかじる。

「どう?」とレイナはエメラルドの瞳を輝かせながらサラを見つめた。

「魔法だね」とサラは頷いた。その輝く瞳のほうが魔法なのかもしれないと思いながら。


 気がつくと深谷ニノは病室のベッドの上に居た。起き上がり自分がまったく健康であることに気がついた。窓からは夏の日差しが差し込んでいる。それは昔、母から聞いた旅の日々を思い出せた。肌を燃やすような、真っ赤な太陽。むせるような大気。エメラルド色の瞳を持った友人。それから、魔法。母さん、俺も魔法使えるぜ。指から火の玉出せるんだ。別に不思議なことじゃない。なんかできちまうんだよ。きっと母さんにだってできちまうんだ。妙なもんを取り込んじまったらさ。

 ニノは起き上がり病室から出ようとした。スリッパに足を置いたときに病室のドアが開いた。一人の青年がそこに立っていた。ニノはその男の顔を見るが、見覚えはない。

「なんだ? 医者か? オレさあ、もう元気になったからここ出るわ」とニノは言う。

「医者じゃないが、元気になったのならいいことだ。俺はお前を本部へと連行しに来た者だ」

「は? お前誰だ?」

「福田アキラ、芦田の友人だ」

「知らねえな。ま、どうでもいいけど。オレはもうだめだ。家に帰るよ。いろいろ面倒なことはアンタがやってくれるんだろ? 芦田さんだって一人で救ってくれそうだな。オレはもうだめだよ」

 福田はこぶし大のアルミケースをニノの座るベッドの上に投げ出した。

「まずそれを使え。使わなければ、道中で正統派の連中に殺されるだけだ。お前が殺されようが俺には関係ないが、任務に差支えが出る。それにたぶん、芦田が悲しむ」

「は? ますます意味がわからねえな。オレがなんで正統派の連中に狙われないといけない? オレはアイツらと関係ないし、アイツらもオレとは関係ないのさ。オレは人畜無害の一般ピーポー。なにもしないし、なにもできない。だから家に帰る。あそこがオレの居場所だから。おわかりか?」

「さあな。お前が狙われている理由は俺も知らない。だが、」と福田は言って、窓のほうに手をかざした。途端にカーテンが窓枠ごと外へと吹き飛ばされた。ニノは口をあけて壁にあいた風穴を眺める。その向こうには三人の男たちが浮いていた。その三人はニノを方に向けて手をがさしている。福田は舌打ちをしながら、ニノの首もとを掴みベッドから自分の後ろへと放り投げた。その直後にベッドがはじけとんだ。空中に躍り上がった銀色のケースを片手で捕まえながら、福田はいまだに浮び続ける三人を睨みつけた。福田の後ろで転がりながら、ニノは声を上げる。

「なんだよ、あいつら?!」

「正統派だ。お前と俺を狙っている。どいつもこいつも遠距離型だ。離脱するぞ。立て」

「ああん? 言われなくとも逃げるわボケ!」とニノは言い捨て、福田を省みずに病室から逃げ出した。残った福田は接近してくる三人に向かってベッドの残骸を投げつけてから背を向けて、ニノの後を追った。

 階段を駆け下りて、一階のロビーに降り立ったときニノは違和感をおぼえた。いつも人で埋まっている総合案内の前には誰も居なかった。ただ外へとつながる自動ドアの前に人影が二つあるだけだった。その人影は自動ドアを開けてフロアへと入ってきた。その手に持つ物を見てニノは本能的にその二人が敵であることを悟った。誰がサブマシンガンを持った男たちを味方だと思うだろうか。階段のほうに戻ろうとすると駆け下りてきた福田と鉢合わせした。

「どこに行こうとしてる。外に出るぞ」

「アホか。出口になんかいるんだよ」

「囲まれたか。仕方がない。やるしかないな」と福田は目を瞑り、息を深く吐いた。ニノですら福田から発せられる『歪み』の強さを理解できた。そして入り口のほうで何かが大きくつぶれる音がした。ニノは慌てて振り返り、自動ドアのほうを見た。そこには何もなかった。ただ外へと大きく開いた穴があった。

「走れ。今のうちに行かないと、ただじゃすまない」と福田は顔に汗をにじませながら穴のほうへと走り出した。戸惑いながらもニノは文句を言うこともなく、福田の背中を追って夏の日差しの中へと駆け出した。

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