第29話

 彼女は紅茶だった。砂糖もミルクも入れずにゆっくりとすすっていた。僕はコーヒーを飲んでいた。鹿肉のシチューはもう胃の中に入っていた。ここでの食事はどういう扱いになるのかは分からなかったが、特に気になるようなことではなかった。胃は満足していたし、舌は十分に堪能していた。

「甘すぎないの? 五杯も砂糖入れちゃって」と目の前に座る少女は言った。

「ちょうどいいよ」

「うそ、信じられない」

「甘い方がいいんだよ、コーヒーはね。紅茶と同じく、本来は砂糖を摂取するためにあるんだから」

「うそっばっかり」と少女はくすくすと笑った。

「そうかもしれない」

「ねえ、お話の続きは?」と少女はカップを置いて僕を見た。

「どこまで話したっけ」

「ヘンな宿屋に着いたところまで」

「ああ、あの川岸の旅館だ」

「それっていつの話なの?」

「いつ?」と僕は少女を見返した。

「何月何日の話なのかってこと」

「いやそれは分かるけど、君にそれを言って分かるのか?」

「なんで?」と少女は不思議そうに首を傾げた。

「ここの時間とあっちの時間は同じじゃないだろう。僕がここに来た日だって、つまり僕にとっての今日だって分かってないんじゃないか?」

「8月19日よ、アナタがここに来たのは」と少女は微笑みながら言った。まさにその通りだった。

「よくわからないが、君は外の時間を知れるのか」

「そうかもしれない」と少女は笑みを堪えるような表情で言った。

「いや、まあいいさ。いつだっけな、そうだ、7月27日だ。そこから二週間くらい、そこを拠点にしてた。夜とかは涼しい所だったよ。昼は暑かったけど」

「なにしてたの?」

「ナイフの練習。夜になったら、旅館の裏山に上る。そこにはさびれた神社みたいなのがある。たぶん誰も管理してないところだった。猫の額くらいの広さだ。そこで湧いてきた影と戦う。朝までね。日が昇ったらお終い。旅館に帰って、お風呂に入ってぐっすり眠る。昼過ぎに起きて、真夜中になったらまた山に登る。その繰り返し」

「それだけで二週間過ごしてきたの?」と少女は呆れたように言った。

「まあね、なかなかストイックな日々だった。その二週間を過ぎたころには管を一つ消費しきってたし、影の首を切ることにはなんのためらいも持つことはなくなった。それであのじいさんも満足したみたいで、その日の夜には二人で車に乗って旅館を出たよ。そこからさ、正統派とかのヘンな陰謀に巻き込まれ始めたのは」

「その陰謀の結論として、あなたはここにいるわけ?」

「そうかもしれない」

「じゃあ、あたしはそのことに感謝しなくちゃ。こうやってあなたと話せてるわけだし」と少女はあどけない笑みをこぼした。

「ポジティヴだな。僕にとってはこの上もなく迷惑な計画だったけど。まあ、僕もまだその全貌を知ってるわけじゃないんだ。彼らは今まさに、その計画を実行してるわけだが、僕の知ってる計画とは少し違ってる」

「そうなの? あたしは何も知らないけど」

「まず、『彼』が来ていない。今日この日には『彼』がここに来て、宣言をするはずだったんだ。しかしどういうわけか友瀬レイナの様子を見てると、そういうふうになってないみたいだね。ま、僕らのつかまされた情報が嘘だった可能性もあるわけだが」と僕は言ってコーヒーを飲みきった。テーブルにカップを置いてから、水の入ったグラスを手に取った。少々甘ったるかった。少女は物静かな瞳で、水を飲む僕を見つめていた。

