第20話

 またたく蛍光灯が僕らの間に淡い影を作っていた。灰色のコンクリートで密閉されたこの空間では、影の境ははっきりしたものではなかった。僕はポケットから手を出さずに、近づいてくる影を観察していた。その影の主は、以前僕の頸動脈を狙った男だった。頬にある傷はまだ残っていた。死ぬ時もそこにあるだろう。彼は十歩ほどの間隔をあけて、僕の前で立ち止まった。鋭い眼だった。右手には黒塗りの自動拳銃があった。僕は口を開くしかなかった。

「久しぶりだね、あの子は元気かな?」

「お前はあそこで殺しておくべきだった」と彼は言った。

「おかげさまで、こうして苦しみながら生きてるよ」

「だから、いまお前を処理する」と彼は腕を上げて照準を僕に向けた。それから、ためらうことなく引き金を引いた。

 僕はポッケから左手を出していた。銃弾はそれて、僕の後ろにある公衆電話のガラス戸を突き抜けた。

「なんだ、歪曲は使わないのか?」と僕は左手を出したまま男を睨んだ。

 答えることもなく、男は視界から消えた。僕が次に知ったのは、左肩の焼けるような痛みだった。僕はすぐさま右手を出して、周囲を突風で埋めた。何かが壁にたたきつけられる音がした。僕は肩で息をしながら、左手をなんとかポケットにおさめた。左肩の銃創からは血がだらたらと出ていた。それは腕を伝って、ズボンを濡らしていった。僕は右のポケットからハンカチを出して、左肩を縛った。昔見たギャング映画を参考にした結果だった。僕はよろめきながら、壁にもたれかかるようにして気を失っている男のもとへと近寄った。拳銃は男の手から離れて、彼の足元にあった。僕はそれを拾って、男に照準を向けた。軽い引き金を引く。重い反動が右肩に伝わる。男の左胸のあたりに着弾した。鈍い音だった。防弾チョッキを着こんでいるみたいだった。今度は、額に照準を合わせた。そのとき男は薄目を開けた。

「やめろ」と男はささやくように言った。

「どうして?」と僕は尋ねた。左腕の感覚はなくなっていた。

「語り部に会えなくなる」

「会わせてくれるのか?」

「少なくとも俺を殺せば、会うことは出来ない。お前はマークされ続けることになる」

「ここでこれを下ろせば、アンタは僕を本部に連れて行ってくれるのか?」

「それはできない」

「ふざけんな」と僕は引き金を引いた。今度は腹のあたりに着弾した。

 男は喘ぐように息をした。

「次は頭を狙う」と僕は額に照準を合わせた。

「お前は、なんで、二つの能力をつかってるんだ」と男は額に汗をにじませながら言った。

「教える気はないね。それに二つだけじゃない。おい、無駄話はしたくないんだろ、アンタらはさ。前にあった時も時間ばっかり気にしてたよな。じゃあ、さっさと答えてくれよ。アンタは僕を語り部に会わせる気はあるのか、それとも、ないのか?」

 男は黙ったままうつむいていた。僕の右腕はかすかに震えていた。拳銃を握りなおす。引き金に指をかける。男は相変わらず黙ったままだ。

「じゃあな、死神」と僕は言った。

 銃声の代わりに、女の声が響いた。

「なにやってんの?」とその声は言った。僕は振り向いて、その声の主を見た。友瀬レイナだった。それに気が付いたときには、僕は反対側の壁に吹き飛ばされていた。拳銃は手元から離れていた。背中を思いっきりぶつけた。呼吸ができなくなるくらいだった。だが、死の苦しみに比べればなんてことない。

 歪む視界には、向かい側の壁でふらつきながらも立ち上がる男が居た。男は咳をしながら、僕を睨んだ。僕は息がままならないまま、友瀬レイナが状況を把握できないまま突っ立っているのを見た。死神はそれを見逃さなかった。鎌のような形にした右手を友瀬レイナにめがけて振りかぶった。僕も右手を挙げた。

 僕の引き起こした強風で、友瀬レイナは地面に倒れ伏せた。彼女の背後にあった壁は大きく横に抉れていた。死神の歪曲だった。僕は膝をつきながら、死神の方へと風を送った。だが死神はふたたび右手を振って、突風を打ち消した。それから壁に寄りかかり、油断なく僕のことを見つめていた。

「お前の仲間か?」と死神は言った。

「いいや」と僕はかすれた声で答えた。

「まあ、いい。次はやり損ねない。それまで、死ぬなよ」と死神は言って、姿を消した。僕はその空白をじっと見つめながら壁に背中を預けて、長らくまともにできていなかった呼吸を再開した。息をするごとに、左肩は血を吐きだしているようだった。僕はため息をつきながら立ち上がり、気絶している友瀬レイナのところへと向かった。その生白い足をこづいてから声をかけた。

「おい、起きてくれよ」

 友瀬は体を一度震わせてから、目を開けた。それから、僕を確認して飛び退くように立ち上がった。彼女は僕を睨んだ。僕はよく睨まれる人間だった。

「いいか、敵意はない。むしろ助けてあげたくらいなんだ。だから、少し手伝ってほしい」

「……、なにを?」と友瀬は言った。

「あの、ひしゃげた公衆電話をどかしてくれ」と僕は右手でぼろぼろの電話ボックスを指さした。

「どうして?」

「もう、僕は疲れたんだ。左肩には銃弾が埋まってるし、背中は痛いし、実は言うと立ってるのもままならない。それに死んでる暇もない」

「そうじゃない。どうして、そうする必要があるの?」

「あの下には階段があるんだ。その階段を下りると、コアがある。僕はそこに行って、それを破壊する。そうすると、世界は少しだけ自由になる」

「コアって、アンタ、どうしてそのことを知ってるの?」と友瀬は目を見開いて言った。

「どうでもいいじゃないか。やってくれるのか、くれないのか、どっちだ?」

「……、分かった。どのみちアンタに言われなくても、コアを探してたし。ここにあるなんて思ってもみなかったけど」と友瀬は言って、右手で薙ぐような動作をした。公衆電話が吹き飛んだ。その跡には、ぽっかりと暗い穴が開いていた。僕らは黙ってその穴に近づき、覗き込んだ。急な階段が暗闇の中へと続いていた。微風が僕らの髪を撫でて行った。

