第26話

 端的に言えば、僕は死んだ。

 幾たびもの徒労に近い格闘を影たちと繰り広げたのち、全身の筋肉に乳酸がたまり動きが鈍くなり始めたころ、僕は影に背後を取られ首のあたりをかじられた。そのおかげで首から下の感覚を失い地面に倒れ込むことになった。影は神経まで壊すことができるらしい。そんなことを思った。そうして、折り重なってくる夥しいほどの影たちというのが僕の見た最後の光景であった。

 視界を奪われ、内臓感覚というものが消え失せ、思考もどこかへと霧散していった。意識が観測できる死というものは、眠りに近いものなのだろう。それは知らぬ間にやってくるものだし、感情を挟めるほどの時間もなく過ぎ去っていくものなのだ。


 生き返るためには冥界から出てくる必要があった。


 それはこのようにして始まる。

 そこには薄暗い荒野がある。天は濃紺の雲に覆われていて、地はひたすらに砂利が敷き詰められていた。その砂利の道の向こうには小川があった。よく透けていて、さらさらと滞ることなく水は流れて行った。その小川を上流へと上っていくと小屋が見える。水車がゆっくりと回っていた。小川の水源は小屋の左にある泉からだった。こんこんと水が湧き出る泉のそばにはイチジクが植わっており、実を葉の間に隠している。そこには人は居ない。小屋の前には井戸がある。井戸の前には一人の男が立っていた。彼は桶を持っている。井戸の水を貰うためには彼の許可を得る必要があった。

「わたしはこの地に属するものではありませんが、この地の恩恵を受けるに値するものです。なぜならこの先にあるものを知らないからです」

「汝は無知ゆえに救われる」

 男は桶に井戸の水を汲んだ。それを手ですくって飲む。

 これで終わりである。


 目覚めたとき自分が死んだのだと理解するには、気を失う直前の感覚を思い出す必要がある。僕が思い出したのは当然のごとく、自分に喰らいついてくる影たちだった。動悸を激しくして冷や汗をかきながら起き上がり、周囲を見回した。夏の早朝が広がっていた。蝉の鳴き声が森の奥の方から聞こえてきた。僕が居たのは影に襲われた時と変わりなく、公園の芝生の上であった。影は跡形もなく消えており、蚊が僕の周りを巡回しているだけだった。僕は体を震わせながら立ち上がった。ベンチを見ると、老人が僕を見つめていた。僕は足を引きずりながら老人のもとへと向かった。

「僕は、どうなってたんですかね。寝てただけですか」と僕は震える声で尋ねていた。老人は首をゆっくりと横に振った。

「君は確実に喰われていた。あの影たちにね。影たちは君を喰い尽くして、去って行ったよ。君は死んだまま横たわっていた。日が昇り始めた後、君の心臓が動き始めた。そうして、君は起き上がった」

「つまり、僕は生き返った」

「そうだ」と老人は硬い表情のまま肯いた。

「僕の影、いや猫の影はそういう能力を持っているってことですかね」

「そうだ。非常に巨大な歪曲だ。影が君に集る理由がわかったよ。君は影にとって永久機関なのだろう」

「じゃあ、またアイツらは僕のところにやってくるってわけですか」

「そうだ」

「そのたびに死ななきゃならないですか。そんなんじゃ前島さんに会う前に、僕は気が狂っちまう。いくらなんでも何度も死ぬってことはいい気持ちじゃないんですよ。僕はすでに一回死んでます。つまり十分なほど死んでるわけです。これが二度三度って続けば、おつりがくるほどです。僕はそんなに生を欲していない。死ぬなら死ぬ。それでいいんだ。それ以外は何もいらないんですよ」

 僕は息を切らせながらそう言った。目の前にいる老人は目を丸くした。その白いひげを干からびた手で撫でてから、口を開いた。

「興味深いな。君は不死を捨てたがるのか。生きているものはなんであれ、死ぬことを望んではいないだろうに」

「そうですかね。何事にも終わりってのは必要なんです。苦悩にも、無意味さにも、退屈にも。そう言ったものを一切合財断ち切らせてくれるのが死だというのに、どうしてそれを疎うのですか。確かに僕らは死ぬことを望んでいないでしょう。けど、もっと望んでいないのはただ無暗に生き続けることです」

