第25話
その夜、僕は毛布に包んだ猫を公園へと埋めに行った。猫が死んだその日のことだった。べつに猫は自分の死体をどうこうしろと僕に命令したわけでもなかった。だが、どう考えても猫はこの公園に自分の抜け殻を埋めてほしいと願っているはずだった。少なくとも僕はそう思った。
僕と猫が出会った公園は広い場所だった。月光の中どこに埋めようかと考えながら、硬直した猫を胸に抱きつつ歩き回った。結局、僕は人が寄り付かないような場所を選んだ。たとえ土の上からだとしても猫が誰かに踏まれるのは我慢ならなかったのだ。
手で地面を掘った。爪の中に土が入った。そのうち爪が少しはがれた。僕は気にしなかった。十分な深さまで掘り進めると、毛布に包んだまま猫をそこに寝かせた。その上にやわらかい土をかけた。印になるようなものは置かなかった。誰にも見つけられたくなかった。わずかなためらいを捨てて、僕はその場を離れた。
公園の明かりの下に出て、僕はこの先どうするかを考えた。何も考えられなかった。腕の中に残る猫の硬さが僕を現実から遠ざけていた。僕は夢遊病者のような足取りで公園を歩いていた。広場に人はいなかった。それもそうだ。深夜一時に公園で遊ぶような人間はそう多くない。そう多くない人間の一人が僕に声をかけてきた。
「すまないが。すこし聞きたいことがあるんだが……」
僕はベンチに座るその男を見た。パナマ帽をかぶった老人だった。口の周りのもさもさした白いひげが、街灯のおかげで光っていた。僕は立ち止まって、その杖に顎を載せるようにして座っている老人をじっと見つめた。深夜徘徊に失敗した老人だろうと思っていた。
「警察を呼べばいいんですかね」と僕は言っていた。
「いや」と老人は首を横に振った。それから杖から顎を離し、身を起こして話を続けた。「君の後ろにいる、妙な影がなんなのか気になってね」
「影?」と僕は後ろを振り向いた。確かに影はそこにいた。僕の右耳に何かを囁くようにして、その顔のような部分を僕に向けていた。距離という言葉が不適切なほど、近くにいた。僕は飛び退いてその影から離れた。僕はそれを一度見たことがあった。荒野で互いを貪り食おうとしていたあの影に酷似していた。当然その影には目などない。だが、十分なほどに僕を凝視しているのだということが分かった。今まで気が付かなかったのが妙なくらいだった。
「君の友だちかね」と老人がベンチに座ったまま言った。
「いや」
「そうか。先ほどからずっと君の後ろにいたのだが」
「気が付かなかった、まったくもって」と僕は呟くように言って、一つ後ずさりした。影は依然として僕を、僕だけを見つめていた。老人は一つ身じろぎしてから口を開いた。
「戦い方は知ってるのかね?」
「は?」と僕は老人を見た。老人はぼんやりとした眼差しで僕を見上げていた。
「それと戦うんだろう?」
「いや、むしろ戦わなきゃいけなんですかね?」
「さあ? きみが死にたいのなら、それでもいいだろう」
「は?」と僕が間抜けな返事をしたとき、その言葉の真意を身をもって知った。
影は唐突に僕のそばへと寄ってきていた。反応できないまま棒立ちでいると、右わき腹に抉られるような痛みが走った。影はその痛みの場所に顔を当てていた。首を横に振るような動作をしてから、僕を見た。その黒く塗りつぶされたような顔がゆっくりと近づいてくるのを、僕は黙って見ているわけにもいかなかった。咄嗟に手でそいつを振り払った。馬糞を殴ったような感覚だった。そいつを吹き飛ばせるほどの威力ではなかったが、距離を作ることは出来た。
「なんだって言うんだ」
「きみを食べる気なのかもしれんな」と老人が笑うように言った。
「意味が解らない」と僕は声を震わせた。目の前でゆらゆらと立っているソレは明らかに『歪み』だった。ソレを間近で見る以前には、所詮ゴキブリみたいなものだろと僕は軽口をたたいていたが、そんなもんじゃない。どう見てもゴキブリ以上の嫌悪感を振りまいている。そいつは震えることをやめて、僕をまた見据えた。僕はそいつに触れられた右わき腹を確認した。血は出ていない。服も破れてはいない。痛みも退いていた。だが、何かがずれていた。右手でその部位を撫でた。撫でられた感覚がなかった。こいつは感覚を喰う。僕はそう予測した。そいつを殴った手をさすった。感覚はあった。こいつは喰う気がなければ、感覚を消すことは出来ない。僕はそう考えた。考えているうちにそいつは震えるようにして僕に近づいてきた。動きは緩慢であるが、僕の生きるための何かをそぐような動きだった。僕は首を振って、とりあえずその影に前蹴りを放った。犬の糞を踏んだような感覚だった。影は少し後ずさりするだけだった。僕は一歩だけ後退した。そいつの懐に入って殴り続けるような闘争心はなかった。体は震えていたし、脳は空転していた。そんな僕にお構いなく影は再度近づいてきた。
「戦えないのかね」と老人が言った。いつの間にか彼は僕の隣に立っていた。老人の身長は思いのほか高く、僕と同じくらいであった。背は曲がっていない。その眼はじっと影を見つめていた。