「あなたが『彼』なんだと思ってた」と少女は言った。

「僕が? なんで?」

「だって、アナタだったらいいなって、あたし写真見たときから思ってたの。他の人はパッとしなかったんだもん」

「他の人、つまり僕以外の似非未来人たちか。君たちはずいぶんと早い段階で、この計画に気がついていたようだ」

「そうかしら。けっこうみんな慌ててたよ。あたしがファイルを覗き見れるくらいにはね」

「なるほど」と僕はうなった。

「ねえ、アナタの話を聞いてて不思議に思ったんだけど、いまナイフはどこに行ったの? 持ってないじゃない」

「うん。影とちょっとだけ仲良くなったからね、もうナイフは使わないんだ」

「どうやって?」

「どうやってって、まあ、何回か死んだだけだよ」

「もっと詳しく話してよ。宿屋を出てからヘンな陰謀に巻き込まれて、ここに来ちゃったんでしょ。そこまでちゃんと話して」

「いいけどさ」と僕はカーテンの閉った窓を見た。「もう夜だろ。話すとなれば、たぶん朝までかかるよ。途中で寝ちゃうんじゃないかな」

「あたしは別に眠らなくてもいいの。だって、向こうで眠ってるもの」

「……ああ、そうだった」と僕は思い出した。ここは現実じゃない。

「時間は十分あるわ。アナタも眠くないでしょ」

「うん、かえって眼が冴えてるくらいだ。つまり、僕も向こうで眠ってるってわけか。あるいは死んでるのか」

「さあ、話してよ」と少女は身を乗り出してきた。

「まあ、長話になるんだから、ソファにでも座ろうよ。この椅子でもいいけど、ちょっと硬いし」と僕はそんな少女を制した。少女は少し目を大きくさせてから、吹き出したように笑って、安楽椅子へと移動した。僕も少女の対面にあるソファに座った。それから少女が見守る中、僕は深くため息をついた。昔を思い出すことはひどく骨の折れることなのだ。それほど遠くはない昔のことでも。


 僕が戦っていた影は、だいたい考えなしに突っ込んでくるだけだった。十回ほど影と戦えば、その行動様式を容易に読めるようになっていたし、そうなるともはや影との戦闘は一つの流れ作業となった。殴るか蹴るかどうかして行動を止める。その間に、的の大きい胴体にナイフを刺す。すると面白いように固まる。その後にナイフを振りかぶって、首を斬る。未熟な影には骨なんてないので、キュウリを切るのと何ら変わらない。こうした作業を一体ずつ行っていく。

 その夜は一度に五体の影を相手にしていた。やることは変わらないが、ひどく神経をすり減らすような作業だった。すべての影の首を斬ったとき、その場に座り込んだほどだ。そんな僕の肩を老人は叩いた。

「休んでる場合じゃない。いまから正統派の集会に乗り込む」と老人は言った。

「はあ?」と僕は頭を抱えた。「乗り込むもクソも、いったい何言ってるんですかね。なんでいま何ですか? 明日でもいいでしょう」

「いや、今晩じゃなきゃならん。車も用意してある。山を下りよう」と老人は独り言のように言って、僕から離れ、暗い山の道へと分け入っていった。僕もしぶしぶ立ち上がり、最後に転がる影たちを眺めてから老人の後を追った。

 旅館の前に黒塗りのバンが停まっていた。少し離れた場所でも車の鼓動が聞こえる。老人はすでにその車の助手席に乗り込もうとしていた。けもの道から抜け出てきた僕はぼんやりとその光景を眺めていた。そんな僕に気が付いた老人は手招きした。

「早く乗れ」

 僕は抗弁することもなく、後部座席に乗った。車内は涼しかった。運転席には見知らぬ男が居た。老人は僕が乗ったのを確認してから言った。

「よし、行こう。行先はいま言ったとおりだ。近くまではナビを入れてる。まず、それに従ってくれ」

「分かりました」と運転手はうなるように言った。それから車は静かに動き始めた。

「小僧」と老人は振り向かずに言った。

「はい」と僕は深くシートにもたれかかりながら答えた。

「これから数時間は休んでていい。着いたらおそらく不眠不休で働くことになるだろうからな」と老人は言った。たとえ顔が見えなくともその表情は分かった。あの人を試すような笑みだ。

「何をするんですか?」

「いうなれば密偵さ。お前の若さを利用する。どうやら今から行くところは君のように若いやつらがわんさかといるらしい。私じゃどうも浮いてしまうんでね。この仕事は君にしかできない」

