第22話
ベッドから扉までの距離は十歩ほどだった。その間には女の座る椅子があった。部屋から出るとなれば女を越えなけばならなかった。僕は口を開いた。
「どうやって助けろっていうんです?」
「ちょっとやってほしいことがあるんです」と女は言って席を立った。
「やってほしいこと?」
「ええ、少し準備してきますね」と女はまた別室に通じるであろうドアの中へと消えた。そのドアの奥で女が何をやってるのかなどは全く見当もつかなかった。
「何やってんだろうね」と僕は友瀬を見た。
「ウチが知るわけないじゃん」と友瀬は僕を睨んだ。
「君が知らないなら、別に僕も知ってる必要はないわけだ」
「アンタ、余裕だね。何させられるか分かったもんじゃないのに。危機感がないんじゃない?」
「まさか。今の僕ほど危機感をひしひしと味わってる人間はいないね。いいかい、考えてみなよ。僕らもう彼女の要求を断れない。そうだろ?」
「どうして?」と友瀬は訝しげに僕を見た。
「どうしてだって? ああ、まあいいけど。だってさ、彼女の能力がまさに閉じ込めておくってやつなら僕らはここから出られない。たとえ彼女を殺したって、出ることは出来ないんだ。もし出たいのなら彼女の要求を飲んで、彼女を説得して出るしかない。つまり、僕らは彼女に従うしかない。そういうこと。分かったかな?」
「うるさい。そんなの分かってる」と友瀬は唇を尖らせて、そっぽを向いた。
「分かってるならいいんだ。黙って抵抗せずに要求に従おう。仲間も呼ぶんじゃないよ」
「アンタの要求に従う気はない」と友瀬はそっぽを向いたまま言った。
「なるほど」と僕は言った。
僕らは互いに黙ったまま、それぞれ見たいものを見ていた。友瀬は相変わらず少女の寝顔が気になっているようだった。僕は僕で、女が入って行った部屋のドアを観察していた。木製の扉で、ドアノブは丸い頭をしている。ドアの上方には丸い磨りガラスがはめ込まれていた。そこから淡い暖色系の光が漏れ出でてきている。その流れが少し遮られた。ドアノブが回り、音もなく扉が開いた。女はそっと顔を覗かせてから、部屋の中に足を踏み入れた。僕の視線に気が付き、笑みをこぼして僕の方へと近づいてきた。
「準備ができましたよ。貴方にこれを打ってほしいのです」と女は銀色のケースを僕に差し出した。僕は腰を浮かせて、それをうけとった。それはすっぽりと右手の中に入った。皮膚に張り付くような冷たさだった。
「打つ?」と僕は女を見上げた。女は僕を不変の笑みで直視した。
「ええ、その中には注射が入っています。それを静脈に注入してほしいのです」
「なるほど」と僕は呟いた。女を見るのをやめて、友瀬の方を向いた。友瀬は僕の右手の中にあるケースを凝視していた。僕はそれを友瀬に向けた。
「なに?」と友瀬は僕を見た。
「左手が使えないんだ。開けてくれないか。ついでに、注射も打ってほしい」
「はあ?」
「いいから、やってくれないか?」と僕は友瀬を見つめた。
「アンタ、本気なの? それ打つと戻ってこれないかもよ」と友瀬は言った。
「これを打てば、彼女を助けることができる、そういうことなんでしょ?」と僕は女を見る。女は首を少し傾げた。
「助けられるかは分かりませんが、ニナに会うことは出来ます」
「なるほど」と僕は言った。
「ニナって名前のなの?」と友瀬は女に訊いた。
「ええ、そうです。わたしが名づけました。公的な名称では139号となっています」
「ひゃくさんじゅうきゅうごう」と友瀬は復唱し、ベッドの上の少女に視線を向ける。
「おい、いいからこれを開けてくれよ」と僕は友瀬に言った。
「わかってるよ」と友瀬は僕の手からひったくるようにしてケースを取った。慣れたようにケースを開き、注射器を取り出した。鋭利な針先を検査するようなまなざしで見つめてから、ケースをベッドに放った。屈んで僕の隣に座り、僕の右腕をつかんだ。僕はそこで口を開いた。
