第35話

 日が地平線の向こうからゆっくりと姿を現していた。レンガ造りの城下町からは朝を迎えるための煙がゆらゆらと立ち上っている。どこかで鶏の鳴く声が聞こえた。真下に見える城の庭では憲兵たちが宿直の引継ぎをしている。シェフの格好をした小太りの男がせわしそうにその後ろを横切って行った。太陽が昇るにつれて広大な庭の花々は色めき立ち、城を囲む木々はその葉に日差しを多く当てようと躍起になっている。春めいた朝だった。窓辺に立つ僕らは黙ってその様子を眺めていた。

「いい朝だね」と僕は傍の少女に言った。

「目が覚めるわ」と彼女は答えた。「少し外を散歩しない?」

「散歩か。近頃まったくしてない」と僕は思い出した。

「そう。あたしは毎朝してるわ。裏山を登ったり、街の朝市をのぞいたり。ここはいろんなものがあるのよ。あなたもきっと退屈しないわ」と少女は言って、僕の手を引いた。温い手だった。僕は抵抗することもなく彼女についていった。

 暖かな部屋を出て、橙色のレンガに囲まれた廊下を歩いていく。天井は高く、適当な間隔でランプが吊るされている。不思議なことに少女が廊下を進むにつれて、行く先にあるランプは灯されていった。螺旋階段を降り、我々は庭についた。日はもう昇っている。僕は少女に手を引かれながら庭を巡った。

「いろんな花があるね。マリーゴールド、シクラメン、スミレ。あの木はハナミズキだ」

「奥にはサクラもあるの。うちの執事の趣味」

「へえ、いい趣味だね」

「なんでも取ってきちゃうのよ。きれいなものはなんでもね」

「サクラ、見てみたいな」と僕は言っていた。

「じゃあ奥に行きましょう。五日前くらいから咲いてるから」

 街を背にして我々は歩いた。花のにおいが落ち着いたころ、行く先に桜並木が見えた。どれもこれも満開で、ときおり風に揺られては花弁を散らしていた。我々は言葉を漏らすこともなくその並木道を歩いていった。白桃色の花びらが少女の黒い髪についた。僕はそれを取ることなく眺めていた。少女は立ち止まり、空を覆うほどのサクラを見上げた。

「これを見るとみんな春を思い出すって言う」

「そうだね。サクラは春に見るものだから」

「あたしはここに来るまで見たことなかった。ずっと部屋の中にいたから」

「そうなのか。けど僕を連れ出したときは慣れたものだったじゃないか」

「あの場所だけ。あの場所だけがあたしの庭だったの。あそこが彼の故郷だったから」

「彼?」と僕は少女の顔を見た。少女は微かに笑って、僕の手を引っ張った。

「ついでに山のほうへ行きましょう。この道は裏山につながってるの。中腹くらいのところにベンチがあるから、そこで少し休みましょう」

「ああ、いいね」

 桜並木を越えると道は次第に狭まってきた。傾斜もついてきて、しばらく歩くと森の中をゆっくりと登る山道となっていた。野鳥のさえずり、梢のささやき、シマリスの足音、それに驚く少女の声。シマリスはすたこらと道を横切っていった。何かを追うわけでもなく、そしてまた何かに追われているわけでもなかった。

 我々は道を進んだ。傾斜は緩やかで、桜並木を出てから五分ほどで少女の言う山の中腹に着いた。木製のベンチが街のほうを向いて置いてあった。我々はそこに並んで座り、朝の街で働く人々の影ぼうしを眺めた。

「それで、これからどうするの?」と少女は言った。

「老人とまた合流するよ。彼の計画はいまいち分からないけど。実はここに来たのは老人の命令なんだ。君がいる限り本部に乗り込めないだろうから、混乱乗じて破壊しろって」

「破壊できなかったけど」

「うん。僕じゃ無理だったし、もうしなくてもいい気がする。まあ、あの老人が何とかしてくれるさ」

「Qって呼ばれている歪みよね、その老人って」

「そう。お話したとおりさ」

「それならやっぱり彼のお友達ね」

「彼って?」

「……うちの執事よ。人間になった時期がほぼ一緒だったんだって。もし次の段階にいくならアイツを喰うしかないだろうって言ってたわ。お互いその気はないみたいだけど」

「あの執事、歪みだったのか」

「うん。施設で彼に適合できたのがあたしだけだったの」

「適合とかあるのか」

「うん。気に入らないとすぐに殺しちゃうから」

 僕は口を閉ざして少女の横顔を覗いた。少女はゆったりとした面持ちで春の日差しを楽しんでいた。

「よく殺されなかったね」

「そうだね。たぶん、あたしが何も知らなかったから」

「知らなかったから?」

「そう。あの人、初めて会ったときにあるゲームをしようって言ってきたの。もしお前がこのゲームに勝ったらお前のしもべになろう、だがもしお前が負けたらお前を殺そうって。あたしは死にたくなかったから、別にゲームなんてしないでミナのところに帰りたかった。けど、あの人を手に入れられなかったらどの道処分される。あたし、困っちゃった。とりあえずゲームをしないことには何も始まらないってそのとき思ったのね。じゃあいいわ、やりましょうってあたしは答えたの。あの人は満足そうに笑ってゲームのルールを教えてくれた。十回の質問で私がなにを思っているのかを当てろ、ただし質問には『はい』と『いいえ』でしか答えないっていう感じ。あたし、むずかしいのは嫌いなの。それ生きてる? 形あるもの? おいしい?っていちいち聞いていって考えないといけないわけでしょ。だからあたしは質問じゃなくて相談をしたの。ここから抜け出すにはどうすればいいの? 世界には何があるの? どうして空は青いの? 電気って何? そんなふうにいつも疑問に思ってたことを全部聞いていった。あの人はものすごーくヘンな顔してた。ふふふ。ルールを聞いてたのかって言ってきた。聞いてたよ、質問じゃなくてこれは相談なの。ねえ答えてよって言ったわ。そう、それからね。それからずっとあの人は相談に答えてくれてる」

