第15話

 女子寮内は空調が効いていた。まだ電気供給は途絶えていないようだった。芦田ミカは、額の汗を袖で拭いながらロビーを歩いていた。人は誰もいなかった。ミカは右手を小刻みに震わせながら、階段室に入った。一段、二段と階段を上って行くうちに、右手の震えは全身へと伝播していった。二階に上がった時には、ミカは凍えるようにして自分の身を固く抱きしめていた。壁に持たれかかり、目を閉じて浅い呼吸を繰り返していく。ずり落ちるようにして、床に倒れこんだ。全身を震わせたまま、肩で息をしている。その振幅は次第に大きくなり、壁に身をぶつけるほどにもなった。それから、体を大きく仰け反らせた。その体勢で硬直したのち、ゆっくりと身を丸め始めた。もう震えることはなかった。

 足音が階段室に響いた。誰かが気絶しているミカの足元に立った。


 その頃、深谷はコンビニで成人雑誌を物色していた。彼は服屋で盗ってきたアロハシャツを羽織っていた。ズボンは相変わらず白の短パンだった。顎を撫でながら、彼は一冊の雑誌に手を伸ばした。すると、自動ドアが開いた。深谷は思わずその手を引っ込めた。

 いぶかしげに彼は入り口を見た。そこには一人の少女が立っていた。十歳前後の少女だった。白のワンピースで身を包んでいた。彼女はじっと深谷を見つめている。深谷はその視線に身を固まらせた。少女は首を傾げた。

「ママ?」と彼女は言った。

「ママ? 残念だけどママじゃない。パパにはなれそうだが、ママにはなれないんだ。いや、なれるかもしれないけど、なる気はないんだよね、全然」と深谷は早口にそう言った。

 少女は意を介さなかったように、再度首を傾げた。

「オーケー、分かった。自己紹介から始めよう。俺は深谷ニノ、17歳で、なんだろ、まあ、趣味はタバコ。で、アンタはだれだ?」

「ママ?」と言いながら少女は深谷に近づいた。深谷は二歩ほど後ずさりした。

「だからママじゃない。俺は童貞だし、アッチも開発してねえ」と深谷は目の前に立つ少女を見つめながら、言った。

「ママ、じゃない?」と少女は手を伸ばして、人差し指を深谷の腹のあたりに狙いつけた。

「あぁ? オーケー、オーケー、ママを探してるのか? なんで迷子がこんなところに居やがるんだ?」

「ママじゃないなら、」

「まてまてまて、ママっぽいやつなら一人いるぞ」と深谷は額に汗をにじませて言った。

「ママ、がいる?」

「そうだ。一人いる。俺が連れて行ってやる」と深谷はその少女の手をつかんだ。

「ママがいる」と少女は言った。深谷の手から逃れようとはしなかった。

「ああ、そうだ。そいつに会いに行こう。たぶん会えるからな。いや、絶対会える、うん」と背中を汗で濡らしながら深谷は少女と共にコンビニを出た。


 芦田ミカはベッドの上で目を覚ました。起き上がって、周囲を見た。友瀬レイナの部屋だった。窓もなにもかもが元通りになっていた。ミカは動きを止めて、呟いた。

「どういうこと?」

 テレビの点いた音がした。ミカは体をビクつかせてから、光る画面を見た。そこには真っ白な画面があった。画面にノイズがときおり走った。ミカは耳を澄ました。微かな音がテレビから出てきていたのだ。

「出て、出て、出て」とテレビは途切れ途切れに言っていた。

「なに、なに、なんなの?」とミカは叫んで、耳をふさいで目を硬く瞑った。うずくまり、体を震わせた。

「ちゅーしゃ、ちゅーしゃ、ちゅーしゃ」とテレビは言い始めた。ミカはますます身を縮こませて、ベッドの中へと深く深く沈みこもうとしていった。

「やだ、やだ、いやだ。なにも聞こえない。なにもおぼえてないの。昨日のことも思い出せないの。わたしに何も聞かないで。わたしは何も知らないのっ」とミカは叫んだ。


「どこだっけなあ、女子寮」と深谷は呟きながら、少女の手を牽いていた。少女は抵抗することもなく深谷について行った。彼らは白い道を右往左往していた。

「人っ子一人見当たらんね、なんで迷子がいるのか謎だが、まあ、しかたねえ。ええと、次は右に行けばいいのか。ううーん、一か月も外出てねえと土地勘が狂うな。いろいろ、変わっていやがる」

 深谷は十二分に迷った。校舎にも行った。境界を形成している壁も見た。傷一つついてなかった。彼はついでに警備室も見た。人は居なかった。空調は効いているようだった。だが、中に入ることはできなかった。鍵がかかっていた。

「妙な話だね、誰もいないってのに鍵がかかってるなんてさ。まあ、いいか。俺の知ったことじゃない」

「ママは?」と少女が唐突に言葉を出した。

「ママか。悩ましいね、ホント。俺も見つけたいのはやまやまこんもりなんだけどさ、場所がわかんねえのなんのって」

「いない、ママ、いない?」と少女は空いてる手で深谷を指さした。

「いる、いる、いるって。おいおいおいおい、いいか、そう人を指さすんじゃねえ。てめえがどんなチカラ持ってるか知らねえけど、俺はそういう風にされるといつでも銃口を突き付けられてる気分になるんだよ。とにかく、指を下ろせ、な、頼むからさ?」

