第14話

 その夜、彼はいつものように白い部屋の、白いベッドの上に横たわっていた。白い天井を見上げる彼の口元には、火のついていないタバコがある。それは時折、上下に揺れた。彼は物憂げにタバコを口からはずし、体を起こして、壁にはめ込まれているテレビをつけた。気もそぞろにチャンネルをいじくりまわしてから、ため息をついて、テレビを消した。左足を小刻みに揺らしながら、萎れたタバコを咥えて、自身の右手首にある腕時計を見つめた。もしも彼がタバコに火をつけようとするならば、それは麻酔針を彼の静脈に打ち込んだだろう。彼はそのことを何度も身を持って実証してきた。彼は大きく鼻息を鳴らした。

 彼が初めて腕時計に眠らされたのは、学園内でタバコを吸おうとした時だった。いつものようにライターで火をつけていればそうなることはなかったであろう。その時、彼は自身の歪曲能力を用いた。親指から青い炎を出して、気分よくタバコを吸おうとしたのだった。火がタバコの先端に着いた途端、彼は気絶した。それ以来、彼はタバコを吸っていない。気が付いたときには、彼は白い部屋の中にいた。

 その部屋にはライターはなかった。あるのはテレビとベッドと洋式便器と洗面台、それから浴室だけだった。ドアはなかった。窓すらなかった。すべては真っ白い壁に囲まれていた。そこは監獄だった。

 そこでの初めの三日間、彼は食事をとることすらできなかった。食事は定刻になれば、床の上に現れた。彼はその食事に手をつけることは出来なかった。食事は決まった時間がたつと、自然に消えた。彼はそれをベッドの上で眺めていた。

 彼は四日目の朝に、おそるおそる食事を食べた。半分ほど残したが、十分だった。洗面台の蛇口から、口をつけて水を飲んだ。顔を水で洗い、備え付けのタオルでぬぐった。彼はベッドに戻り、ぼんやりとした面持ちで、独り言を言った。

「タバコが吸いてえ」

 その翌日には、タバコが一箱だけ部屋に置かれていた。彼が好んで吸っていた銘柄の箱だった。彼はその箱を凝視したのちに、手に取って封を開けた。それから一本だけ取り出し、口に咥えた。自身の右手首を一瞥してから、左手の親指を立て能力を使おうとした。

 こうして彼は気絶した。

 彼はいくども気を失った。おかげで、眠れないときはタバコを吸おうとすることを覚えた。彼はそうやって監獄での日々に慣れていった。

 そんな彼は、またタバコに火をつけようかと迷っている。口に咥えたタバコは上下運動を繰り返していた。まるで空気摩擦で火がつかないかと期待しているかのように。

 彼が左手の親指を立てたり引っ込めたりしていると、部屋の電気が唐突に消えた。彼は全身の動きを止めて、つばを飲み込んだ。彼がそろそろと暗闇の中を立ち上がると、建物が大きく揺さぶられた。彼は思わずベッドに倒れこみ、布団を頭からかぶって、目を硬く閉じた。大きな揺れが断続的に続いた。どこかで轟音が鳴り響いていた。

 揺れが収まったころ、部屋の明かりが復旧した。彼は布団から出てきて、周囲を見た。相変わらずその口元にはタバコが挟まっている。だがその事実を忘れたのか、彼はぽかんと口を開けて、タバコを床に落とした。彼は一点だけを見つめていた。そこには巨大な穴ができていた。

 壁に空いた穴の向こうには、夜の森が広がっていた。木々のむせ返るような香りが彼の鼻を打った。彼はその穴の前で立ち尽くした。下を覗くと、自分がかなり高い所にいることが分かった。彼はため息をついて、その穴の前であぐらをかいた。ポリポリと頭を掻いて、夜空に浮かぶ月を眺めた。

 そのまま彼はポケットをまさぐり、タバコを出した。それを口に挟み、思案するように無精ひげを撫でた。彼の右手首には腕時計がなかった。顎を撫で終えた後、彼はその事実に気が付いた。青白い手首を凝視して、体を一つ大きく震わせた。

 彼は左手の親指をゆっくりと立てた。その爪先に小さな青い炎が灯った。それでも彼は気を失わなかった。彼はその震える炎を少しずつタバコの先端に近づけた。煙が薄く上がった。彼は親指を引っ込めて、息を大きく吸い込んだ。

