第28話

 ノック音が沈黙を破った。入ってきたのはあの白い大男だった。その片手にはアルミのアタッシュケースを携えていた。

「ドクター、社長がお見えになりました」とその男は言った。

「社長が?」とドクターは怪訝そうに顔を上げた。

「いま、玄関ホールに居られます。『Q』との面会を求めているようです」

「わたしは別に求めていないんだがね」と老人は笑った。

「お会いになられた方がいいでしょう。社長ももう十分なお歳です」とドクターは老人に言った。

「だろうな。どんな老いぼれになってるのか、気にならなくもない」と老人はゆっくりと立ち上がって、白い男の前に立った。「今度も案内してくれるのか?」

「ドクターと一緒に玄関ホールへと行け。私はその男にこれの扱い方を説明しなければならない」と白い大男は僕を見た。

「なるほど」と僕は呟いた。

「じゃあ、行きましょう。楽しみだな、ある意味歴史的瞬間ですよ」とドクターは嬉しそうに言いながら老人を連れて、部屋から出て行った。残ったのは白い大男の放つ圧迫感だけだった。彼は値踏みするようにして僕を見た。

「武器の使用経験はあるか?」と彼は言った。

「まったくないです。平和に生きてきたんでね」

「銃を撃ったことは?」

「撃ってたらここにはいませんよ」

「そうか。だが、包丁くらいは握ったことがあるだろう」と彼は言って机の上にアタッシュケースを置いた。淀みのない手つきで解錠し、ケースを開けた。中には鞘に入ったナイフが一本と細い透明の管が七本入っていた。管の中には無色の液体が入っているようだった。男はその巨大な手でナイフを取り出した。彼が持つとおもちゃのように見えるナイフだった。彼はナイフの柄の底をを僕に見せた。

「この底を開けて、その管を装填する。その後に影をこれで刺す。それだけだ」と男は僕を見た。「やってみろ」

 ナイフを受け取った僕は言われたとおりに、ナイフの柄の底を開け、透明の少し柔らかい管を詰め込んだ。軽いナイフだった。

「これでどうやって影を倒すんですか?」と僕は訊いていた。

「ナイフの刃には極微細の穴が多数あいている。そこからその液体が出てくる。そして、その液体は人型の影を凝固させる作用がある」

「凝固?」

「そうだ。そのナイフで影を刺せば、影は動かなくなる。その後に頭と胴体を切断するといい。そこまですれば、当分は復活することはないだろう」

「七本で足りるかな」と僕は昨夜の夥しい影の集団を思い出していた。

「一本で、百体は凝固させることができる。お前がそれ以上と戦うときになった場合は、諦めたほうがいい」と白い大男は真面目な顔で言った。

「なるほど。それで、どうやって持って行けばいいんですかね? まさかこの包丁みたいなナイフをそのまま持って行くわけにもいかないでしょ」

「蓋の裏に専用のウェストバックが付いている。それを腰に巻け」

 僕はケースの蓋の部分を見た。たしかに黒色のバックがあった。僕はそれを取って、ナイフと六本になった管を入れた。バックの中はどうやらこの一連の道具を入れるために設計されているようで、すんなりとすべてが収まった。僕はその黒いウェストバックを腰に巻いた。

「もし、もしですね、このナイフでも固まることがなければ、どうすればいいんですかね?」

「逃げろ。それだけだ」と白い大男は言って、アタッシュケースを閉め、手に持ち、部屋から出て行った。残された僕はぼんやりとした気分のまま、少しの間立ち尽くしていた。なんといっても結局手に入れられた武器はナイフ一本だ。心細いこと他なかった。僕は電気を消すこともなく部屋を出た。

 廊下を歩いて玄関ホールにたどり着いたときには、杖を持った老人が一人ガラス戸の先を望んでいた。他には誰もいなかった。

「間山さんって人はもう行ったんですか?」と僕は老人の背中に尋ねた。

「あぁ、忙しいようだ。どうでもいいことだが。しかし、世界は着実に面白くなっているようだ。お前は、正統派を知っていたか?」と老人は振り返って僕を見た。その顔はどことなく嬉しそうだった。