「ママ、いない?」と少女はじっと深谷の瞳を覗きこんだ。

「いる。いいか、俺を殺せば、ママには会えない。つ、つまりママが居なくなる。これは絶対だ。だから、指を下ろせ」

「ママ、いなくなる?」と少女はこてんと顔を傾けた。

「そうだ、いなくなっちまう。そう、そうだよ、ああ、指を下ろしてくれてありがとう。オーケー、オーケー、俺も全力を尽くす。はあ、とにかく歩こう。たぶん寮は向こうの方だからさ」

 二人は歩き出した。彼らの行く石畳はミカのいる女子寮へと続いていた。


 テレビを壊した芦田ミカは、ベッドに座っていた。ケーブルを引き抜き、床にたたきつけたのだった。彼女は頭を抱えて、独り言を呟いていた。

「そう。レイナはどうなったの。ここはレイナの部屋。けど、まったくキレイ。何事もなかったみたい。レイナの荷物はある。机の上には注射器だってある。二本もある。この部屋は前のまま。それじゃあ、レイナはどうしたの? 能力を暴走させなかったの? おかしいよ。わたしは怪我したもん。それは覚えてる。それに、みんなはどこに行ったの? だれもいないのに、だれがわたしをここまで運んだの? わたしはなんで何もわからないの? 肝心なことをなにも思い出せないの?」

 ミカは口を閉ざした。彼女の周りにあるのは、ただ沈黙だけであった。


 深谷は女子寮の前に立っていた。ミカがいる女子寮だった。その周囲にはうっそうと木々が植わっている。だが、虫の鳴き声は一切しなかった。深谷の耳には照りつける日差しの音しか聞こえていなかった。

「たぶん、ここだな。ああ、ここだよ。だって、俺の勘が喚いてるもん。とにかく、入るか。暑いし、汗だらだらだし」と彼はガラス戸を片手で押し開けて中に入った。

「ママ、いる」とロビーに入った途端に、少女は呟いた。

「マジか、マジなのか。なんでわかるのに探してたんだ、おまえ」と深谷は不思議そうに言った。

「ママ」と少女は深谷の手を握ったまま、歩き出した。

「おいおい、待てって、そんな強く引っ張んなよ、マジで」


 ミカは顔を上げた。部屋のドアが開かれる音を聞いたのだ。ささやかな足音が居間へと近づいてきていた。ドアが開いた。そこには一人の青年が立っていた。

「ママ、倒れてた。ママ、水、もって、きた。のむ?」とその青年は片手に持つペットボトルを見せつけながら、ミカに近づいた。ミカは身を強張らせて、その男を凝視した。彼はミカの前に立って、ペットボトルを差し出した。

「ママ、水、だよ」

「いやっ、やめて。近づかないでっ」とミカは叫ぶように言った。

「ママ、水、飲まないと、だめ」と男はぐいっとペットボトルをミカの顔に押し付けようとした。

「ママ」と少女の声がした。それから、ミカの前から男が消えた。


 深谷はその部屋の入り口で呆然と立っていた。少女が、ドアを破壊し一直線に中へと駆けて行ったからであった。そのあと、轟音が深谷の耳に入ってきた。強風が深谷を押した。深谷は舌打ちをしてから、部屋の中に入った。

 居間にたどり着くと、窓のあたりに大きな穴が開いていた。深谷は口を開けて、その穴を見つめた。すると、袖を引っ張られた。

「深谷、さん! 逃げよう!」とミカが叫ぶようにして言った。

「ああ、ええ、うん、逃げるか」と深谷は曖昧に肯いてから、ミカに連れてかれるようにして駆け出した。二人の背後では何かがはじけるような音が、断続的に響いていた。

 深谷とミカは振り返ることなく走った。非常階段を下りて、地上にたどり着いても彼らは止まることなく駆け続けていた。いつしか、音は消えていた。二人は商業地区にたどり着いていた。コンビニの前でミカは立ちどまり、膝に手をついて、肩で息をした。

「ごめん、ね、体力なくて」とミカは息切れしながら言った。

「いや、俺も、もう、限界だ」と深谷は芝生の上に倒れこんだ。

 二人はしばらくの間、息することだけに専念した。深谷が一つ深呼吸してからぼやくように言った。

「はあ、もうタバコやめようかな、苦しいぜ、ホント」

「そうだね」とミカは笑って、深谷の隣に座った。

「アイツ、追ってこないな」

「うん、まだ戦ってる」とミカは言った。

「へえ、分かるんだ」

「うん、わたしのチカラなの」

「はあ、ふう、うん、まあ、いいけどさ。アイツってなんなんだったんだ?」

「『歪み』、だよ」とミカは深谷を見た。

「はあ?」と深谷は言った。

 夏の日が二人を焼いていた。

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