「長い付き合いみたいだね」

「うん。きっとこれからも」

「僕も老人とは長くなるかな」

「アナタにはもっと別のパートナーがいるでしょう?」

「べつ?」

「アナタだって歪みを使ってるじゃない」

「ああ、それか。僕はまだ出会ってないんだ。たぶん確かに自分の中にいるらしいってのは分かってるんだけどね」

「違う。もう出会ってる」

「へ?」と僕は少女のほうをまた向いた。少女は僕に微笑みかけてきた。

「アナタが『根源』に行ったときに出会った猫よ」

「コンゲン?」

「さなえがいる場所。あそこはすべての歪みの『根源』なの。そこでアナタ以外のものに出会っているのならそれはアナタの中にいる歪みしかない」

「あの猫が? けどそれ以来見てないよ」

「アナタが見ようとしていないだけ。名前を付けてあげるといいわ。呼べばきっと出てくるから」

「名前ね。猫に名前をつけるのは苦手なんだ。ネーミングセンスがあるわけでもないし」

「じつは名前はもうあるのよ。あとはアナタがちゃんと掘り起こすだけなの」と少女は言って僕の手を握ってきた。強く、思い出に残るぐらいに強く握ってきた。冷たい風が我々の間を過ぎていく。

「もう帰っても大丈夫だね」

「帰れるのかな」

「ホントはいつだって帰れたわ。アナタが望めばあたしはいつでもアナタをもとの場所に帰せるの」

「帰らなくてもいい気がするけどね」と僕は笑った。

「ミナのこと、よろしくね」と少女は僕を見た。

「少なくとも僕は危害を与えないし、また与えさせもしない」

「そう。ありがとう。それじゃあ、いつかまた会いましょう」

 少女はそう言って片手で僕の両目を覆った。僕はその温い手のひらに意識を吸い取られながら、周囲の音や匂いが消えていく感じていた。すべてが消え去り、残ったのは冷たい左腕だった。


 目を覚ました僕は二人の女性に囲まれていた。一人はベッドに腰掛けて少女の髪を撫でながら、もう一人は僕の右手の動脈を触りながら僕の隣に座っていた。

「死んでなかったのね」と僕の脈拍を測っていた金髪の少女は言った。

「会ったよ。彼女に。元気そうだった。ミナによろしくって言われました」と僕はベッドに腰掛けている女性を見た。

「そうでしたか。ニナはまだ帰って来れないんですね」と女は少女の髪をゆっくりと撫でている。

「まだ条件は整ってないみたいです。本部に行って、コアを制御している装置を破壊してからですね。破壊しても帰ってくるかは分かりませんけど」

「ねえ、ウチのことはなんか言ってた?」とレイナが聞いてくる。

「また一緒にドラゴンの背中に乗ろうってさ。暇なときに行くといい」

「ふうん、そう」

「じゃあ、僕はもう行くよ。ここではやることないし一回家に帰って眠りたいんだ」

「帰れるの?」とレイナはミナさんのほうを見た。ミナさんは相変わらず少女の髪を撫でている。僕は立ち上がろうとした。けど足がもつれて立ち上がることは出来なかった。無様に倒れこんだまま自分の体が徐々に冷たく、そして重くなっていることに気が付いた。

「お前、僕になんかしたのか?」

「なにも。弾は抜いておいたし、止血もした。感謝してよね。それにそもそもアンタが眠ってまだ30分も経ってない。アンタ、ほんとに会って来たの?」

「会って来たさ。向こうじゃ一日は過ごしてる。わかるだろ。こことあっちじゃ時間の流れが違うんだ」

「確かにそうだけど」

「おかしい。体が動かない」

「あんだけ血を流してたらそうなるよ。たしかアンタ、死んでも死なないんだろ。さっきみんなに聞いたけど、ウチの上の人たちが大分アンタの世話になったらしいじゃん」

「あんなクズどもを世話した覚えはないし、死ぬときは死ぬ。運よくまだ死んでないだけだ」と僕は言って、目を閉じた。まぶたの上に鉛があったのだ。その鉛は次第に体中を覆い始めた。

 一度死んだらいつ生き返るかはまだ分かっていない。このまますべてが終わるまで死ぬのかもしれない。それはそれでよかった。僕は体の力を抜いた。意識はもう遠いところにあった。深い深い暗闇を落下していく。次第に息するのも忘れていった。死因はなんだろう。結局死神に殺されたことになるのだろうか。あの男のジンクスを律儀に守ったことになる。それは悔しいことだったが、仕方がないのだ。僕は死ぬ。何度でも。

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