 それから、幾筋もの紫煙が夜の森の中へと消えていった。


 その朝、芦田ミカがベッドから起きだして顔を洗った時までは、何かが起こっているような気配はなかった。彼女は普段通りに食堂へ向かった。その道中、人を見かけなかった。

 食堂に入ると、静寂がミカを迎えた。ミカは目を大きく見開いてから、首を傾げた。

「今日から夏休みだったっけ」

 ミカはそんな呟きを虚空に残してから、食堂を出た。廊下を抜けて、ロビーに向かった。相変わらず、人を見かけなかった。ガラス戸押し開けて、石畳の道を歩き始めた。商業地区へと向かうためだった。そこにある店はたいてい年中無休なのだ。ミカは食堂が休みの日には、コンビニで食事を買っていた。

 彼女がコンビニに入った時、店員は居なかった。しばらく待っても、店員は出てこなかった。彼女は首を傾げながら店を出た。彼女は周囲を見渡す。いつものような軽い賑わいが全くなかった。ミカは身を強張らせてから、次々と商業施設を見回った。

 人は誰もいなかった。

 ミカは広い石畳の上に立ち尽くした。

 そんなミカのところに、一人の男が近づいて来ていた。彼は真っ白の半袖に、真っ白の短パンをはいていた。

「おはよう」と彼はミカの背後から声をかけた。

 ミカは体を大きく引きつらせてから、そっと振り向いて男を確認した。

「えっと、あなた、だれ?」

「俺か。俺は深谷。きみは?」

「え。わたし、芦田」

「へえ、芦田さんね。うん。それでさ、ねえ、俺さ久しぶりに外に出たばっかなんだ。ちょっとシクっちゃってさ、昨日まで監獄に入ってたんだけど。でさ、今日頑張って降りてきたら、全然人がいないの。これって、どういうこと?」

「え、わたしもわかんない」とミカは目を潤ませて、うつむいた。

「いやさ、けどね俺なんとなくわかっちゃってんだけど。俺たち、出遅れちゃったんじゃないかなってさ。そうじゃないかな?」

「え、どういうこと?」とミカは深谷を見た。深谷は軽薄な笑みをまといながら言った。

「えっと、気づいてないわけ? 腕時計」

「え、腕時計?」とミカは自分の右手首を見た。そこには何もついてなかった。ミカはじっとその部分を見つめた。

「へえ、気づいてなかったのか。まともに適応してればそうなのかもな。まあ、いいや。で、そいつが消えったってことは脱走できるってことだろ。俺たち以外のやつらは、能力を使ってここから出て行ったんだ。そうじゃないかな?」

 ミカは無言で、虚空を見つめていた。深谷はそんなミカの目の前で手を広げて、振ったりした。

「おーい。どこいっちゃってんの? 現実はこっち。目の前にいる俺が現実。まともな現実としてはちょっと残念だと思うけどさ。ええ? ああ? どうしちゃったんだ、アンタ。なんか変だぜ。顔がやけに青白いし。おいおい、ちょっと待てって、こんなところで倒れんなよ」と深谷は叫んで、崩れ落ちそうになったミカの体を抱きとめた。


 ミカが目覚めたとき、彼女はレストランのソファに横たわっていた。額には冷えたタオルが乗っかっていた。彼女はそれを手に取って、身を起こした。

「おーい、あんま無理すんなよ。もう少し休んどきなって」と近くから声がした。ミカがその音源を見ると、深谷がカウンター席に座ってサラダを頬張っていた。「アンタも食うか? そこのサラダバーから取ったんだ」

「え、いらない」とミカは首を振った。「ここまで運んでくれたの?」

「まあね。アンタ、軽い体してんな。もうすこし肉とか喰ったほうがいいぜ」

「ねえ、どうしてそんなに気楽なの? もしかしたら外では全部が終わってるかもしれないのに」とミカは声を震わせた。

「全部? さっぱりだね。俺はさ、けっこう長い間あそこに閉じ込められてたわけ。なぜか知らないけどさ。だってただタバコ吸おうしただけだぜ。それだけでさ、一か月近くもあんな監獄に閉じ込められるとか、どうかしてないか。うん。まあ、いいさ。閉じ込められてたおかげで今どうなってるかまったくわかんないわけよ。テレビはよく見てたんだけどね。こっちの情報は、ほら流れないだろ、表には。で、全部ってどういうこと? 俺たちが家に帰るだけでどうして何かが終わっちまうんだ?」

