第30話

 僕はうつむいたまま鈴の音のような少女の声に耳を傾けていた。

「覚醒した君たちは、一つの試練を超えてここにたどり着いている。『歪み』との戦闘は、無傷で終えられるようなものではなかったはずだ。今回の試練で何十人かは殉死した。つらく悲しいことだが、僕たちは前に進まなければならない。たとえ自分の背後にどれだけの屍が転がっていようとも、前進し続けなければならないのだ。けっして振り返るな。怯むな。立ち止まるな。ただ前に進め。世界が変わるとき、かならずその報いが来る。その時になれば、君たちは全人類の希望となる。そうだ。はたしてこの世界の全人口の何割が『聖別』を乗り切れるだろうか。それは僕たちにもわからない。少なくともここにいる君たちは『聖別』を越えられる。それを今回の試練で証明した。僕たちは先導者として、『彼』の創る世界の要として、この地上に立ち続けることができる。それを誇りに持て。僕たちは前に進もう。これから来る人たちのためにも。

 さあ、さらに力を増し加えようじゃないか。西沢、みんな、アレを配ろう」と少女は周囲に目配らせをした。西沢は星を見るのをやめて、ボストンバッグを持った青年が前に出てくるのを見守っていた。その半袖の青年はバッグを地面に置きごそごそと中身を取り出そうとしていた。その間、集団の中から幾人かが前に出てきて、その青年の周りに集まった。青年は集まった少年少女たちに何かを手渡していた。見たところ手に収まるくらいの直方形のケースだった。

 それから、前に出てきた人間が集団に帰ってそれぞれの受け持ちにそのケースを渡し始めた。僕のところには誰も来なかった。その頃には、僕も悟っていた。西沢は僕を見つめている。僕は後ろから肩を叩かれる。

「福屋アキラくんだね」と耳元でささやかれた。

「そうだ」と僕は口ごもるように答えた。

「いい返事だ。もし何か騒ぎを起こそうとするなら容赦はしない。けど、なにもしないというなら、丁重に扱おう」とその男はつづけた。

「なるほど。丁重にとは?」と僕は訊いていた。

「まず目隠しをする。それから手を拘束する。最後にクスリを嗅いでもらって、眠りについてもらおう。どうかな。運ぶ時が四人がかりでやるよ。どうかな、まだ不安かい?」

「それでいいんじゃないかな」と僕は肯いていた。男の手はすでに僕の腰に巻いてあるウェストバックに伸びていた。

「言い忘れたけど、これも没収させてもらうよ。怖いからね」

「君たちを傷つけるようなものは入っちゃいない」

「いいんだ、それでも。ただただ怖いからね」と男は柔らかな手つきでウェストバックを僕からはぎ取った。僕は抵抗しなかった。目の前に広がる光景を呆然としながら眺めていたのだ。

 ケースを貰った十代後半らしき人々は震える手でそれを開けていた。なかには注射器が入っていた。気の早い何人かは、暗がりの中だというのに自分で静脈を探し当てて、注射を打っていた。他の人々は付添いの人間に打って貰っている。徐々にうめき声や、荒い息が僕のところまで届いてきた。僕は西沢を見た。西沢はにやにやと僕を見返してきた。

「さあ、目隠しをしようか」と背後にいる男はささやいてきた。僕が何かを言う前に、視界は黒い幕に覆われた。手を後ろに回されて、なにかで拘束された。男は宣言通りに、僕の口のもとにクスリをしみ込ませたハンカチを当てた。僕はまた夢のない眠りに入り込んだ。


 冷たい地面が頬の下にあった。拘束は解かれている。だが、体は死んだ後みたいに強張っていた。なかなか思うように動かすことができなかった。他人の体に入ったような気分だ。なんとかして起き上がると、窓のない部屋にいた。地面も壁も灰色のコンクリートで塗り固められている。六畳ほどの広さの部屋で、隅の方に簡易ベッドが置いてあった。他には何もない。僕はベッドに腰掛けて、物言わぬ青色のドアを見つめた。あのドアは開かないのだろう。ここは彼らの牢屋で、僕はこのまま放っておかれて、糞尿で塗れたまま餓死する可能性が高い。そして、糞尿にまみれたまま蘇生し清潔な衣服を要求してやろう。と、僕は考えていた。その当ては外れた。幸運だったかどうかは分からない。気軽にドアが開いて、小脇に寝袋を抱えた少女が入ってきた。その少女は、西沢に横で演説をしていた銀髪の女だった。彼女は僕がベッドに腰掛けているのを見て顔をしかめた。