「ねえ、このなかには何が入ってるんです?」
「ニナと同化した『歪み』から抽出した成分が入っています」
「へえ、つまり、僕は、えっと、どうなるんですかね」
「おそらくですが、ニナの夢の中に行けるはずです。一時的でも、その『歪み』と同化することになりますから」
「なるほど」と僕は呟いて、友瀬に視線を向けた。友瀬は僕の右腕の静脈を探していた。
「打つよ」と僕の静脈に指を当てたまま彼女は言った。
僕は小さく頷いた。友瀬は確かな手つきで針を刺した。初めはわずかな痛みがあったが、内容物が注入されるにつれ感覚は徐々に麻痺していった。プランジャを押し切った友瀬は、針を抜いて素早く僕から離れた。僕はそれを別に不思議に思うこともなかった。そんなことよりも気になることがあったのだ。意識の中で、なにかが確実にずれ始めていた。心臓がゆったりと大きく跳ねていった。視界が広まったり、狭まったりする。知らぬ間に息が上がっていた。腰の奥の方から神経がうずき始めていく。それは震えを伴いながら、延髄の方へとせりあがってきた。唐突に視界が明確になった。すべてが鮮明にくっきりと見えた。全体を見渡すと同時に、極細部までを見ることができた。ほの暗い白の壁紙、紅い絨毯、焦げ茶色のドア。色がすべてだった。形が崩れていく。最後にはっきりと見たのは、天井にぶら下がる電球だった。それが閃光を放ち、僕の脳ははじけ飛んだ。
真っ白だ。
世界が僕の足元に戻ってきたとき、僕は土の匂いを嗅いでいた。赤いレンガで舗装された道がただまっすぐと続いていた。左右には野原が広がっている。その奥には木々が見え、小高い山々が連なっていた。野鳥の鳴き声がときおり風に乗ってやってきた。春みたいな陽気だった。僕は歩き出した。
しばらくは同じような景色が続いた。風に揺れる森、地肌の見えない山、雲一つない青空、さらさらした日射し。レンガ道はところどころ破損したりしていて、あるところでは隙間からアリがぞろぞろと這い出してきていた。そのアリたちは草の茂みの中へと消えて行った。草の中にはそれなりの生物が生息しているようだった。なかなか緻密な夢だ。僕は視線をふらつかせながら歩いていた。
道の先に人影が見えた。それは僕の方へと近づいていた。次第に明瞭となっていくその姿は、木こりのような恰好をした若い男であった。彼は僕の前で立ち止まって、帽子を取り笑顔で会釈をした。
「こんちわ。アンタさん、旅人で?」
「ええ、たぶん」と僕は答えた。
「町はこのまままっすぐ行けばいいですけ。もう少しすれば、門が見えますなあ。その門番に挨拶してから入って下せえな。んまあ、ゆっくり歩いて行って下せえ。ここは景色がいいですけ」
「なるほど。たしかにのどかな場所ですね」
「んまあ、姫さまのおかげですな」
「姫さま?」
「町の城に住んでますけ。町の領主ですっけ。姫さまがおるから、ここは静かなんですな。姫さまが守ってくださるんだ」
「へえ、いい人なんですね」と僕はうなずいた。
「まあ、いい人なんじゃけど、わがままでねえ。今日だって鹿肉のシチューが食べたいなんて言いますけ。ちょっち無茶な話だっけ」
「へえ、鹿肉ですか」
「うん。だから、いまから森に行ってよ、話してこなきゃいけないんだっけ」
「話す?」
「そう話すんだ。誰か肉くれねえかってさ。ここじゃ、銃は使わねえんだよ。使えないんだっけ」
「へえ、銃が使えないんですか」
「んまあ、これも姫さまが決めたことだっけ。昔みたいにバンバンバンじゃいかんようになちまったんでなあ。ちょっちさびしいが、まあ仕方がないですっけ」
「なるほど」と僕はうなずいた。
