第17話

 その電話口で彼は、現実と夢の違いを深谷に尋ねた。深谷は軽く唸ったのちに、こう答えた。

「目が覚めるかどうかだろ。目が覚めれば夢、そうじゃなきゃ現実だ」

「ああ、実際的な答えだね」と福屋は受話器越しに笑った。

「それがどうしたんだよ?」と深谷は眉間にしわを寄せる。

「目が覚めない夢は、存在しないのかな」

「それは現実だろ。少なくとも俺にとってな」

「深谷くんは、はっきりした人だね」と福屋はおだやかに言った。

「はあ?」

「ちゃんと自分で考えてる。誰の言葉も引用してない。しかもその答えは明解だし、曖昧じゃない。間接的なモノの言い方は嫌いでしょ?」

「ああ、うん、まわりくどいのは大嫌いだね」

「そうか。はっきり言ったほうがいいんだね。いや、君たちは気づいてるかな?」

「なにをだよ?」と深谷は苛立たしげに言った。

「どうして君たちの周りに人が居ないんだと思う?」

「ああ? それは、まあ、あれだろ。脱走したんだろ」

「脱走した。どうやって?」

「どうやって?」と深谷は繰り返して、口を閉ざした。

「なにか脱走したような痕跡は?」

「……、何が言いてえんだ?」

「簡単に言えば、周りが消えたわけじゃない。君たちが消えたんだ」と福屋は言った。

「はあ?」と深谷は口を大きく開けた。ミカはそんな彼を心配そうに見た。

「そこの世界は現実じゃない」

「ああ? 何言っちゃってんの? ううん、おい、じゃあ、ここはなんだって言うんだ?」

「僕にはまだわからない。ただ僕がこうして電話できるのは、影のおかげなんだ。だから推測は出来る」

「待てって、頭が追い付かねえ。いったいぜんたいアンタは、どこにいるんだ?」

 受話器の向こうにいる彼は、唐突に口を閉ざした。深谷の耳には彼の息遣いだけが届いた。

「どうしたの?」とミカは不安そうに深谷を見た。

「いや、急に黙っちまった」と深谷はミカにささやくように言った。しばらくしてから深谷は彼の声を聞いた。

「良い質問だね。たしかに、僕もそれを考える必要があるな。ありがとう」と彼は言った。

「いやさ、ありがとうって言われても、なんて言えばいいのか分かんねえよ」

「うん。僕はどこにいるか、か。うん。考えてもみなかった。君たちからすれば、そうなるよね。共有された夢。それって、もう一つの世界だな。もしかしたら僕がいるところも、君たちが帰ってくるであろうところも、一人の少女の夢の中なのかもしれない」と彼は自問するように言った。

「アンタさ、どうかしちゃってるぜ。何がしたいんだよ」

「ごめん。もう時間がないかもしれないから、話を進めるよ。いいかい、おそらくそこに閉じ込められたのは、君たちの見た『歪み』が原因なんだろう。君たちがそこから出るためには、その『歪み』をどうにかしなければならない」

「意味分かんねえよ。いいか、アンタの言ってることは全く分かんねえ。俺が、まあ夢の中にいるのは千歩譲っていいことにしよう、でもな、『歪み』を倒せってのは無理な話だ。それができてたらな、こんなとこでこんな電話してねえよ」と深谷は声を荒げて言った。

「わかってる。けど、一つだけ方法、があるんだ」とかすれた声で福屋は言った。

「ああ? よく聞こえねえよ。ふざけてんのか?」

「隣にいる、女の子の、ポケットの中にそれが、ある。クスリだ。一本だと、ダメだ。二本、使えば、君は死ぬかも、しれないが、戦うことは、出来る」と彼は途切れ途切れに言った。