「その汚い服でさ、僕のベッドに座るのはやめてくれない?」

「……ああ、ごめん」と僕は立ち上がった。そんな僕の足元に少女は寝袋を投げ置いた。

「それが君の寝袋だから。寝るときはそれ使ってよ。間違っても僕のベッドの中に入ってこないでね」と少女は僕を睨みつけてきた。僕はさすがに困惑していた。

「ああ、えっと、つまり君はこのベッドで眠ってるってことか」

「そうだよ。なんか文句ある?」

「文句はないけど、つまり君は、その、この監獄みたいなとこで生活してるってこと?」

「そうだよ。だからなに? 僕に何が言いたいわけなの?」と少女はますます僕を睨みつけてきた。

「いやね、うん、君は皆の前で話してたじゃないか。さっきかいつかは分からないけど、とにかく西沢の隣でなにやら演説してたじゃないか。それなのにどうして、こんなとこで、あんなベッドで寝泊まりしてるんだ?」

「そんなこと僕に訊くなよ。僕だってね、好きでこんな生活してるわけじゃないんだ」と少女はとがり声を立てた。僕はそんな少女の怒りを口を開けたまま受け止めた。

「すまないんだけど、僕にはいまいち分からないんだが、つまりだね、君も正統派に捕まっているという認識であってるのかな」

「あってるよ、バカ」と少女は腕を組んで、頬を膨らませた。「お前はとんでもないぼんくらだな、まったく。僕がこの部屋に入ってきた時点で、そのくらい気が付けよ、察しろよ。デリカシーってのがないんじゃないの?」

「ああ、すまない。僕はとんでもないぼんくらだから、まだわかってないんだけど、君はどうして捕まったの?」

「どうして、どうして、どうして? 人に聞くことしかできないんだな、お前。ちょっとは自分で考えなよ。僕が捕まっちゃった理由とかそんなことはどうでもいいんだ。僕はね、君にここの生活のいろはを教えなきゃいけないんだ。おかげで久しぶりに早く帰ってこれたけど、疲れてるし、寝たいし、ゲームしたいし、さっさと終わらせたい。とりあえず、付いてきて」と少女は短い髪を揺らしてドアの外へと出て行った。僕は放り出された寝袋を壁に寄せてから、ドアを開けた。軽いドアだった。

 廊下も壁も天井もコンクリートで塗り固められていた。少女は廊下に連なるドアを片っ端から開けて行った。トイレ、シャワー室、キッチンとテーブルのある食堂。三つのドアの中身はそういうように出来ていた。四つ目のドアは廊下の端にあった。

「このドアは開かない。外に出るときだけ開くんだ。そのときはいつもヘンな奴といっしょに出ることになる。お前が外に出れるかわからないけどね」

「なるほど」と僕はそのドアを見つめた。他の四つのドアと違って、黒く塗りつぶされたドアだった。取っ手に手をかけた。動かなかった。僕は冷たい金属から手を放した。少女はもうベッドのある部屋に戻っていた。

 ベッドに寝っころがった少女はなにやらゲームをしているみたいだった。足を組んで仰向けの体勢のまま、両手で携帯型ゲーム端末を持って、ぽちぽちとボタンを押していた。僕は壁に立てかけておいた寝袋を持って少女に声をかけた。

「僕は食堂で寝るよ」

「ふうん。僕がご飯食べに行くときには起きててよ。いびきを聞きながら、パンをかじるなんていやだから」

「善処しよう。気になったんだけど、ここって時間とかわかるの? 目覚まし時計とかあればいいんだけどさ」

「時間は分かるよ。僕はこれで分かる」とゲーム画面から顔を上げずに少女は言った。「目覚まし時計はない。自分で起きるしかないよ」

「頑張るよ。難しいかもしれないけど。ところで、今何時? 出来れば日付も教えてほしいんだが」

「今日は八月九日で、いま二十二時三十六分。あっ、ああもう、ミスちゃったじゃん」と少女はゲーム機を睨みつけながら答えた。

「そうか、わかったよ。ありがとう。おやすみ」

「おやすみ」と少女はうつ伏せになりながら片手を振った。僕は部屋を出てドアを閉めた。

 僕が捕まってすでに一日ほど経っていた。老人はまだ来ないらしい。たしかに今現在は何一つ有益な情報を得ていなかった。だが、この先も情報を得られる確信はない。僕はため息をつきながら食堂に入った。硬いコンクリートの上に薄い寝袋をひいて、中に入って目を瞑った。ほんとうの眠りがすぐにやってきた。

 その翌日、懸念通りに僕は少女にたたき起こされた。それから言われるがままにスクランブルエッグやらフレンチトーストやらを少女のために作らされた。おかげで食卓にはなかなか豪華な朝食が並んでいる。それらをナイフとフォークを使って優雅に少女は食べていた。絵になる光景だ。それを眺めながら僕は立ったままパンの耳をかじり、牛乳でそれを飲み下していた。

