第36話
蝉の声がしない夏の昼は久しぶりだった。芦田ミカは誰もいない病室でそう思った。発見時自分が相当な重症を負っていたとは聞いたが、医者たちの処置が的確だったのかあの事件から三日後には意識を取り戻すことが出来た。
あれから一週間は経った。その一週間をミカは痛みと苦悶のなかで過ごした。炎症で全身が高温になって眠れない夜も続いた。医者と看護師はときおり来た。見舞いに来る人はいなかった。ただ痛みだけは鈍く響く銅鑼のようにミカの傍を離れなかった。
ミカは包帯が巻かれている額を淡くなぞる。何針縫ったのかは聞いていない。傷はずっと残るだろう。ただそれだけを聞かされた。ミカはため息をつく。折れた右腕がすこし疼いた。この痛みがミカと現実をつなげるものだった。
ミカはベッドから立ち上がる。ふらりと身体を揺らしながらもドアに手をかけて横に引いた。静かな廊下の中にミカは吸い込まれていった。
ミカのいる病院の屋上からは街を一望できた。地方都市の中心に位置するその病院は歪曲者たちを非常時に治療する場としても機能していた。通常時は治療も診療もすべて『学園』内で済まされていた。その治療方法もまた『歪曲』を使用したものであったので歪曲者たちはみな通常より治りが早かった。骨折などは数分で治ることもあった。それもすべて歪曲者をすばやく現場に戻すための施策であった。
ミカは最上階でエレベーターから降りた。老人たちがぼんやりとした顔でロビーにあるテレビを眺めていた。ここなら無料でテレビを見ることができるのだ。ベッド脇にあるテレビは特別なカードを買って入れない限り見ることはできない。壁にかけられている大型のテレビはいつもどおりの画面を写している。街中はまだ何も変わっていなかった。ロビーを背にしてミカは屋上に至る階段を登り始めた。
屋上はフェンスで囲まれている。中央付近にはベンチが置かれていた。病院内全面禁煙前のなごりだった。
ときおり白く分厚い雲が夏の強い日差しを遮っていった。その流れていく雲を一人の男がベンチに座って眺めていた。男のほかに座っているものはいない。真夏日の外に出ようなどという好き者は少ないのだ。
男の右足にはギブスが巻かれていて、その脇には松葉杖が置かれている。男の外見は重傷患者そのものだった。だが包帯と包帯の間にあるその表情は自身の深刻さに気がついていないかのように弛緩している。ときおり牛のようにもごもごと口を動かし、折れていない左手で頬を掻いたりしていた。風がドッと強く吹いた。男の汗が蒸発していく。男の背後にあるアルミの扉がゆっくりと開いた。ミカが屋上にたどり着いたのだった。
外に出たミカはむっとする暑さを久々に感じた。ぬるい風がミカの周りをまとわり付くように流れていく。ベンチに座る病衣をまとった男の背中を見て、先へ行くことにすこし気後れした。男の隣に座る気もなかったし、暑い日差しの中でぼんやりと時を過ごす気もなかった。ミカはただ外の世界はどうなっているのかを知りたかったのだ。少し足を引きずりなからフェンスのほうへと向かった。歩くたびに肋骨、いや全身がきしんだ。フェンスの前にたどりつく。ミカはフェンスに鼻を押し付けるようにしてその光景を見つめた。行き交う車、ときおり聞こえるクラクション、どこかに向かうサイレン、微かに聞こえる踏み切りの遮断音、そして道行く人々の足音さえ聞こえてきそうだった。ミカはまだ見つめ続ける。街の奥には山が見えた。その山が静かな空と騒々しい地を分けている。入道雲がその淵からせりあがってきていた。風がまたミカの身体にまとわり付く。林立するビルとマンション、それから戸建て、そのすべての室外機がくるくると回り続けている。夏の日差しにあぶられる街は揺らめくようにしてミカの前にあり続けていた。これが現実。あれは、夢。
ミカはため息をつく。彼がどうなったのかは知らない。あの後ミカが意識を取り戻したのはベッドの上のことだった。それからずっと事情を聞くこともなくこの病院で過ごしていた。男がミカの背後でくしゃみをした。ミカは思わず振り向いた。
「あ~、いてえ」とベンチに座る男は胸の辺りを擦っている。
「深谷くん?」とミカは駆けるようにベンチへと近づいた。深谷と呼ばれた男はベンチから立ち上がることなく、首だけを動かして小走りで寄ってくる少女の様子を眺めていた。その少女の顔を思い出したのか目を細めて、頬掻いた。
「もしか、芦田さん?」
「そうだよ! ねえ、よかった。生きてて」とミカは涙ぐんだ。
「あ~、いやあ、なんというか生きてたね。俺としてはあのまま死んじまってもいいくらいだったけど。ま、あいつに殺されるのはいやだったからけっこう真面目に戦ったんだ。だからこんな怪我を負ったわけ、じゃないみたいなんだよな。そこんとこどう思う?」
「どう思うって」と言いながらミカは深谷ニノの隣に座った。「わたしもわかんないよ。深谷くんが頑張って勝ったら急にベッドの上で目が覚めたって感じだもん。それからもう痛くて」
「だよね。あのままだったら俺だけが重傷なわけだ。けど芦田さんもけっこうな怪我してる。ということはアイツの言ってたとおりに俺たちはどうやら一緒の夢を見てたんじゃないかって」