「感情は流れていく。ならば無暗に生きていくとしても、我々はいずれ喜びや意味を見いだせるのではないか。その可能性すらを失うことは、生物としての意義を失うことに等しいのではないか?」

「よくわかりません。僕にはよくわかりません。あなたが言いたいことは、つまり、生物としての意義は死によって否定されているということですか。死ぬ限り生物は無意味だと」

「そうだ。そうとは思わんのかね? 我々を否定するものを越えていくことこそ、生物の進化であるべきだ。死を越え、時空を超越し、おのれをこの宇宙に充満させることこそが生物の目的にふさわしいことじゃないか?」

「それじゃあ、まるで生物は神になりたがってるように思える。バカらしい。誰ももう、神なんていう古びた概念なんて見向きもしませんよ。生物が神になったらそれこそ死を、本当の無を迎えるようなものじゃありませんか」

「本当の無?」と老人は身を乗り出してきた。

「虚無ってやつです。そんな目的を果たした後生物はどのみち虚無を求めることになりますよ。なんて言ったってやることがないんですから。せいぜい、自分を消すくらいです。神を消すことほど大変なことはありませんからね」

「つまり君の論理のよると、我々は死から逃れられない。どのみち死が目的になってしまうからだ」

「にもかかわらず僕は死なないでいる。だから気が狂いそうになる。僕が言いたかったのはそういうことですよ」

「なるほどな」と老人は口元を上げて、目を細めた。「力をくれ、というわけか」

「少なくとも影に殺されなくて済む力が欲しいんです。あなたがその方法を知ってるのなら、教えてください。あんな戦い方はもうこりごりです」

「伝手がないと言えば、ウソになるな」と老人はますます笑みを広げて言った。「まさか役に立つときがくるとは思わなかったよ。私の暇つぶしがな」

 僕は咽喉で笑う老人を眺めていた。日は昇りきっていた。過剰な陽光が僕の背中を焼いていた。

「どんな伝手ですか?」

「一つの集団だよ。私が支援していた組織だ。一時期はあの歪曲者たちと競い合ってた人間どもだ。奴らは影を用いずに影を駆除する方法を知ってるはずだ。今もあるかは知らんがね」

「影を用いずに? つまり『歪み』を歪曲能力なしで消すってことですか?」

「正確には消すことは出来なかったはずだ。今どこまで進歩したのかは知らん。ずいぶん前に、興味がなくなってしまったからな」と老人は言った。

「あなたは、何者なんですか」と僕は訊いていた。

「それは私が今も答えを探してる問の一つだ」と老人は言って立ち上がった。「さあ、行くかね。夜が来る前には彼らに会っておいた方がいいだろう。それにここに居すぎると、うるさい歪曲者たちが来る」

「行くって、どこに?」

「そうだな。とりあえず昔奴らがいたところに行こう。居るかどうかわからんが、何かがあるだろう。ここからそう遠くないところにある。幹山町というところだ」

「幹山は、遠いですよ。ここから電車でも一時間はかかる」

「しかし飛行機で一時間かかるわけでもなかろう」と老人は笑って歩き出した。僕は服に付いた草や泥を払いながらその背中を追いかけた。

 老人は最寄りの駅で切符を買った。僕の分も買っていた。僕らは早朝の少し閑散としたホームで電車を待ち、乗った。乗客は少なく、座席も多く空いていた。老人は手近な場所に座った。僕はその隣に座り、目を閉じた。死か眠りかどちらかが僕の目蓋の上にあったのだ。深い眠りだったと思う。肩を叩かれて起きたときにはすでに目的地に着いていた。乗客も増えていて、僕の左隣では見知らぬ男が居眠りをしていた。立ち上がって老人の後を歩いた。駅のホームには人が多くいた。会社へと通勤する背広。部活に向かうジャージ。それらの合間を縫って改札口を出た。老人は振り返ることもなくさっさと歩いて行った。

