第18話

 ある日、僕はノートを見つける。外見はなんでもないノートだ。だが、このノートは何があっても一度書かれた文章を変えることはない。僕は表紙をめくる。表紙の裏には名前が書いてある。笹倉ハジメ。それがこのノートの持ち主の名前だった。はじめのページにはこんな文章が書いてある。


 『書くということは現実を見つけることだ。私は今や日々の雑事の中に埋もれていく記憶を、身に凍みるような寒雨の中でマッチの灯を手で覆うかのように、あるいは肌を焼き尽くすような砂漠の上で井戸をシャベルで掘るかのように、ここへ書き留めておくことにした。また、こうして書くことによって私は現実を選択することになろう。あの地下奥深くにいる彼らが語るとことによって、そうするように。』


 僕はぺらぺらとノートを捲っていく。日記のような体裁で、ぽつぽつと文章が綴られていた。ノートの最後までは埋まっていなかった。半分くらいのページで文章は途切れていた。その最後の文章はこんな感じだった。


『ここのところ、未来予知者たちが不審死を遂げている。その調査に忙殺されていたため、ここに書くことがおろそかになっていた。今、さまざまのことが私の中に澱んでいる。あせることなくそれを一つ一つ掬っていこう。

 現在までに確認されていた未来予知者は七名であった。そのうち五名は死亡した。おそらく正統派の残党の仕業だ。一名はロストしている。彼は自分の意志でこの世界から離れた。残る一人は本部の最奥で厳重に保護されているはずだ。もしも彼が殺されるようなことになれば、我々の敗北が差し迫っていることになる。

 ここ最近、ロストした彼のことを思い出すことがある。今回、正統派残党の活動を調べていくにつれて、彼の影が見え隠れしていた。彼は彼のしたいことをしているのだろう。それはおそらくだが、彼に過酷な選択を強いることになる。私はもう一度彼と接触すべきかもしれない。しかし、上がそれを許すことはないだろう。私は多くを知り過ぎた。何を彼に語ってよいのか、それすら判断がつかない。


 その日、私は本部に出向いた。調査報告を済ますつもりだった。ゲートは都内のオフィス街のビルを指定された。キーは近くのコインパーキング内の車だった。いつも通りに手はずだ。

 駅から降りた私は革靴の裏が焦げつくようなアスファルトの上を歩いて、密集するビルの熱気に当てられながら、道を縫うようにして進んでいった。目当てのコインパーキングはビルとビルの狭間にあった。私は頭上を気にしながら、黒塗りのセダンに近づいた。人は乗っていない。助手席のドアに手をかける。鍵はかかっていない。車内には冷気が停滞していた。ダッシュボードの上にあるキーを取る。私は車から出た。背後で車がロックされる音を聞いた。私はビルの迷宮の中に舞い戻った。

 多くの雑居ビルがある中で、指定されたビルを見つけ出すのは一苦労だった。なんども同じ道を巡り、いくども額の汗をぬぐった。ようやく見つけ出したビルは灰色の建物だった。私はタブレットを確認しながら、曇りガラスのドアを押し開けエントランスに入った。

 中は空調が効いていた。受付に人は居なく、埃っぽい空気があるだけだった。奥にあるエレベーターホールには電気がついていなかった。私はその暗がりの方に向かった。私の足音が周囲を制圧していった。エレベーターのボタンを押して、待った。ときおり振り返って入り口のドアを見た。開かれるような気配はなかった。エレベーターが一階に戻ってくる。扉が音もなく開いた。私は光の中へと入って行った。

 エレベーターの操作パネルには階と非常用ボタン、そして鍵穴がある。私はキーをそこに差し込み、回した。それから、6階を押した。エレベーターは唸りをあげて動き出した。浮遊感を味わいながら、私は気が付いた。このエレベーターは一階になかった。

 揺れが止まり、ドアが開いた。目前に広がる空っぽのオフィスには、一人の男が立っていた。頬に大きな傷跡がある男だった。私は彼を知っていた。死神と呼ばれる本部のエージェントだった。彼に出会った者は数日のうちに死ぬという噂がある。だが、実際のところ誰も彼が何をしているかまでは知らなかった。

「おはよう」と彼は私を見た。

「ああ、なにかようかな。ここはゲートだったはずだが」

「端的に言おう、我々は危機的な状況にある。ゆえにコードAが発令された。以後の任務報告は対面のみで行う。つまり君は本部に向かう必要がなくなった」

「正確に言えば、向かうべきでないってことか」

「そういうことだ。ここで調査報告を行ってくれ」と直立不動の彼は言った。私は、タブレットを出してその男に近づいた。

「この中にデータとレポートが入ってる。持って行っても構わない」

「わかった」と彼はタブレットを受け取った。「口頭での報告はあるか?」

「端的に言えば、今回の件はすべて正統派の仕業だ。彼らは新たな覚醒者たちを多く手に入れている。我々が回収し損ねている覚醒者たちだ。その中に、おそらく現実歪曲者レベルの人物がいる」

「そうか。その対象がどこにいるかは分かっているか?」

「いや、分からない。そういう存在を持っているということが分かっただけだ」

「なら、よい。次の任務はおって連絡する。おそらく、覚醒者回収になるだろうが」

「ああ、そうなるだろうな」と私は言った。頬に傷がある男はうなずき、それから姿を消した。一人残された私はため息をつき、額を拭った。

 こうして私は覚醒者回収の任務に就くことになった。今日までに二十人ほど学園に収容した。そのうちの七人は激しく抵抗した。鎮静剤を打つほかなかった。八人は歪曲を自覚していなかった。三人はすでに『歪み』との戦闘を経験していた。二人は抵抗することもなくついてきた。

 人数が加速度的に増加しているため、学園内の自治も難しくなっているようだ。正統派の内通者がときおり処理されていると聞いた。手を打たなければ、内部から瓦解することになるであろう。

 だが、それはそれでいいのかもしれない。

 私は今から、覚醒者回収に向かう。どうか彼女が、あの彼のように物わかりのいい人物であることを願おう。』


 ここで記述は終わっている。あとに広がるのは空白だけだ。人は唐突に死ぬ。誰も自分の死を見つけることは出来ない。僕がこの空白から知ることができるのはそれだけだった。

 さて、僕の知っていることを少し話そう。

 記述者であった彼は、予定通りに覚醒者のもとへと出向いた。夜の公園だったそうだ。その覚醒者はベンチに座って、笹倉を待ち受けていた。笹倉は警戒することなく、彼女に近づいた。笹倉が得ていた事前情報によれば、その少女の持つ能力は攻撃適性を持つような歪曲ではなかったからだ。笹倉はいつものように能力の説明をした。少女は黙って聞いていた。

「じゃあ、行こうか」と笹倉は最後に言ったらしい。

「ちょっと、遅かったね」と少女は答えたようだ。

 その時すでに笹倉は正統派の連中に囲まれていた。彼らは笹倉を徹底的に殺した。四肢を捥ぎ、胴体を切断した。こうして彼は死んだ。あっけないものだ。

 その翌日に正統派は学園を襲った。そこには僕もいた。

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