第10話
二人の若い男たちが、コンクリート壁に背をつけて夏の空を見上げていた。その足元には緑豊かな芝生が広がっている。貧乏ゆすりをしながら、一人の男が右手首に巻いてある腕時計を見た。
「アチぃな、くそっ」と彼は苛立たしげに言った。「まだかよ」
「そろそろだろ」と隣にいる男はそっけなく答えた。
「この待機時間がいちばんむかつくんだよな。さっさと送れっていつも思うぜ」
「いろいろあんだろ」
二人の間に沈黙が下りる。一人はその巨躯を持て余すように小刻みに動かしている。もう一人は泰然と空を見上げている。体格の良い茶髪の男は地面に唾を吐き、吐き捨てるように言った。
「くそっ。なんかイライラすんな」
「ヤクのやりすぎだ」と雲を眺めている男は言った。
「あれはヤクじゃねえよ。ただのタバコさ。お前も吸ってみればいい」
「葉っぱには興味ないんだよ。無駄な安心感にもな」
「はっ、かっこいいねえ。いつだってお前はそうさ。まわりがラリっててもお前は素面なんだ。つまんねえよ」と彼は茶髪を掻きあげながら、隣にいる男を睨んだ。
「そう咬みつくなよ」と睨まれた男は相変わらず空を見上げながら言った。
「その言いぐさ、笹倉さんの真似か? はっ、幹部候補のやつらはどいつもこいつも笹倉さんだもんな。あの人は真面目過ぎんだよ。俺には合わねえ」と男は苦々しそうに言った。
「まあ、お前に合う奴はこの場所にはそうそういないだろうな」と笹倉を真似た男は笑った。
「そうさ。ここのやつらのほとんどは腐ってる。自分がなんだってことも知ろうともしないで、のうのうと生きていやがるんだ。だから、ヤクが流行んのさ。自分を忘れたいんだよ。くだらない奴らだ」
「お前だってやってるじゃないか」
「俺は違う。注射はやってねえ。タバコを吸ってるだけだよ」と大男はおだやかに言った。
「どれも同じもんだろ」
「はっ、だからお前は硬いんだよ」
「どうでもいいさ」と短髪の男が笑うと、彼らの腕時計から電子音が鳴りだした。
「時間か」と大きな背中を丸めて茶髪の男はため息をついた。
壁にもたれかかる二人の姿が消えた。
同時刻に一人の少女が、その生白い前腕に注射針を刺そうとしていた。額に汗をにじませ、手を震わせながらも、少女は自身の細い静脈に針を刺した。親指でプランジャを押していく。透明な液体が彼女の血流に混じっていく。少女は注意深く針を抜いて、散らかった机の上に放り投げた。体を小刻みに揺らしながら、ベッドに背をつける。その眼はゴミが散乱している部屋を見ているわけではなかった。夢の中で続く、幸せな世界を見ていた。
少女の部屋にノック音が響いた。少女はそれを夢の中で聞いていた。
「レイナ、開けてよ。私だよ、ミカだよ」と甲高い声がドアの向こうからする。ドアに鍵はかかっていない。ミカと名乗る女は、ドアを開けた。
ミカは部屋に入った途端、すえた臭いを嗅いだ。少し顔をしかめる。それからため息をついた。部屋には食べっぱなしにしたカップ麺、弁当、皮がむかれたバナナ、脱ぎっ放しの衣服、その他もろもろが散らばっている。ミカは台所に行き、ゴミ袋を取り出して手際よく掃除をしだした。衣類をまとめて洗濯機に放り込み、洗剤を入れて稼働させる。居間のエアコンを消し、窓を開けた。ドアも開けて、大気の通りをよくする。夏の風が暑さを残して、淀んだ空気を流していった。
少女はその間、ぼんやりとミカの動きを追っていた。ミカは注射器を見つける。忌々しそうに首を横に振って、レイナを睨んだ。
「ねえ」とミカは怒鳴る「もうやめるって約束したじゃん。アキラが悲しむよ」
レイナは潤んだ瞳をミカに向けた。ミカはため息をついた。
「レイナ、つらいのは分かるけどさ。さなえはこんなこと望んでないよ」とミカは呟くように言って、床に転がっていたキャップを注射針にしてからポケットにそれをしまった。
「楠本から、買ったの?」とミカは屈んでレイナの瞳を見つめた。レイナは幼い子供のようにして、興味深げにミカの表情を見返した。ミカは大きくため息をついた。それから、首を横に振って部屋の掃除を再開した。
二人の若い男たちは廃工場にいた。もとはネジなどを加工していた工場だった。ひび割れたリノリウムの床の上に人の形をした黒い影が横たわっていた。その影からは、幾筋もの黒く細い流れが床に漏れ出している。影はその全身を痙攣させていた。その両脇に二人の男が影を見下ろして、立っている。
「簡単なもんだ」と大柄な男が言った。
「そうでもない。人型は二人でも困難なときが多い」と短髪の男は呟いた。
「最近、人型が多くねえか。無形状が少なくなってる気がするぜ」
「俺たちに入る任務がそうなだけだ。無形状は、もっと弱いやつらが狩ってる」