「なるほど」と僕は目を閉じた。もう僕の耳にはエンジンの駆動音しか届かなかった。

 夢のない眠りの後、僕は体をゆすられて起こされた。外はまだ暗かった。車外に出るとむっとするような暑さがまだ停留していた。日が昇ればさらに蒸し暑くなるだろう。内陸にある都市の宿命だ。そういうことはすぐに分かった。なにせ僕がいたのは僕の住んでいた街だった。

 背後にいた車は去って行った。僕は駅の近くの商店街に立っていた。シャッターは閉まっている。人通りはない。いるのは僕と老人くらいだった。

「これからどうするんですか?」と僕は訊いていた。

「あの公園に行こう。あそこが集合場所らしい。噴水広場があっただろう。あそこでいったん集まるようだ」と老人は言って、歩き出した。僕は口を結んだままその後ろを付いて行った。途中にある時計台で時刻を確認した。午前一時半だった。

 公園の入り口にたどり着いたとき、老人は振り返った。

「私はここまでだ。あとは君一人で行かねばならん。場所はわかるか?」

「噴水広場は分かりますが、いったいそこに行って何をしてくればいいんですか?」

「話を聞いてきてくれ。もしできるならば奴らの組織に加入しろ。奴らの根城までたどり着けたら万々歳だ」と老人は笑った。

「もし、もしですよ、捕まったりした場合はどうやってその場所を報告すればいいんですかね」

「何もしなくていい。その状況になれば、私はそこに現れる」

「はあ? ……いや、ううん、まあ、任せますよ。僕はとにかく集会に出て、できる限り彼らに近づく。そういうことでいいんですよね」

「それでいい。時間が過ぎるかもしれん。さあ、行ってこい」と老人は僕の背中を押した。割かし強い力だった。僕はポケットに手を突っ込んで歩き出した。振り返ることもなかった。

 常夜灯に照らされた道を進んでいく。ときおり草の影から虫の声がする。人の気配はない。風が木々の葉を鳴らして過ぎ去っていく。いくたびかベンチを通り過ぎて、一つの窪地にたどり着いた。その窪地の底には噴水がある。気が向いたときに水を噴き上げるたぐいのものだ。今、水は出ていない。だが暗がりの中でもその周りに幾人かの人影が見えた。僕はためらうこともなく、窪地を降りて行った。何か言われたら帰ればいい。そんな気分だった。

 四角い広場にはいくつかの集団が形成されていた。その集団はどれも数人で構成されているようだった。街からの明かりと月の光に照らされる彼らは、どことなく年若い服装をしていた。おそらくだが僕と同年代の人間だろう。僕はどの集団とも距離を置ける位置を探した。広場の左隅の方は空いていた。僕はそこに突っ立っていることにした。特に能動的なことをする必要もない。何かが起きたら反応すればいい。そんな気分だった。

 しばらくすると、二つの影が窪地に降りてきた。それと同時に広場にあったかすかなざわめきも消えた。誰もがその二人を見ていた。僕もそうだった。一人は銀色の髪の少女だった。その色合いは遠目でもわかる。もう一人は男だ。長い髪を背中でまとめている男だった。その顔は遠目でもわかる。あの予備校で僕を連れ去ろうとした人物であり、笹倉を深く憎んでいるらしい、西沢という名の男だ。

 あの男こそまず初めに殺しておくべきだったのではないかと、僕は『本部』の人間たちを面罵したくなった。幹部の男を生き残しておくなんて、どう考えても不合理だ。どんな組織でも、もし壊滅させたいのならば頭と足は徹底的に破壊しなければならない。それを怠るなど、やる気がないとしか思えなかった。僕は、とりあえずウエストバックに手をかけた。すでに少女と西沢は広場に降り立っていた。分散していた集団がそこを中心として集まっていく。僕は目立ちたくなかった。ゆっくりとその集合の端に加わった。

 西沢はただ夜空を見上げていた。隣に立つ銀髪の少女は、一人一人の顔を確かめるように集団を見回した。僕は彼女の視線から逃れるために顔を伏せた。自分の鼓動が鼓膜を叩いていた。

「結論から言おう。君たちは世界を救済する」

 そう少女は言った。

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