「家に、帰る? みんな、家に帰ったの?」

「だって、そうじゃないか? こんなとこに閉じ込められてたんだからさ。待ってる家族だっているはずだろ。俺にもいるし。俺の友だちにもいたさ。帰る場所ってのは少なくともどこかしらにあるはずだ。けど、多くのやつにとって、ここはそうじゃない。だから、みんな出て行った。そうだろ?」

「わたしには、外に帰る場所なんてないの」とミカは俯いた。

「……、どういうこと?」と深谷はまじまじとミカを見た。

「わたし、ここで生まれたから」

 深谷は顎を撫でて、ぼんやりとミカを眺めた。

「まあさ、そうだとしてもさ、それは芦田さんに限った話だろ。悪いけどさ。それじゃまったくわかんないぜ。外の全部がそれでどうして終わるんだって話がさ」

「だって、みんなが歪曲使ったら、ヘンなことにならない?」

「使ったら、位置が政府にばれるだろ。だから、使わないさ。静かに暮らす。それだけが脱走者のやるべきことなんだよ」と深谷はしたり顔で言った。

「じゃあ、『歪み』は?」

「政府の連中が何とかするんじゃないか? べつに俺たちがデバンなくてもいいでしょ。俺たちは結局プロじゃないしさ」と深谷はコーヒーをすすった。

「そうかな」とミカは俯いた。

「まあ、なんにせよ、ここからはやく出たほうがいいのは事実だな。ちょっと静かすぎる」

「え?」とミカは深谷を見た。

「監獄が壊れたのが昨日の夜だ。で、政府の連中ものろまじゃないはずだろ。いつここに来たってもおかしくはないんだが。見ての通り、誰もいない。……、もしかしてアンタ、政府の人間?」と深谷はか細い声で尋ねた。

「え、ちがうよ。ただの生徒。でも、そうだね、本部の人が来てもおかしくないのに」

「まあ、逃げてる奴らを追うのが忙しいのかもしれないな。そもそもだよ、どうしてこんなことになったのかは、まったくわかんないね。まあ、べつにわかったところでどうしようもないけど」と深谷は立ち上がりドリンクバーに行った。

 ミカは俯いて、自分の右手首を握った。店内は空調が効いていた。ミカはソファから立ち上がって、出入り口のガラス戸の前に立った。通りには人は居なかった。ただ日射しが白い石畳を焼いていた。

「なあ、これからどうする、アンタは?」と深谷はミカの背中に話しかけた。

「わかんない。部屋に戻るかも。みんな、帰ってくるかもしれないし」とミカは振り返らずに言った。

「ふうん、まっ、それも選択肢の一つだな。捕まったらどうせここに戻ってくることになるし。政府のやつらに捕まらないってのも難しい話だしな」と深谷は言ってポケットからタバコを取り出して、レジに置いてあったマッチを使って火をつけた。ソファに座り込み、深谷は深々とタバコを吸った。

「ねえ、アナタって二十歳なの?」とミカは深谷を見て言った。

「いいや、十七だよ。おととしの暮れぐらいになんとなく始めたら、やめられなくなっちまったんだ。業が深いね、タバコってやつは」

「吸わない方がいいんじゃない? 健康に悪いって」とミカは眉を寄せながら言った。

「そうかね。俺にとっては我慢する方が、健康に悪いよ」と言って深谷は近くにあった灰皿でタバコをもみ消した。

「アナタは、出て行くの?」とミカは聞いた。

「うん? まあね、出て行きたいが、足がないんだよ。アンタのは移動系のやつ?」

「ちがうよ」

「だろうね。じゃなきゃ、残ってるわけないよな。俺もさ、しょぼい能力なんだ。親指の先から、火を起こせる、それだけ。クソみたいな能力だよ。こんなチンケなチカラでさ、こんなところに閉じ込められるってどういうことなんだよな。どうかしてるよ」と深谷はため息をついた。「歩いてここ抜けるのは、ほぼ無理だろうな。というか、したくねえよ。はあ、どうっすかな」

「わたしは寮に戻るよ。よくわかんないし、疲れた」とミカはガラス戸を押し開け、外に出て行った。

 深谷は黙ってその背中を見送った。それから、ポケットをあさりながら彼は呟いた。

「妙な女だな」

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