第32話

 話す価値もない人間もいる。それがたまたま目の前にいる男だった。男は笑った。

「俺の能力のことを思い出したか。はっ、安心しろよ。お前に能力をかけることはない。いいから座れよ。お前と少し話したいんだ」

 僕は立ったまま西沢を見つめていた。西沢は首を振ってから、ため息をついた。

「まあ、いいさ。突っ立ってても構わない。俺は勝手に話すが、お前は別に返事しなくてもいい。そうだな、すこし昔の話から始めよう。まず俺たちは、お前を捕まえようとした。お前が未来から来たと言ってるからだ。もしその未来が俺たちの未来なら、お前は俺たちのやることを知ってることになる。それを奴らにリークされれば、俺たちはとんでもない状況に陥ることになる。実際に知られてしまった俺たちは、死んだ。お前の所為でないことは分かってる。お前はなぜかあくまで口を閉ざし続けていた。俺たちは奇妙に思いながらも、お前だけを監視していた。それが奴らの計画だった。お前を囮にしてほかの未来人を保護し、俺たちがやったことを聞き出して、背後から俺たちを刺してきた。奴らはいつだって小賢しい手を使う。そこで俺たちは瓦解し、計画は霧消するはずだった。だが、俺たちは生き残った」と西沢は僕を見てにやついた。僕は手元のコーヒーをそのまぬけ面にかけてしまいたかった。しかし、そうされるコーヒーがかわいそうに思えた。僕はテーブルにコーヒーを置いた。西沢はその湯気の立つカップを見て、言った。

「あの女は眠ったのか。最近はよく働いてくれてるよ。予想以上だ。いいマスコットになってる。アイツを使って、ガキどもを集めて俺たちが何やってるか、わかるか? わからないだろ。俺たちはもっといい計画を思いついたんだ。『彼』のおかげでな。それが成功すれば、世界はより深く俺たちを知ることができるようになる。如何に俺たちが正統的な存在であるかをな。本部のやつらは愚物だ。自己の価値を自ら落としている。なぜアイツらがアレほどこの低次元の世界に拘るのか、理解できない。すべては解放されるべきだ。そうだろう?」と西沢は僕を見た。僕は西沢の言ってることを一切理解できていなかった。西沢は続けた。

「つねに生物は変移する環境に適応したものが勝ち残ってきた。今まさに、環境は変わりつつある。遅れた人類は死滅し俺たちが生き残る。そのとき、俺たちが種の頂点に立つことができるのだ。これが真理だ。お前にも真理を授けよう」と西沢は言って、ポケットから見覚えのある直方形のケースを出した。「これを打ち、適応するかしないかはお前の自由だ。だが、今ここでその選択を行ってもらう。どうだ、打つか?」

「打つわけがない」と僕は答えていた。

「だろうな」と西沢は笑った。だがケースをしまうことはなかった。

「仕舞わないのか?」

「なぜ、俺たちのことを嗅ぎまわってた? いや、それ以前になぜあの場所を知ることができたんだ?」と西沢はケースを人差し指で叩きながら言った。「いや、いい。お前の答えは分かっている。『それをお前に言う必要があるか』だろ?」

 僕は無言を貫いた。

「俺たちの情報統制は完璧だった。あの時間、あの場所に近づけるのは俺たちだけだった。俺がそういうふうにしていたんだ。俺の能力でな。だが、どうだ。実際は一人の人間を何の危機感もなく紛れ込ませてしまったわけだ。お前が本部のエージェントなら、俺たちは今度こそ終わっていた。それは重大なことだった。だから俺は責任を追及され、なぜお前が入ってこれたのかを調べるよう仲間たちに要求された。俺はお前のことを丹念に、緻密に調べた。それで分かったことなんだが、お前、以前俺たちの仲間の一人に両親を殺されてるな?」と西沢は僕を見た。その顔はもはや緩んでいなかった。

 僕は口を開かなかった。

「記録上ではその男を本部奴らが捕まえたと言ってるが、あれはウソだ。俺が殺した。私欲に任せて能力を使用するような奴など、組織の足かせにしかならないからな。形の上では、お前の仇を取ったのは俺だ。どうだ、俺に恩を感じたか?」