「殲滅されたらしいですけど」

「いいや、まだわんさかいるみたいだ。間山はわざわざ教えてくれたよ。正統派の居場所をな」

「それってどういうことですかね?」

「さあな、行ってみろということなんだろう。我々の目的のためにも」

「どうして?」

「その奴らも同じ本部を狙っているからだ。それなりの情報は集めているだろう」

「えっと、つまりその情報を奪うってことですか?」と僕は訊いていた。

「そのとおりだ」と老人は笑った。「あるいは奴らの計画を利用することも余地に入れておこう」

「けど僕は歪曲者と戦うことは想定してないですよ」

「想定など必要ない。戦う時が来たら戦うだけだ」と老人は言って、ドアの外を見た。「来たな、ドクターだ」

 外に車が来ていた。白いセダンだった。ドクターが運転席に乗っていた。

「駅まで送ってくれるらしい」と老人は外へと出て行った。僕もその後を付いて行った。ドクターは降りてきて、老人とついでに僕のためにドアを開けた。乗り込んだのは涼しい車内だった。ドクターは車を発進させながら言った。

「いやあ、来るとき坂、大変でしたでしょう? 僕もね、坂が面倒だから車にしたんですよ。ここって駅からも遠いし少し不便なんですよねえ」

「確かに遠いですね」と僕は車窓を眺めながら肯いた。ゲートが見えてきた。今はもう開いたままだった。

「西幹山駅でいいんですよね?」

「そうだ」と老人は短く答えた。

「分かりました」とドクターは言って、ゲートから出て車を左折させた。

 車はトラックとバスの合間を静かに走った。駅までは十分そこらだった。道中は会話もすることもなく、ドクターは車を駅のロータリーで止めた。

「着きましたよ」とドクターはシートベルトを外しながら言った。「今、ドアを開けますので」

「ああ、ありがとう」と老人は満足げにうなずいた。ドクターは車から出て、老人のためにドアを開けた。僕は自分で近い方のドアを開けた。外に出ると、むっとするような熱気が僕を迎えた。

「これからはどうされるんです?」とドクターは老人に訊いていた。

「少し旅に出る。長くはかからないだろうが」

「えぇ、そうですか。社長と話されていたことの関係で?」

「そうとも言えるな。今日は世話になった。あの小僧に武器を与えてくれてありがとう」

「いえいえ、貴方には大きな恩があります。できることなら何でもしますよ。そう、できればあなた方がやろうとしていることも個人的にお手伝いしたいほどですが」

「間山が許さんだろう」と老人は目じりにしわを増やした。

「ええ、残念ながら」とドクターは弱く笑った。「あの、最後に握手してもらってもいいですか?」

「かまわないが」

 こうして二人は握手をした。僕はその光景を少し離れた場所で見ていた。短い握手だった。ドクターは頭を深々と下げた。老人はドクターから離れて僕のいる場所へと来た。ドクターは車に乗り込み、静かに発車させ、去って行った。

「さあ、行くか」と老人は言った。

「正統派の居場所ですか?」

「いいや、そのナイフの訓練が先だ」と老人は白いひげを撫でた。僕はウェストバックを撫でた。

「正直、これで戦える気がしません」

「なに、戦えなければまた死ぬだけだ」と老人は笑って歩き出した。「山の方に行く。人里から少し離れてるほど、弱い影が多いからだ」

「山…? ここからどれくらいのところですか?」

「さあな、とにかく山だ」

「なるほど」と僕は言って老人の背中を追った。

 老人は僕に相談することもなく切符を買い、僕は問いただすこともなくそれを受け取った。我々は下り電車に乗り、都市から離れて行った。駅を通過するにつれて車窓からの景色はだんだんと背の低い住宅街へと変わっていき、ぽつぽつと空き地が目立つようになった。空き地が田畑に変わり、その背後にあるのが小高い山々になったころ老人は席を立ち、電車を降りた。

 駅のホームから見える景色は、青々しいものだった。木々がそこらで植わっており、セミがそれぞれの木に十匹ずついるようだった。降りたのは我々だけで、改札も無人だった。駅前のロータリーらしき場所には取り残されたように一台だけタクシーがあった。老人はそれに近寄った。中には居眠りしている初老の男が居た。老人はノックで白髪の男を起こした。その男は何度か目をしばたいてから、驚いたように我々を見て後部座席のドアを開けた。

