第33話

 一切が虚しく思えるときがある。無性に泣きたくなって、誰かを責めるよりもまず己のくだらなさにほとほと参ってしまう。そんな時は、たとえ死が隣にあったとしても体を動かすことはないだろうし、実際のところ僕はそうしていた。

 洞窟の入り口は完全にふさがれていた。目を開けていても閉じていても世界は変わらなかった。僕は壁に寄りかかったまま、目の前で揺らめく暗闇を眺めていた。濃淡を持った闇は、蜃気楼のようにしてその形を変えていった。和紙に落とされた墨のように滲み、空間を侵食していく。その無数に分かれる細い触手めいた暗さは、僕の方へとゆっくりと、非常にゆっくりと接近していた。僕はその緩慢な動きをただただ視線でなぞるだけだった。その一端がそっと僕の頬に触れるくらいになった時、どこからか声がした。

「抵抗しなければ、喰われるぞ」

 僕は口を開かずにその声の方をうかがった。金属の擦れたような音がした。火が灯り、一人の男の影が揺らめくようにして現れた。

「我々はそれを原形と呼んでいる。なにからなにまで手当たりしだい取り込もうとするのがその影の特徴だ。周囲の環境の変化に弱く、夜行性で明るい所を好まない。その出所は、おそらくこの洞窟の奥からだ。さあ、立つんだ、福屋アキラ」とその男は僕に手を差し伸べた。

 僕はその手を見ずに、明かりに照らされてもなお暗い空間を凝視していた。原形質と呼ばれたソレは、ゆっくりと収縮しているところであった。

「まだ気になるのか。時間がないんだ」と男は言って、その影に手を向けた。すると影は一瞬のうちに握りつぶされるようにして消え去った。僕は顔を上げて、ようやくその男を直視した。

「笹倉さん、どうしてここに?」

「君を向こうに連れて行くためだ」と僕の腕をつかんだ。「さあ、立つんだ」

「自分で立てます」と僕はその手を振り払って、壁に寄りかかりながら立った。

「よし。さあ、付いてくるんだ」と笹倉は歩き出した。僕はその背中を追わなかった。笹倉は立ち止まって、苛立たしげに振り返った。笹倉が何かを言う前に、僕は再度聞いた。

「笹倉さん、どうしてここにいるんですか?」

「やれやれ、騙されたのが相当堪えたみたいだな。いいか、俺は君を向こうに連れて行きたいんだ。そこには君の会いたがっている前島がいる」

「前島さなえは死んだ。アンタはそう言ったんだ。それがどうして今度はいるって言うんだ?」

「それを言ったのは今の俺じゃない。いずれ分かるだろう。ここで議論している余裕はないが、仕方がない。少し話すか。前島さなえは今きわめて特殊な状況にいる。それは分かるな?」

「分からない」

「いいか、福屋アキラ。お前は勘付いているはずだ。西沢が言っていたことを思い出せ。前島さなえの完全な死。それが奴らの目的だ。つまりそれは今奴らが出来ないでいることでもある。なぜ奴らもそう簡単に手を出せないでいるんだろうか。それは前島さなえが本部に匿われているからだ。じゃあ、なぜ前島さなえは本部に匿われているのか。分かるか?」

「分からない」

「ここがなんと呼ばれているかも聞いていたはずだな。十数分前の出来事だ。さっきの衝撃で記憶障害が起きていない限り、分かるはずだ。答えてみろ」

「分からない」

「いいから、早く言え」と笹倉は僕に一歩だけ近寄った。僕は唾を飲み込んでから、答えた。

「穴と呼ばれていると、アイツは言った」

「そう、穴だ。穴には蓋が必要だ。そうだろ? 簡単な話だよ。臭いモノには蓋をする。これがすべてなんだ。本部の目的は穴を塞ぐことだ。それにより影をこの世界に侵入させないようにする。さて、世界で一番巨大な『穴』はどこにあると思う?」

 僕は、目を瞑った。立ちくらみのような眩暈が唐突に僕を襲ったのだ。

「本部の真下だよ。その地下大空洞に世界で確認されている限り最も巨大な『穴』があるんだ。もしそこを開けっ放しにしていたら、三日も待たずに世界は『歪み』で覆われてしまうだろうって試算だ。そう、もし完全に開けっ放しにしてしまった場合だ。つまり普段、『穴』は『蓋』で覆われているわけだ。その『蓋』はどういうものなのか、分かるか?」