「おい、聞きにくいって、なんだよクスリってよ」

「あとは、君次第、だよ」と彼は言った。それから、ぷつりと電話は切れた。

「おい、待て、切るなよっ」と深谷は電話口に怒鳴った。

「え、切れたの?」と隣にいるミカは深谷の顔を覗いた。

「ああ、うん、切れちゃったよ。まったく」と深谷は首を横に振って、受話器をフックに戻した。

「なんて、言ってたの?」とミカはドアから離れながら言った。

「ふう、ああ、まあ、俺たちは夢の中にいるみたいなんだってよ」と深谷は頭を掻きながら、電話ボックスから出た。

「え」

「ホント、え、だよな。俺もさっぱりだよ。どうしてこうなっちゃったんだ?」と深谷は座り込んだ。その隣に座りながら、ミカは話した。

「えっと、みんなが居なくなったわけじゃないの? わたしたちだけがここにいるってこと?」

「そうみたいだ」と深谷はポケットをさぐった。タバコの箱を取り出して、上下に振って一本だけ引きだした。それをつまむように引き抜いて、口元にもって行った。その一連の動作を、じっとミカは見ていた。深谷は口にタバコを咥えたまま、考え込むようにしてコンクリートの地面を見つめた。

「俺さ、どうやって監獄から出たのかっていう記憶がないんだ」とタバコを口元から離して、深谷は言った。「起きたらさ、芝生の上で寝てたわけ。でさ、監獄を見たらさ、穴も何もなかったんだ。まったくの無傷。俺の覚えてる限りじゃ、大穴があいてたんだけど、それすらなかった。わけわかんなかったね。だから、俺は走って走って、コンビニまで行ってた。よくタバコを買ってたからね、覚えてたんだコンビニの場所は。それで着いたら誰もいなくてさ、どうなっちゃってんだって思ってたら、アンタが来たんだ。アンタを見たとき、すげえ嬉しかったよ」

「わたし、ちょっと怖かったけど」とミカは呟くように言った。「けど、昨日の記憶があいまいなのは、わたしも同じ。昨日の夜何してたのかうまく思い出せないの」

「じゃあさ、俺たちはたぶんホントに夢の中にいるようなもんなのかな、アイツの言う通りにさ」

「わかんないけど、そうかも」と言ってから、ミカは素早く顔をあげて、周囲を見回した。

「どうしたの?」

「『歪み』が一つになった」とミカは立ち上がりながら言った。深谷はため息をついて首を横に振った。

「こっちに来てるの?」

「わかんないけど、たぶん来るよ」とミカはか細い声で言う。

「そうか。なあ、ポケットにクスリが入ってるんだろ?」と深谷はミカを見て言った。

「え」とミカは身を硬直させた。

「クスリ。二本とか言ってたから、注射器みたいなもんだろ。出してくれないか」と深谷はミカの方に手を伸ばした。ミカは深谷をただ見つめているだけであった。

「あれ? 持ってないの?」

「え、えっと、持ってるけど。なんで、知ってるの?」

「アイツから聞いたんだ。それを二本いっきに使えば戦えるんだってさ」と深谷は笑った。

「で、でも、副作用があるんだよ。一本だけでも、危ないのに、二本もやったら」

「でもさ、芦田さん、持ってきたんだろ。俺に使わせるためにさ」

「え」

「だって、じゃなきゃ持ってくる意味ないじゃん。芦田さん、戦闘できるような能力じゃないんでしょ。自分に使わないならさ、俺に使わせるしかないじゃん」

 ミカは口を開けて、深谷の顔をまじまじと見た。深谷は相変わらず笑っていた。

「けど、良い判断だと思うよ。そうじゃなきゃ、二人とも死んじゃうからね」

「え、えっと、わたしは、その」とミカは言葉を探した。だが、彼女の口からそれが出てくることはなかった。

「さ、出してよ」と深谷はミカの前に手を差し出した。ミカは震える手で、ポケットから銀色のアルミケースを出した。深谷はそれを受け取る。ふたを開けて、中身を確認した。二本の注射器が入っていた。それは透明な液体で満たされていた。深谷はそのうちの一本を手に取り、針の先を眺めた。