「旅館の湯川荘までお願いしたい」と老人はタクシーに乗り込んでから言った。

「はあ、湯川…、ああ、あそこか。はいはい、わかりました」と運転手はしきりに肯きながら車を発車させた。

「たのんだよ」と老人は言って、目を瞑りシートに深く背中を預けた。僕は黙ったまま車窓を眺めていた。

 ちょっとした商店街を過ぎてからは、変わりばえのない景色が続いた。ぽつりぽつりと平屋が現れては去っていき、思い出したかのようにコンビニが出てきたりする。タクシーは次第に山の中へと入って行った。葉の生い茂る木々が僕の目を満たしていく。いくどか坂を上った。それから下った。一つの山を越えたのだろう。車は少し開けた土地に入った。田畑のそばに民家があった。その奥の方には線路が敷かれていた。どこに向かう線路なのかはわからなかった。コンビニが増え始めてきたころ、緩やかなカーブに差し掛かった。曲がりきると川が見えた。道は川に沿って走っていた。その川は大きくはなかったが、弱々しくもなかった。川遊びに興じる人は居なく、冷たそうな澄んだ水がただひたすらに流れていた。川の向こう岸は緑の小高い山になっていた。タクシーはしばらくの間川沿いに進んだ。木造の建物が対岸に建っているのが見えた。我々の目的地はそこだった。

 湯川荘は古い旅館だった。その背中には森を置いている。目の前には川が流れている。この旅館に至るためには橋を渡らなければならなかった。おかげでタクシーが砂利道を去って行ったあと、この旅館の敷地内の音は森のざわめきと川のせせらぎしかなかった。旅館ののれんが掛かった入口は、どことなく銭湯を思い出させた。扉は開いており、いつでも入ることができた。老人は僕に声もかけることもなく、一人でのれんをくぐった。

「おーい」と老人は誰かを呼んでいた。その声はよく響いた。僕も老人の後に続き、旅館に入った。木と畳の匂いが鼻腔を突いた。石畳の玄関の先には、板の間が広がっていた。受付らしきところには人がいなかった。右手の方に続く廊下から足音がした。着物を着た老女がやってきた。その老女は目を丸くして、杖を片手に立っている老人を見た。

「おやまあ、久平さまじゃないですか。ずいぶんとお久しぶりでございますねえ」とそのたれ目の老女は驚いた顔のままで言った。

「ああ、ここにちょっと用ができてね、二週間ほどかな、ちょっと泊まらせてもらいたい」

「いやまあ、どうぞどうぞ何日でも泊まって行ってくださいな。ちょうどいつもの部屋も空いてますから」

「助かる。いつも急ですまないね」と老人は言って靴を身軽に脱ぎ、靴箱に仕舞ってからロビーに上がった。僕もそれに倣った。靴下から冷えた板の感触が伝わってきた。老人はさっさとなれたように進んでいたが、廊下に足を踏み入れたところで立ち止まって振り返り僕を見た。

「別の部屋の方がいいだろう?」と老人は僕に言った。

「ええ、まあ」と僕は曖昧にうなずいた。

「すまないが、コイツの部屋を見繕ってくれないか?」と老人は僕の後ろにいた女将に言った。

「ええ、いいですよ。そうですねえ、西の方でいいですかねえ」

「どこでもいいだろう。気にするような奴ではない。坊主、今日は休んでていいぞ」と老人は言って、廊下の奥へと消えて行った。残された僕は、女将を見るしかなかった。老女はやわらかい笑みをたたえていた。

「では、行きましょうか」と女将は言って、老人とは逆の方向に歩き出した。

「はい」と僕は言って、女将の背中を追った。

 僕が案内された部屋は、和室だった。そもそもこの旅館には和室しかないようだった。窓は川岸に面していた。女将はではごゆっくり、と言って去って行った。僕は窓辺にある椅子に座った。夏の日射しは遠くにあった。僕は目を瞑って、深いため息をついた。腰に巻いてある黒のウェストバックがやけに重く感じた

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