「一緒の夢? というか深谷くんよくそんなこと考えられるね。わたし、体の痛みだけしか分からなかったのに。ようやく今こうやって外に来て、こっちがほんとの現実なんだって思ってたの。でも、深谷くんの言うとおりなのかも。わたしにはよくわからないけど……」とミカは困惑した顔で深谷を見やった。深谷は少し笑う。
「芦田さんは、芦田さんのままだな。こっちでも夢の中のとおりだ。正直、俺だけが勝手に見てた夢の可能性もあったけど、そうじゃないみたいだね。俺たちは確かにあそこにいたんだ。たぶん意識だけでも。どうしてそうなったかは分からんけど」
「ねえ、どうして怪我してるか知ってるの?」
「ああ、たぶん俺たちは正統派の襲撃に巻き込まれたみたいだな。じゃなきゃ俺がいた監獄が壊されるわけがない。芦田さんだってそろそろ思い出せてきたんじゃないの?」
深谷の言葉を聞いて、ミカは目を瞑って気を失う直前自分は何をしていたのかを辿っていった。そうだ。捕まっていたレイナを助けようとしていたのだ。福田アキラと一緒に。けど、その福田アキラは『福田アキラ』じゃなかった。誰かの歪曲で変装していた男だった。そのことに気がついたときにはもう遅かった。ミカはすでにその男とレイナのために監獄の扉を開けていた。ミカの鼓動が早くなる。自分が引き金をひいたのではないのか。
「どうしちゃった急にマジな顔しちゃってさ」と深谷はミカの顔を覗き込む。
「もしかしたら、もしかしたらね、わたしが、全部悪いのかもしれない」とミカは小さく言った。
「そんなことねえよ。こういうのはやった奴らが悪いんだ。やられた俺らは完全無欠な被害者。なにも気にすることないし、むしろやった奴ら恨んじゃってもいいくらいだな」と深谷は気軽に言う。それでもミカの顔がその言葉で晴れることはなかった。
日差しが雲で隠れる。びゅうっと風が吹いた。二人の前に一人の男が立っていた。深谷は何が起きているのか理解していない。ミカもそうだった。二人はただぼんやりと目の前に立つ男の姿を眺めた。
髪は黄金色で腰に届くほどに長い。体つきは細身であるが芯が通っている。背後から殴りかかってもぶれることはなさそうだった。身に着けているものは白のワイシャツに黒のズボン、そして茶色の革靴に緑のソックス。大部分は隠されているが、その肌は透けるように白かった。男の瞳は灰色で今そこにはベンチに座る二人の姿しか映してはいない。男の薄い唇が声を作った。
「探したよ、ミカ」
「え?」とミカは男に焦点を合わせた。見知らぬ男だった。たぶん自分と同じ歪曲者だということは肌で感じていた。隣にいた深谷は松葉杖を持ち上げて男に差し向ける。
「それ以上近寄るな。芦田さんがこういう反応するときは、てめえは敵なんだよ。さっさとどっか行け。いまここでお前に用があるやつはいねえ」
「キミには用がないんだ、見知らぬひとよ。少し眠っていてくれ」と男は言った。松葉杖がタイルの上に落ちた。白目をむきながら深谷はベンチにもたれ掛る。焦りながらもミカは深谷の手首を握った。脈はあった。
「なにしたの?」とミカは怒鳴るように言った。
「寝かせただけだよ。ミカ、一緒に行こう。キミの力が必要なんだ。レイナも待ってるよ」
「え?」
「キミのその姿は少しかわいそうだな。ミカは健康な姿じゃないと辛いだろう。さあ癒えなさい」と男はミカの頭に手を置いた。ミカはその手をギブスをした右手で払いのけた。折れた右腕と物とが強くぶつかれば痛みがあるはずだった。だが、なかった。そして今まで共にあった全身の疼きも無くなっていた。ミカは呼吸を速く浅くさせながら、男を見た。
「わたしになにをしたの?」
「キミの傷は癒えた。それだけだ。キミは従うんだ。共に行き、みなと仲間となる。そうなるのだ」
その言葉を聴いてミカは薄い膜を脳に貼り付けられたような感覚になった。そうだ。わたしはこの人についていくんだ。そのように脳は言い始めた。ミカは立ち上がる。だが何かが引っかかる。ミカはまだ深谷の手首を握ったままだった。薄い膜がわずかにずれた。ミカの鼓動が早くなる。
「あなたは、誰?」とミカは深谷の手首を握ったまま絞るように声を出した。男はそのミカの姿を興味深そうに見ていた。
「メシア。皆からは『彼』と呼ばれていたようだ。この世界を救うためにここに来た。もっと強く言わなければならないのかな。加減がまだ分からないのだ。すべてを台無しにしては意味が無いから」
「メシア?」とミカは息を止めて男を見た。その言葉の意味は知っていた。正統派たちがしきりに言っていたのだ。すべての終わりと初まりに『彼』が来る、と。
「さあ、行こう。強くは言わない。今度はキミの意思で選び取らせよう。キミは付いてくるんだろう?」と男はミカに手を差し出した。
ミカは深谷のほうを見た。
「深谷くんは、ちゃんと目を覚ます?」
「ミカが望むならそうなるだろう。そうだ。ミカ共に去ったあと彼は目を覚まし、自分の体が癒えたことを知る」
「……わたしをどこに連れて行くの?」
「いや、キミに連れて行ってもらいたいのだ。キミのその能力で。ひとまずは彼らの場所に行こう。ここに来たことを彼らはまだ知らないのだ。だがもう時は来た、君は彼らと合流する」
「そうね」とミカは軽く男の手に触れた。
そうして二人は消えた。残ったのはタイルの上に転がる松葉杖と、ベンチに横たわる一人の男だけだった。
風が強く吹いた。
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