「お先にどうぞ」と僕は言った。友瀬はそんな僕を睨んだ。

「押さないでよ」と友瀬は言って、階段を降りていた。

 僕もふらつきながら、その後をついて行った。

 下に降りていくほど何も見えなくなっていった。冷たく滑らかな壁に手を付き、一段一段丁寧に降りていった。お互いに無言であったが、息遣いは聞こえていた。そう長くはない時を経て、友瀬は声を出した。

「ここで階段は終わり。向こうの方に明かりが見える」

「そうか。たぶんそこだろうな」と僕は言って、階段を降り切った。たしかに奥の方で微かな光が漏れていた。友瀬は軽快な足取りで光の方へと歩いて行った。僕は足を引きずりながら、用心深く進んだ。その途中で友瀬が話しかけてきた。

「どうして、ここのこと知ってたの?」

「どうしてだろうね」

「はぐらかさないで」と友瀬は立ち止まって、振り返った。通路の幅は狭かったので、僕も立ち止まざるを得なかった。

「言ったってわかりやしないよ」と僕は壁にもたれかかりながら言った。額にはヘンな汗が浮かんでいた。そこまで寒くないはずなのに体は震えていた。左腕の感覚はすでに遠くの方へと行ってしまっていた。ただそこには重たい何かがぶら下がっているだけだった。

「これって、罠じゃないよね」と友瀬は僕を見つめた。睨むのではなく、ただ試すように見つめてきた。

「罠じゃない。コアはこの先にある。影がそう言ってる」

「影?」

「影さ。歪曲はみんな固有の影を持ってるんだ。影との共生の結果、僕らは現実を歪ませることができる。そう猫に教わったよ」

「なにいってるの?」と友瀬は首を傾げた。

「なんでもないさ。僕らはただ見たいものを見ようとしてるだけなんだ。さあ、先に行こう、着く前に死んじゃうよ。さっき言ったように死んでる暇はないんだ」

 友瀬は不満そうな顔をしてから、体を前に戻して進み始めた。僕もずるずるとその後を歩いた。長い道だった。友瀬はドアにたどり着いた。一度僕の方を見てから、ドアを開けた。淡い光が僕らを包んだ。その向こうから女の声がした。

「いらっしゃい。待ってましたよ」

 聞き覚えがある声だった。僕はその声の主を見た。転校初日にあったあの女性だった。友瀬は僕の前で固まっていた。よく固まる女だった。

「なんでここにいるんですか?」と僕は友瀬の肩越しから聞いていた。

「だって、コアの管理人だもの。ここのコアは新しくなったばかりで、ちょっと動作が不安定なので、誰かがいつもついてないといけないんです」

「へえ、それで、ここで死ぬのと黙ってこの部屋から去るのはどっちがいいですかね」と僕は右手をその女に向けていた。友瀬は驚いたように僕を見た。女は軽く笑って言った。

「わたしは抵抗しませんよ。なにもできないのです。そういう能力じゃないから。コアを壊すならそれでもいいですよ。あなたたちの気がそれで済むと言うならね」

「どういうこと?」と友瀬は女に聞いた。

「コアはあそこで眠っていますよ」と女は部屋の奥を指さした。

「眠ってる?」と友瀬は女の指先を見つめた。そこにはベッドが置いてあった。友瀬は歩き出してそのベッドに近づいた。僕も友瀬の後をついて行った。女はそんな僕らの様子を慈しむように見ていた。

 ベッドの上には一人の少女が眠っていた。僕は彼女を知っていた。僕のことを恋人だと主張していた少女だった。

「彼女がコアです」と僕らの背後で女は言った。存外、愉しげな声色だった。

 僕らはしばらくの間、口を閉ざしたまま少女のあどけない寝顔を見ていた。どこからどう見ても、ただの女の子だった。

「これ、人間でしょ、それに……」と友瀬は呆然としたように言った。

「その上、コアだ」と僕は答えて、右手をその少女に向けた。

「待ってっ」と友瀬は僕の右手を弾いた。

「なんだよ」

「え、アンタ、殺す気なの?」

「そうだよ。これがコアなら、そうするしかないだろ」

「アンタ、正気?」

「至って正気さ。相手は寝てる。殺すなら今しかないよ」

「けど、人間だよ」

「その上、コアだ」と僕は右手を再び少女に向けた。それから最大出力の突風を出した。本来なら、ベッドごと吹き飛んで何もかもが粉々になっているはずだった。だが、何も変わっていなかった。ベッドは相変わらず皺ひとつなかったし、少女はすやすやと眠っていた。僕はさすがに気が滅入った。ため息をついてから、床に座り込んだ。

「これがコアだよ、友瀬レイナ」と僕は言った。友瀬は固まったまま、じっとベッドに見入っていた。

「そう、それがコアなのです。だれも彼女を傷つけられません」と女は僕の背後で言った。

 僕らの間に沈黙が下りた。耳を澄まして聞こえるのは、少女の寝息だけだった。

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