 駅を出てタクシーやバスに乗ることもなく、ただひたすらに歩いた。駅前にはそこかしこにビルが林立していたが、駅の少し先にある国道を越えると戸建ての住宅や小ぶりな商店が多くなった。古びた団地や、小さな公園、踏切などをいくどかやり過ごしてから、トラックが行き交っている大通りにたどり着いた。老人はそこを右折して、立ち止まり振り返った。

「まだ少しかかるぞ」

「ええ、そうですか」

「ここもだいぶ変わったな。昔は畑だらけだったよ。いまや駐車場とコンビニが代わりに居座ってる」

 そう言って老人は歩き始めた。僕はその隣を歩いた。

「へえ、駅前はけっこう栄えてましてけどね。畑なんかなかったみたいに」

「そうだな。あそこも昔は広いロータリーしかなかった。そういう場所だったから、奴らも広い土地を買えたわけだ」

「広い土地が必要だったのは、どうしてです?」

「さあな。分からんよ。私はただ金と技術を少し融通してやってただけだからな」

「なるほど。技術ですか」

「そうだ。影を見つめる技術さ」と老人は笑った。「本来なら何の役にも立たん。見つめていたって影を捉えることは出来ん」

「見つめる、ですか。僕には難しかったですね」と僕は影に抱いたむせかえるような嫌悪感を思い出した。

「そうだ。人間はそういうように出来ておる。本能的に影を避ける。ゆえに影を見つけることは少ない。奴らはそこに気が付いたわけだ。それで私に本能を越える方法を聞いてきた」と言って老人は左に曲がり横断歩道を渡った。

「本能を越える?」と僕は老人の横顔を見ながら尋ねた。

「そうだ。歪曲者と呼ばれる奴らは影と共生して、影を見ることができるようになった。そうではない奴らはどうするべきかね? つまり影と適合できない奴らはどのようにして影を見つめるべきかね?」と老人は口元を少し曲げながら、僕を見た。

「嫌悪感を発生させる部位を破壊、あるいは抑制するような手段をとるというのはどうですか?」

「おおむねそうだ」と老人はうなずいた。それから左手に広がる畑を懐かしそうに見た。「問題はその影に対する嫌悪感はどこからきているのか、だ。人間の感情を抑制することは容易い。脳をいじればいいだけだ。だが、大雑把にいじってしまえば使い物にならん。奴らが欲してたのは恐れを知らない理知的な兵士だ。ただのゾンビは必要としていなかった。だから私は与えた。どこをどのようにして弄れば恐怖を取り除けるかをな」

「それで、結局、彼らは兵士を得たのですか?」

「ああ、腐るほど量産しておった。君も昨晩の戦いで学んだだろうが、基本的に影はただ殴りつけるだけでは倒せん。しかしだな、銃火器類その他もろもろの兵器、すなわち圧倒的なエネルギーを用いれば影を散らすことは可能だ。なぜなら影もまたこの地球上の物質で出来ているからだ。しかし、あくまで一時的にだが。すると必要なのは数だ。影を霞ませるほどの火力を出せる数多くの兵士が必要だったわけだ」

「なるほど。どうして彼らはそんなに影を消したがってるんです? 歪曲も持たないで」

「さあな。その集団を創設した男は、影に家族を殺されていた。それが原因なのかもしれない」

「つまり、復讐ってことですか」

「復讐ほど簡単かつ強力な動機付けはあるまい」

「つまりそう考えると、その男は影そのものを憎んでいた。だから影を使わずに殺す方法を探していたってことですか」

「そうだ。私にはどうでもいいことだったがね。私が興味を持ったのは影を人間だけの力で征服しようとしていた点だった。なかなか新しく儚い視点だった」と老人は薄く笑った。その老人の横を少年たちが駆けて行った。目の前には緩やかな坂があった。その奥には鬱蒼とした林が見えた。坂を上り始めた僕は小石を蹴りながら訊いていた。