「よく食べるね」と僕は言った。

「体は朝が基本なんだぞ、朝が。あのくそったれどもはたいてい深夜にしか活動しないから、こういう朝食は貴重なんだ。アンタのように惰眠をむさぼってるわけにはいかない。けど、まあ、お前、料理うまいな。おいしいぞ、これ」と少女は上機嫌そうに言った。

「ああ、ありがとう」と僕は重たい頭をどうにかするためにコーヒーを飲んでいた。「褒められるほどじゃないと思うけど」

「なあ、他になんか作れるのか? 僕はハンバーグとかオムライスとかが好きなんだ。レトルトとかじゃなくて出来立てほかほかのやつだ」

「定番のやつは一通り作れるよ、材料があれば」

「ほんと?」と少女は食べる手を止めて顔を上げた。

「一人暮らししてたから、なんとなく料理は作ってたんだ。他人にはまだ食べさせたことないけど」

「じゃあさ、今日の夕食にオムライス、いやハンバーグつくってくれないか。肉が食べたいんだ、肉っ」

「いいけど、材料がないとね」と僕は冷蔵庫を見た。中には朝食用の材料が用意されていた。たぶん、その日の食料は何らかの方法でこのなかに放り込まれるのだろう。

「頼んでおくよ」と紙ナプキンで口を拭きながら少女は言った。「君の着替えとかも頼んでおいてやる。僕はかなり重用されてるからさ、けっこう要望を聞いてくれる。クソみたいな奴らだけど、そこはまあ見込みがある」

「なるほど。君はある意味正統派の広報みたいなものなんだろ」

「そういうこと」

「僕もなれるかな」

「無理だね」と少女は笑った。「花がないもん」

「なるほど」と僕は言った。たしかに彼女は花を持っている。一目見たら忘れられないような花だ。「その髪って脱色したの?」

「ああ、そうだよ。あのクソ野郎の趣味さ」と少女は忌々しそうに言った。「僕が捕まって最初に連れてかれたとこ、分かるか? 美容院だよ、美容院。そこでこんなふうにされたんだ。こんなコスプレみたいな髪色なんていやだね、将来禿そうだし」

「カツラでいいじゃないか」

「あのクソ野郎はヘンなとこで潔癖なんだ。カツラだと安っぽいだとさ」

「なるほどね」と僕は少女の苦々しそうにコーヒーを飲む姿を眺めながらうなずいた。たしかにカツラだと効果が薄れてしまうかもしれない。

「ごちそうさま。皿片付けたら、僕のところに来てくれ」と少女は言って、さっさと食堂から出て行った。僕は少女に言われた通りにした。反抗する気はなかった。彼女の言葉にはなんとなく従ってもいいような気になったのだ。そういう効果が彼女にはある。西沢が彼女を採用したのもそのためなのだろう。

 少女はベッドの上であぐらをかいていた。その右手にはゲーム機があって、左手にはタブレット端末があった。何やら忙しそうに操作している。

「こっち来てよ」と少女は顔を上げずに言った。僕はベッドの近くまで寄った。

「なにしてるんだ、君は」

「ゲームだよ。見て分かんないの? 僕が仕事に行ってる間やっててほしいんだ。こっちのアプリゲーはいまイベント中で周回しなきゃいけない。で、こっちのゲームもレベル上げしてほしい。シナリオ進めたいからさ。どっちも操作の仕方くらい分かるだろ。でね、やってほしいのは……」とそれから少女は細かく指示を出してきた。その指示を聞いた僕はメモがなければ無理だと答えた。ジジイかよ、と少女は文句を言いながら、枕の下からメモ用紙と鉛筆を出して指示を書き出していった。

「はい、これでいいだろ」と少女は僕にメモ用紙を投げ出した。

「ああ、まあ何とかするよ」と僕はそれを拾いながら言った。「何事もなければ、やれるだろうけど。もしかしたら僕、殺されてるかもしれないよ。君がここに帰ってきたときには」

「それは嫌だな」と少女は顔をしかめた。「何とか言っとく。気に入ったから一生僕の下僕にしたいとか、そんな感じのこと」

「……、それで助かるならかまわないが」

「んじゃ、まあ、そんな感じでね」と少女は笑って、ベッドから立ち上がった。「もう行かなきゃな。めんどくさいし、ほんとイヤになるけど」

「ハンバーグはいつ作ってればいい?」

「あ、うーん。帰ってきてからでいいよ」と少女はドアの前で立ち止まって、振り返った。

「分かった。ゲームやっておくよ」

「まかせた、下僕よ」と少女は笑顔で言って、ドアの奥へと消えて行った。廊下を歩く足音が聞こえてくる。彼女は立ち止まった。僕はタブレットの時刻表示を見た。八時十五分だった。十七分に表示が変わった時、僕は部屋から出た。もう、廊下には少女はいなかった。その奥にあるドアは硬く閉ざされたままであった。

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