 僕は西沢を見つめていた。西沢は僕のことを見ていなかった。

「しかし、お前が俺に恩を感じるかどうかなど問題ではない」と西沢は机の端を睨みながら言った。「お前が知ってるのか知らないが、俺の能力は一定の条件下で俺自身の現実を周囲に押し付けることができる。俺がそうと認識すれば、周囲もそうなる。だからか知らないが、俺は周囲の環境の変化にひどく敏感にできている。誰かが俺の記憶を改ざんしたとしても、何らかの違和感が残るくらいだ。そうだ。この場合がそれなんだ。俺は奴を殺したのを覚えている。同時に殺したのが奴ではない気もする。殺した理由もお前の両親を殺めたからではない気もしている。すべてに微かな臭いが残っているんだ。俺はこの臭いと似たものを知っている。本部の奥底にいる語り部どもの能力だ。アイツらもまた現実を改変できる。自分たちに都合がいいようにな。お前が本部に行きたがっている理由もそれか? お前も自分の出生に何らかの違和感を持ってるのか?」

「違う。僕が本部に行きたいのは、前島さんに会うためだ。僕自身のことは関係ない」

「前島? あの空間能力者のことか?」

「お前にそれを教える必要はあるか?」

「いや、ない。あの時お前の隣にいた女なら、お前は、」と西沢は目を細めて僕を見た。「お前は、とんでもないことをしようとしてるな。ある意味では俺たちと同じだ」

「同じ?」

「そうだ」と西沢は気が晴れたように笑った。「そうか。お前はあの女に会いたいだけなんだな。それはいいことだ。とてつもなくいいことだ」

「どうしてだ?」

「さあな。それをお前に教える必要はあるか? いや、いい。教えてやろう。俺たちはお前をあの女に会わせることができる」と西沢はにやついた顔で僕を見た。

 僕は口を開けなかった。

「今からでも会わせることができる。手順をしっかり踏めればな。どうだ、付いてくるか?」と西沢は机に置いていたケースをポケットに戻しながら立ち上がった。

「ウソじゃないのか?」

「さあな。そればっかしは自分で確かめるしかないだろう。もう一度聞いてやる。今から付いてくるか?」

「行く」と僕は言った。

「いいことだ」と西沢はにやけた。

 僕は西沢に付いて行った。あの黒いドアは簡単に開いた。そのさきはエレベーターホールになっていた。エレベーターの中のパネルにはボタンが一つしかなかった。西沢はそれを押した。ドアが閉まり、軽く地面に押し付けられるような感覚が惹き起こされた。僕らはモグラのような生活をしていたわけだ。エレベーターが地上に達したとき、ドアの向こうには数人の若者たちがいた。

「車は向こうに用意してあります」とそのうちの男が言った。

「そうか。周囲に人は居ないな?」と西沢は冗談を言うように言った。

「ええ、いません」とその男は微笑んだ。 

「なら俺はまた小突かれなくて済むわけだ。行くぞ、コイツを連れて行く」

「はい」と若者たちは声をそろえた。二人は僕の後ろに立った。一人は僕の横にいた。残りはどこかにいた。西沢は僕の前を歩いた。地下と同じ外装のエレベーターホールを抜けると、生ぬるい空気が全身を舐めた。汗腺が久々に開いた。空を見ると、星が木々の隙間から見えた。僕は左右を見た。そのどちらも暗闇に満たされた森が広がっている。奇妙な行軍は続いた。周りの人間は周囲の木々と同じく呼吸しているだけだった。星明りだけが道を照らしている。十数分ほど歩いた。舗装された道が見えた。そこに灰色のバンが停まっていた。僕はそれに乗せられた。目隠しはされなかった。外を見てもただ暗いだけだった。だから僕は自分でまぶたを閉じた。