「ああ、長く話しちまったなあ。すまないね。ほんじゃ、まあ、お気をつけて」と男は笑って、帽子をかぶり僕が歩いてきた道を行った。僕は男の後ろ姿が小さくなるまで見送った。
彼の言ったとおりだった。レンガ道の先には門があった。木製の巨大な門だった。その奥には町が広がっているようだった。町の輪郭に沿って堀と壁が作られていた。堀の中には水がたまっていた。幅は僕の身長と同じぐらいだった。助走をつけて飛べば堀の向こう側に行けそうだった。
門の前で門番らしき人物が僕を見つめていた。白いヘルメットを被っていた。チェックのワイシャツにチノパンという服装だった。手には鉄パイプを持っていた。僕は短い橋を渡って、そんな男の前に立った。
「なんのようかね」とその男は言った。
「えっと、そうですね、たぶん観光です。サイトシーイングってやつです」と僕は答えた。
「そうか」と男は僕をじろじろと見た。
「入ってもいいですかね」と僕は言った。
「門は閉まっている」と男は無表情に言った。
「ええ、たしかに」と僕はうなずいた。
男はただ僕を見つめているだけだった。その眼には何かを訴えているようなものがあった。
「えっと、つまり僕は門の中には入れないってことですかね」と僕は言った。
「べつに門から入る必要はない。見給え、門のほかに何がある?」
「堀と、壁があります。たぶん町を囲むようにして」と僕は言った。
「やる気があるなら、その二つを越えて中に入ってもらっても構わない」
「なるほど」と僕はうなずいた。
「君は、カネは好きか?」と男は言った。
「いや、ないと困るってくらいですかね」と僕は答えた。
「そうか。僕はこの町が好きだ。なにせ、金が流通してない。僕の理想がここにある」
「へえ、けど交換はあるんですよね」
「いや共有があるだけだ。我々のモノはすべて我々のモノになる」
「なるほど」と僕はうなずいていた。特に意味のないうなずきだった。
「君は金をもっているのか?」
「いや、もってないな、たぶん。うん、ああ、持ってないですね」と僕はポケットを触って答えた。
「そうか。ならいいんだ。旅人は外貨を持ってくる。それはこの町の住人に悪影響を与える。だから僕はこうしてここに立っている」
「なるほど」と僕はうなずいた。男はじっと僕を見た。
「姫に会いたいのか?」
「えっと、城に住んでるという?」
「そうだ」
「ええ、きっとその子に会わないといけないみたいです」
「そうか。君のような旅人は前にも見たよ」
「髪の長い、金髪の女の子ですか?」と僕は友瀬を思い浮かべながら言った。
「ああ、そんな子もいたな。覚えてるよ。たしか彼女は塀を越えて中に入ったよ。門は開いてたのにね」と門番は笑った。
「ほかにもいたんですか」
「ああ、髪の短い女がここに来た。賢そうな女だった。彼女も姫に会いに来ていた。理由は分からないが」
「へえ、なるほど」と僕は二回ほどうなずいた。
「君は貨幣を持っていない。なら、門を開けよう」と彼は言って、門を片手で押した。戸は簡単に広がっていった。
「カギとかないんですか?」
「ないよ。君だって僕を押しのけて門を押せば、開けることができた」
「へえ」
「そうしなかった君に僕は敬意を表す」
「ああ、なるほど」と僕はうなずいた。
「門が開いた」と男はうなずいて僕を見た。
「ええ、えっと、ありがとう。じゃあ入ります」
「門は開いている」と男は繰り返した。もはや僕はうなずくこともなく、男の横を通った。
こうして僕は町の中に入った。振り返るとすでに門は閉っていた。まだレンガの道はただまっすぐ続いていた。その先には広場や、噴水や、城が見えた。僕はまたレンガの上を歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます