第34話

 前へ前へと這って進むごとに、砂利が僕の腕を削っていった。そこにひんやりとした液体が掛かるようになった。漏れ出した地下水なのかもしれない。ためらうな。そうだ、前に進むのだ。僕は自分をそう鼓舞したのだが、僕の腕に掛かる液体の量は多くなり、とうとう最後には顔を上げなければ息をできないほどまでになった。僕は這うのをやめた。浮力を感じられるほどの水量が僕の周りにあった。気がつけば背中が壁に当たっていた。明らかに増水しているのだ。水は前へと流れようとしていた。僕は全身を水の中に埋もれさせて、流れに従った。呼吸することは諦めていた。初めは辛かった。数分すると楽になった。それからしばらくすると、想像を絶する苦痛が全身を襲った。どうしようもなく何かを吸い込みたいのだ。だが周りには冷え切った液体しかない。僕は全身を激しく震わせながら、口元を強く抑えていた。ある一点を超えると力を入れることすらままならなくなり、僕は口をあけた。水を吸い込み、咳き込み、夏のプールで味わったあの鼻が曲がるような苦痛を幾度も幾度も反芻しながら、意識の底へと落ちていった。

 たぶん僕はこのとき一度死んでいる。今度は溺死だ。

 意識が戻ったとき、僕はまだ水の中にいた。体が勝手に浮き上がっていき、水面に出ることができた。僕はそのまま流れに身を任せた。それから、傷ついた鯨のように岩場に打ち上げられた。長い間、身を横たえたまま自分の鼓動を聴いていた。暗闇は軽いものになっていた。僕はゆっくりと立ち上がり、犬のように身を震わせてから、明るいほうへと歩き始めた。

 洞窟の出口には猫がいた。黒猫だった。猫は僕を見上げてから、すたすたと外へと出て行った。僕は何も考えることもなく、猫の後をついていった。

 洞窟の外には荒野と灰色の空が広がっていた。洞窟と同じ砂利が大地に敷き詰められていた。枯れ木すらない。そもそも生命がいるべき場所ではないのかもしれない。ここは火星だと言われても信じただろう。

 猫は足跡もつけることもなく、振り返ることもなく四足で進んでいった。どこに向かっているのかは、彼あるいは彼女だけが知っていた。僕はそれだけで良かった。猫が前を歩いてくれるだけで、何もかもが良かった。分かるだろうか。この気持ちが。

 地平あたりに小屋が見えた。それなりに大きいログハウスみたいだった。近づくにつれ煙突やら井戸やら、果樹園やら、そんなディティールが分かってきた。煙突からは薄い煙が出ていた。誰かがいるのだ。そして猫はそこに向かっている。

 猫はログハウスの前で振り返った。それから扉をあけるように僕を見上げた。僕はその木製のドアを開けた。猫では開けられない重さだった。

 中に入るとヒノキと微かなコーヒーの香りがした。入って左奥の暖炉には火がくべられている。ソファがそのまえに一掛けだけ置かれていた。ドアの正面にあるキッチンは整然としていて、使用者の性格を現していた。部屋の中央には大きなウッドテーブルがあった。その上にコーヒーカップが一つだけ置いてあった。まだ湯気が立っている。猫は暖炉の前で丸くなっている。僕はコーヒーカップを手に取り、少し啜った。少し苦かった。砂糖もミルクも入っていなかった。淹れた人間の好みなのだろう。僕はコーヒーカップを元に戻した。そして、横に白い紙は伏せられたまま置いてあることに気がついた。僕はそれを手に取り、文字の描いてあるほうを見た。

『まだ、君に会うつもりはないんだ。ここは教室じゃないからね』

 そう一行目には書いてあった。前島さんの字だった。

 僕は顔を上げて、部屋の中を見回した。猫しかいなかった。彼女はおそらくここに住んでいるのだが、今はここにはいない。僕は紙に目を戻した。

 『これを読んでいるということは、君は相当無理をしているに違いないと思う。出来ることなら、もう無理することなく家に帰ってゆっくりと休んでほしい。私のことは気にしなくていいし、気にする必要はない。会えるときになったら、会えるようになるから。人生ってそんなものだろう?』

 僕はコーヒーに手を伸ばして、もう一度啜った。ほろ苦かった。

 『もし君がここに来て、何かを求めているのなら、私にできることはコーヒーを一杯、それも渾身の一杯さ、それを淹れることだけだ。あとは帰り方を教えるくらい。帰るときは井戸の底で眠るといい。そうすれば君は自分の家のベッドの上に帰れるから。

 コーヒーを飲んで、少しすると眠くなるだろう。別に睡眠薬を入れたわけじゃないさ。ここはそういう場所なんだ。君はここに適応することは出来ない。眠くなったら井戸の底に下りるんだ。そこまで深くはないから安心してくれ。

 もしまた会えたら、君の話を聞かせてくれないか。そのかわり、君は私の話を聞いてくれるとうれしい。

 天国というのはそういう場所なんだと勝手に思ってるんだ。天国じゃいろいろな人に会って、いろいろな話をするのさ。生きてて楽しかったこと、悲しかったこと、何を見つけたのか、何を失ったのか、結局自分はなんだったのか。そういうことを話し合って、時間を過ごしていく。人間はきっといっぱいいるから誰も退屈になることはない。それで、私はそこで君にあって話し込むんだ。そんなふうに信じてる。

 じゃあ、さようなら』

 そこで文字は終わっていた。僕はゆっくりとその紙を置いた。それからコーヒーカップを持って暖炉の近くにあるソファに座った。暖炉の中で揺れる火を眺めながら、コーヒーを啜っていった。空になったころには、猫が僕のひざの上で丸くなっていた。僕は自然とその背中を撫でていた。猫はまどろみの中にいたようだけれど、唐突に首を上げて、僕の膝から飛び去ってドアのほうへと歩いていった。僕は立ち上がり、目をこすりながらテーブルにカップを戻してから、猫のためにドアを開けた。猫は俊敏に外へと出て行った。僕はようやく外が肌寒いことに気がついた。

猫は家の裏に回った。そこには井戸があった。レンガで丸く囲まれた井戸だった。内側にははしごが掛かっていた。石を投げ入れたが、ただ岩盤に跳ね返る音がしただけだった。僕は猫にさようならと言ってから、おぼつかない足をはしごにかけた。まぶたはどうしようもなく重く、思考は途切れ途切れになっていた。

十段ほど降りると底に着いた。冷えた底だった。僕はゆっくりと地面に横たわった。地面は冷たくなかった。目を閉じ、暗闇を迎えた。意識が途切れる寸前に声を聴いた気がする。おやすみ、という静かな言葉を。


 それから、僕は自宅のベッドの上で目覚めた。蒸し暑い部屋だった。エアコンのリモコンを探しあて、電源を入れた。ベッドの上にまた横たわり、目を閉じた。眠りはすぐにやって来た。僕はそのまま眠りに落ちた。贅沢な二度寝だった。

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