「どう戦えばいいのか分からないんです。ルールってのがわからない。アイツは生物のルールの範疇にあるんですか。蹴る殴るだけで、いや何かを壊すだけでアレは」と僕が言いかけた時には影はその腕を伸ばして、僕の首に手をかけようとしていた。手がある。この影には五本の指を持った手がある。僕はそう観察しながら、前蹴りを放った。影は三歩後退した。
「いい蹴りだ」と老人は笑った。「しかし蹴るだけでは倒せまい」
「じゃあ、どうすれば?」と僕は老人に訊いていた。老人は少し笑みを残したまま、言った。
「斬るというのはどうだろうか」
「斬る?」
「そうだ。このようにして斬る」
老人は杖を造作なく振り上げた。影は震えるのをやめた。それから真っ二つに割れた。僕は口を開けた。あんぐりと。影はその間に地面に倒れ込んでいた。影は質量を持っている。僕はそう結論付けた。
「少年は、名をなんという?」と老人は僕を見た。
「福屋アキラ、です」
「君か」と老人は大きく笑った。
「はあ?」
「猫の友人だろう、君は。私もそうだったんだ」と手を僕に差し出してきた。僕はその手を見た。骨に皮膚だけがついているだけだった。僕はその手を握った。冷え切った手だった。老人の手を握ったまま、僕は言った。
「猫っていうのは、黒猫?」
「そうだ。彼とはよくここで話していたよ。夜になると我々はベンチに座って、いろいろ語り合った。それも今日で終わりだ。彼は運命に流されていった」と老人は僕の手を強く握ってから、放した。
「運命?」
「そうだ。彼は君を守って死ぬ。そういう運命だったのだ」
「ひどい話だな、それって」
「そうだ。しかし、こういう言葉もある。『一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。』」と老人は言って、僕を見つめた。「私は君を、その多くの実の一つにしなきゃならんのだ。それが猫との約束だった」
「つまり、えっと、どういうことですかね」と僕は困惑したまま訊いていた。
「てっとり早く言えば、君を強くする。これから君を待ち受けるような敵を倒せるように、強くする。ああいったレベルの影など、片手で倒せるようになるのがひとまずの目標だ」
「はあ?」
「すぐにわかるよ。君は彼女に会いに行くんだろう?」
「彼女ってのは、つまり前島さんのことですか?」
「そうだ。彼女も今、運命のただなかにいる。彼女に会うためには、まず本部にいかなきゃならん」
「本部?」
「そうだ。そこまで行くには力が必要だ。だから私がそのための力を君につけさせる。そういうように猫から言われたのだ」と彼は僕を見てうなずいた。何も理解していなかったが、僕もうなずきかえして言った。
「なるほど」
「まず、君は君の影を理解しなきゃならんな」と老人は笑った。
「僕の影?」
「そうだ。猫から貰ったのだろう?」
「ええ、まあ。けど、何も変わらないんです。なんかあるなって感じもありません。いつもと同じ。目の奥が少し痛いくらい。これは、たぶん、疲れてるからですかね」
「意志なき所に力はない。君が使おうとしなければ影は動かんよ」
「はあ、なるほど」と僕はなんとなしにうなずいた。
「意志は必要によっても生じる。ということは、分かるかな? 少年よ」
「えっと、つまり、分からないですね」と僕は首を横に振った。老人はにやりと笑った。僕がこれから幾度となく見ることになる笑みだった。
「つまり君は、これから影と戦い続けることになるということだ。それが君の運命だ」
その時、ひとかけらの氷が僕の背中を這っていった。僕はにんまりと笑う老人から目を離して、背後を見た。芝生が広がっていた。その上には影たちがいた。視認できたものだけでも、十数体ほどがゆらゆらと揺れていた。そのすべてが例外なく、僕を見つめていた。耳鳴りとめまいが僕を襲った。僕は頭を抱えた。
「わけがわからない」
「そういうものだ、生きていくということは。さあ、戦え。私は猫と違って甘くはない。君が本当に死にそうになったときだけ、助けるだろう。もしかしたら助けないかもしれない。それが君の運命のなのかもしれんからな」
「戦うって、どうやって」と僕は震える体を押さえつけながら言った。まだ右わき腹の感覚は戻ってきていなかった。
「君には拳があるだろう。さっきやってたじゃないか。それを相手が動かなくなるまでやりつづけろ」
「でも、」
「いいから戦うんだ」と老人は僕の背中を押した。すでに影たちは僕の方へと群がってきていた。そのうちの一体が飛び上がった。僕はその影を目で追った。ゆるやかな放物線を描きながら、僕のいる地点へと着地しようとしていた。僕は慌てた。それから、後ろに飛びのいた。影は音もなく僕の足元に落ちてきた。影は僕に抱きつこうとしていた。僕は考えることもなくその顔を踏みつけた。
こうして、僕の戦いが始まった。
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