「静脈に入れればいいのかな」と深谷はミカに聞いた。

「たぶん」とミカは小さくうなずいた。

「まず、一本だ」と深谷は自分の左腕を見た。それから浮き出る血管に素早く針を刺した。少しずつプランジャを押していく。最後まで押し切って針を慎重に抜いたとき、深谷の体は小刻みに震えていた。

「な、なんか、来るねこれ。意識がさ、遠のきそうで、はっきりしてくる。ああ、ヤバいなこれ。心臓がバクバクいってるよ」

 ミカは目を見開いてから口を堅く結んで、深谷の前に置いてあるケースを手に取った。

「間違ってた。こんなのに頼るんじゃなかったよ。ね、もう、やめようよ。わたしと一緒に逃げよう? わたしも頑張るからさ。ね、一本だけでそんなになるなら、二本も打てないよ。わたしが間違ってた。こんなので勝てるわけがないし、深谷くんがどうかしちゃうよ」

 深谷はその言葉を聞いて、軽く笑った。それから、震える手のひらから青白い火の玉を出した。

「もっと大きなのも、出せそうだぜ。おれの体はまだまだ、大丈夫だ」と体を震わせながら深谷は、笑う。

「でも、でも、でも、次はだめかもしれないよ。さなえだってそうだったんだ。さなえだって、そうやって死んじゃったんだ」とミカは声を震わせながら言った。その頬に涙がつたった。

 深谷は火の玉を消した。それから立ち上がって、ミカの手からケースを奪った。ミカは睨むようにして深谷を見た。

「わたしが間違ってた。そんなの、捨てちゃったほうがいい」とミカはケースを取り返そうと深谷に近づいた。深谷は出入り口の方を見た。ミカはただまっすぐに深谷の持つケースを獲ろうとした。

「芦田さん、来たぜ」

「え」とミカはケースをつかんでから、深谷の顔を見上げた。深谷の視線の先には、一人の青年が立っていた。彼はゆっくりとした足取りで、二人に近づいていた。ミカはそれに気が付き、深谷の腕に抱き着いた。

「お、芦田さんって胸大きいね」と深谷はにやけた。

「え」とミカが深谷を見たときには、青年は二人の前に立っていた。

「ママから離れろ。お前はいらないんだ」と彼は言った。はっきりとした口調だった。

「ママだって? こんなウブそうな女の子が? アンタ、どうかしてるね」と深谷はミカを背後に回しながら言った。

「邪魔するなら、消す」とその青年は深谷を睨んだ。

「ああ? やってみろよ」と深谷は笑った。

 茶色の髪をした青年は手を深谷に向けた。

「まってっ」とミカは叫んで、深谷と青年のあいだに立った。

「ママ、どうしたの? そいつは消すから安心していいんだよ」と青年は笑った。

「この人はいいの。わたしだけを連れて行ってよ。それでいいでしょ? ね?」とミカは懇願するように言った。

「ママ、この世界にはママと二人っきりでいたいんだ。ね、だから、さっきのやつも消したし、やっぱりそいつも消すんだよ。悲しいかもしれないけど、ママにとってもいいことだと思うんだ」と彼は笑顔で言った。

「でも、」とミカは言った。そのとき、床に何かが転がる音がした。注射器だった。

「そういうことだよ、芦田さん。俺たちは決定的に理解不可能だ。戦うしかないのさ」と深谷はミカの手をつかんで、自身の背後に投げた。ミカは地面に倒れこんだ。深谷は、体を一度だけ大きく震わせた。

「おい、俺はいま負ける気がしねえ。自分で消えるなら今のうちだぜ」

「ママ、待っててね、いま助けるから」

「まって、深谷くん」とミカは身を起こして、深谷の背中に言った。深谷は振り返らずに答えた。

「なあ、芦田さん。せめて夢の中ではさ、ヒーローでいさせてくれよ」

 それから閃光がミカの視界を覆った。

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