「分からない」

「ウソを言うな。お前はもう分かっているはずだ。向こうとこちらを橋渡しできるような存在だ。そうでなければ蓋を務まらない。つまり、分かるな? 歪曲者がその適正を持っているわけだ。ここまではいいか?」

「何が言いたいんだ」

「一つ話をしよう」と笹倉は僕の問いかけに答えることもなく、話し出した。

「さて、あるところに少女がいた。歪曲者だ。もともと彼女はかなり巨大な歪曲能力を持っていた。うまくいけば時空そのものを歪ませるような能力だ。しかしその能力をうまく使えないでいた。理由は不明だ。日々能力を制御するための努力していたが、どうしても壁が見えた。だが、彼女は焦ることはなかった。べつに制御しきれなくともいいと思ってもいた。それが、戦争が始まって事情が変わった。彼女は力を求めて『歪み』を吸収していった。自分の容量を超えたとき、ポンと弾けた。こうして彼女は人とも『歪み』とも区別がつかない存在になってしまった」

 笹倉は口を閉ざし僕を見つめた。笹倉の持つライターの揺らめく炎が僕の意識の全てだった。

「つまり、それが前島さんだってことなのか」

「正解だ。くわしくは本人から聞いてくれ。この穴の先に門番として彼女はいる。すべての穴は一つの場所につながっているんだ。だからこの比較的小さな穴からでも、彼女のいるところまでたどり着ける。さあ、行くぞ。時間がないんだ」と笹倉は言って、歩き出した。

 僕はためらうこともなく、その揺らめく炎の後を追った。


 洞窟の奥へと続く道は肌寒く、人を拒むような圧迫感で満ちていた。道幅は一定していなかった。ある時は広く、ある時は狭くなった。分かれ道のようになることもなく、ただの一本道が続いていた。ときおり先を行く笹倉が手を掲げ、何かを握りつぶすようなしぐさをした。影が壁から滲み出てくるのだ。その頻度は気温が下がるにつれて多くなった。数時間は歩いたかもしれない。とにかく休みなく歩いた。僕は空腹で足がふらつき始めた。僕の歩みが遅くなったのに気が付いた笹倉は立ち止まり振り返って、僕をたしなめるように見た。

「もう少しだ。しゃんとしろ」

「息が詰まるんです」と僕は大きく呼吸をした。

「すぐになれる。空気が薄いわけじゃないんだ」

「そうですかね」

「そういうものなんだ。行くぞ」

 笹倉の言葉は嘘ではなく、次第に息辛さには慣れ始めた。残ったのはどうしようもない飢餓感だった。ねっとりした暗闇が僕の足を重たくさせていた。僕の歩みがさらに遅くなった頃、笹倉は立ち止まった。揺らめく炎は壁面を照らしていた。

「この先は、君一人で行ってもらわなければならない」

「この先? 行き止まりに見えるんですが」

「下を見ろ」

 そう言われて地面を見た。成人男性一人が這って入れるほどの穴が空いていた。

「ここに入れと?」

「そういうことだ。光はもう使えない。ただ振り返ることもなく前進しろ。先にこれを渡しておく」と笹倉は僕の手にプレートの付いた鍵を握らせた。

「なんですかこれ?」

「ある駅にあるロッカーの鍵だ。どこの駅かはそのプレートに書いてある。それに従ってくれ」

「そのロッカーの中身は?」

「ノートだ。以前の俺の日記みたいなものだ。君に譲ろうと思ってる」

「どうして?」

「いずれ君に必要になるからだ。いずれ分かる。まあ、いい。とにかく今は向こうに行くことにだけ集中するんだ」と笹倉は僕の背中を軽く叩いた。

「この先に、本当に前島さんがいるんですか?」

「いる」と笹倉は頷いた。

 それを聞いた僕はため息をついた。それから屈んで、穴の中に頭を突っ込んだ。やけくそだった。僕の尻に声が入ってきた。

「けっして振り返るなよ。ただまっすぐ這っていけ。必ず広い所に出る。そこまで引き返そうなんて思うな。ためらえばすべてを失うぞ」

 僕はその言葉に返事をすることもなかった。ただ腕を動かして、粘度の高い暗闇の中へと這いずって行った。

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