「影は人を殺すんですね」

「君だって殺されたではないか」と老人は笑った。

「いや、そうですが。僕の記憶の中では人が影に殺されたという話を聞いたことがなかったので」

「聞こうとしなければ聞けない話もある。その話はそういう類の話だっただけだ」

「歪曲者たちが隠蔽していたってわけですか?」

「そうだ。たぶんな。私も最近の情報には疎い方でね。奴らが何をしようとしてるのか、見当もつかん」

「人を殺しうるような、そんな危険なものと彼らは戦っていたわけか」と僕は呟いた。

「無害な影もいることも覚えておくといい。まあ、君の中にいる影がその筆頭だがね」

「ああ、そういえばそうですね。なんで人間と共生するような影がいるんですか?」

「共生か。ある視点から見ればそうだな」と老人は笑って立ち止まった。我々は坂の上についていた。門があって、警備室があった。その門の向こうは林で隠されていた。鉄柵の横の柱には、『間山警備保障研究所』と書かれた看板があった。警備室にいる男たちは抜かりのない目つきで、門の前に立ち尽くす我々を見据えていた。

「ここですか?」と僕は訊いていた。

「そうだ。偉くなったもんだな、間山も。自分の名前の組織を作るとはな」

「どうやって入るんです? いやむしろここで何をする気なんです?」

「そうだな、まず中に入ろう。それで使えそうなものを拝借しようではないか」

「なるほど」と僕は小さくうなずいていた。

 老人は確かな足取りで警備室の窓口まで向かった。僕はその後ろゆっくりと付いて行った。硬い表情の警備員たちは無言のまま我々を迎えた。

「間山森三に用があるんだが、通してくれんかね」と老人は言った。

 警備員の一人は眉間にしわを寄せた。

「間山はここにはおりません。本社の方で仕事をしております」と表情を崩さなかった方の男が答えた。

「ここは本社じゃなかったのか」

「本社は東京にあります」

「ならここの研究所で一番偉いやつと会わせてくれんかね。喫緊の用事があるんだ」

「失礼ですが、どのようなご関係でそのような面会を求めるのですか?」と警備員は老人を見つめた。老人は笑った。

「つべこべ言うな、若造。連れてこれんのなら、こちらから行っても構わんのだぞ」

「我々の許可なくして、この門の向こうに行くことは出来ません。何人たりとも」と警備員は静かに言った。

「そうか。なら試してやろうか?」と老人は酷薄な笑みを浮かべた。あれほど意地の悪い笑みはその時まで見たことがなかった。警備員たちは無言でその挑発を耐えた。僕の背中には汗がたらたらと流れて行った。

「我々の許可なくして、この門を越えることは出来ません」と警備員はマントラのように繰り返した。その褐色の頬には汗がつたっていた。

「内線をつなげろ。あるいは、間山に電話しろ。Qが来たと伝えろ。これが最初で最後の通告だ。いいか、何もしなければここを勝手に越えていく。お前たちも分かっているはずだ。私にはそれができる」

 警備員たちは顔を見合わせた。僕だったら笑い始めたかもしれない。手で押せば崩れ落ちそうな老人が言うような脅し文句ではないのだ。真面目に応対されなくとも、不思議なことではなかったであろう。一瞬の沈黙の後、一人の警備員が奥の部屋に消えた。蝉の鳴き声が聞こえるようになった。車が何台か坂を下って行った。部屋に警備員が戻ってきた。その男は目で窓口にいる男に合図した。窓口の男は身を固まらせてから、老人を見た。

「所長がお会いになるそうです。少々、ここでお待ちください」

「いや、こちらから行く。門を開けろ」

「いえ、しかし」

「門を開けろ」と老人は警備員を睨んだ。堪りかねた警備員は仲間たちの方を振り向いた。彼らは不安そうにうなずくだけであった。窓口の警備員は首を小さく振った。それから、机の上にあるパソコンを操作した。すると門が開いた。

「ありがとう。ご苦労さま」と老人は笑って、門の方へと歩いて行った。僕もその背中を追って門を越えた。門から離れて数歩したところで、扉が閉まる音がした。

 僕は振り返ることなく、道の命じるまま、老人の歩みに沿って林の奥の方へと進んでいった。

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