 車は数時間ほど走った。知らぬ間に僕は眠りについていた。肩を軽くゆすられて起こされたときには、朝日が地面を照らしていた。僕は車から降ろされて、今度もまた森の中を歩かされた。先頭に立つのは西沢だった。他の若者たちは周囲を警戒しているようだった。森の奥へと入るにつれて、地面に降りてくる日射しは少なくなり、隆起している木々の根が僕に奇妙なステップを要求してくるようになった。ときおり大きな段差を降りたり上ったりした。背中に汗がにじむほどになったころ、西沢は歩を止めた。

「ここだ」と西沢は目の前の洞穴を指さした。その穴は、切り立つ壁をえぐったようにできていた。幅は大人が三人ほど手を広げて通れるほどだった。どこまで通じているかは分からなかった。

「ここがどうしたんだ?」と僕は聞いていた。

「この奥に、前島さなえがいる」と西沢は言った。

「ウソをつくな」

「どうだろうな。お前が確かめてみないことにはわからないんじゃないか?」と西沢は僕の後ろに回った。僕は洞穴の奥を見つめた。ときおり冷めた風が流れてくる。この先に人がいないことは分かりきったことだった。僕は振り返った。西沢たちは僕を取り囲むようにして見ていた。

「つまり、こういうことなんだ。前島さなえは死んでる。僕をここで殺して、この洞窟の奥に置いておけば、この場所で前島さなえに会えることになる。死んだ先の世界で」と僕は彼らに言った。

「冴えてるな」と西沢は言った。笑ってはいなかった。「だが、殺しはしない」

「どうしてだ?」

「もう何度もお前を殺したからだ」

 僕は口を開けなかった。思考が停まった。

「俺たちは、お前を殺した。お前が眠っている間にな。いくども眠ったまま死ねるようにしてやったのだ。スイス人の医者だって呼んだ。スイス式安楽死だ。だが、お前は生き返った」と西沢は首を振った。「俺たちは恐怖したよ。今も恐怖している。お前は死なない。なぜかは知らないがな。だが、俺たちはお前に邪魔されるわけにはいかない。『彼』が来る日は近づいている。少なくともその日まではお前を閉じ込めておく必要がある」

「僕は別にアンタらの邪魔をする気はない」

「俺たちの目的のなかに前島さなえの完全な死があるとしてもか?」と西沢は嘲笑うように言った。

「どういうことだ? 前島さんはもう死んでるんじゃないのか?」

「死んではいない。ある意味ではお前と同じだ。奴は死ねない。本部の奴らが、語り部の奴らがそうした。だからこそ、完全に殺さなくてはならないのだ。お前はこれを聞いて俺たちの邪魔をしないと誓えるか?」

「誓えるわけがない。ここでお前らを殺してもいいくらいだ」と僕は西沢を睨んだ。

「確かに不死身のお前ならそれができるかもしれん。俺たちが死ぬまでいくども生き返って殺しにかかればいいだけだからな。だが、俺たちは賢しくも逃げることにした。ここでお前とはさよならだ。下村、弾け」と西沢が言った。それから下村と呼ばれたのが誰なのかもわからないまま、僕は弾かれた。洞穴の中へと転がるように吹き飛ばされ、勢いが収まったのは壁にたたきつけられた時だった。小さくなったように見える入り口には一つの人影が見えた。その影は言った。

「これからお前には死に続けてもらう。と言っても、俺たちが手を下すわけじゃない。お前は、『穴』を知ってるか? いや知らないよな。俺たちは『歪み』が湧き続ける場所をそう呼んでいる。この世界のどこにでもそれはある。たとえば、ここがそうだ。お前は今から『歪み』に喰われ続けることになる。正直に言えば、やり過ぎかもしれないが、俺たちは慎重になった。過剰防衛がちょうどいいことを知ったのだ。すまないがここで死に続けてもらう。これで、本当のさよならだ」

「ふざけんな」と僕は叫んでいた。だがその声は入り口で起こった爆発によってかき消された。耳はしばらくの間使い物にならなかった。目はもはや何も映していなかった。僕はうずくまって、ごつごつした地面に額を押し付けた。僕の背中はもうすでに何者かの視線を感じ取っていた。

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