「はっ、お前ら幹部候補はいつでもそうだ」と茶髪の男は、顔をあげて向かいの男を睨んだ。
「何が言いたい?」と短髪の男は、無表情にその睨みを見つめた。
「上の言うことにはなにも気にしないってことさ。犬っころみてえに、しっぽ振って従ってるだけなんだ。俺は、人型が多いってことを気にしてるのさ。その意味が分からんわけでもないだろ?」
「さあね、俺には分からないよ」
「福田、お前は自分を知ろうとしてねえのさ。いや、知るのが怖いんだろう。そもそも俺たちがどうしてこんな妙な力を使えんのか。どうだ、おめえ、考えたことがないんだろ」
「ないね。考える必要もないんだ。さあ、もういいだろ。とどめを刺してくれ、楠本。俺の能力じゃ、スマートにできないんでね」
「はっ、くそったれ」と楠本は影の頭部を踏みつぶした。爆音が響く。リノリウムの床に穴ができた。影は頭を失って、震えることをやめた。残った体は徐々に溶け出すようにして、リノリウムの床に浸み込んでいく。二人は黙ってその様子を眺めている。
「任務を開始する」と福田アキラは呟いた。
レイナはベッドの上で目を覚ました。顔をしかめながら、起き上がり周囲を見た。人の気配はなく、整然とした部屋が広がっているだけだった。少女は目を瞑って頭を抱えて、ベッドに身を横たえた。胎児のように丸くなり、渇ききった唇を舐めた。
「さなえ、どこに行っちゃったの。ミカ、教えてよ」と少女は呟いた。
その時、ミカは寮の屋上でレイナの洗濯物を干していた。一枚一枚丁寧に広げて、しわを伸ばし、ハンガーにかけていく。屋上には彼女のほか居なく、また干してある衣服もなかった。夏の日射しの下、ミカは黙々と洗濯かごの中身を減らしていく。
屋上のドアが開いた。一人の男が入ってきた。半袖に半ズボン、日に焼けた身体は全体的に引き締まっている。彼は迷うことなく、ミカの下へと向かった。
「レイナがまたやったようだな」とその男はじっとミカを見た。
「レイナだってつらいんだ。……さなえが死んじゃったから」とミカはその男を見ずに答える。
「前島が死んだのはもう一か月も前のことだ。そして、つらいからと言って、クスリを使ってもいいわけではない」
「うるさいっ」とミカはその男を見上げて怒鳴った。男は泰然とその怒鳴り声を受けた。
「今度も、入手先は楠本からだったのか?」と男はミカを見下ろしていった。
「わかんないよ、そんなこと。レイナは何も言わない」
「だが、もう裏は取れてるんだ。いま、福田アキラが処理を行ってる」
「アキラが?」とミカは首を傾げた。
「膿は早期に絞り出さなければならない。我々が見ているだけなのはありえないことだ」
「でも、」とミカは俯いた。
「すべては決まっていたことだ。これからも、彼女をよろしく頼む」と男はミカを一つ睨み、それからためらうことなく去って行った。
一人取り残されたミカは空を見上げてから目を瞑った。
福田アキラも空を見上げていた。その足元には楠本が倒れていた。工場の屋根はすべて崩れ落ち、床も掘り返されたようになっている。福田は近くの瓦礫に腰掛けて、横たわっている楠本を眺めた。
「何か言うことはあるか。できれば、協力者を教えてほしいんだが」と福田は言った。
「はっ、くそったれ」と楠本は息苦しそうに言った。
「無理するなよ。もうお前の肺は一つ潰れてる。いいか、一応聞いてるんだが、お前は誰からあのクスリを貰っていた?」
「はっ、はあ。笹倉だって言ったらどうする?」と楠本は口元から血を垂らしながら、顔をあげて福田を見た。
「冗談に時間を使うのは勿体ないことだと思わないか」
「お前は、なにも、考えてないんだ。俺は、あのクスリが、はっ、ただの覚せい剤じゃないこと、くらい知ってる。あれには、『歪み』が入ってるんだよ。はっ、どうだ、おめえは、信じることもできねえだろうな」と息を途切れさせながら、楠本は言った。
「へえ、おもしろそうな話じゃないか」と福田は笑った。
「はっ、はあ、ああ、おめえがどう思おうが関係ねえ。お前らは、はあ、上層部のやつらに踊らされてるんだ。あいつらが、何やってるのか知ってるのか。はあ、はっ、歪曲者の量産だよ。俺たちなんかよりも、強力な歪曲能力を使うやつらを、作ってるんだ」
「それがクスリと何の関係があるんだ?」と福田は身を乗り出して聞いた。
「はっ、クスリには『歪み』が入ってる」
「……歪曲は、『歪み』で強化される」と福田は楠本を睨んだ。
「そういうことだよ、福田。前島の死も、それに関係してる」と楠本は口元を笑わせた。
福田は動きを止めて、楠本の目を射抜いた。楠本は口から血を吹き出しながら、笑った。
「はっ、あいつは、『歪み』に飲まれたんだ。クスリの、やり過ぎでね。正統派との戦闘が、そうさせたみたい、だ」
「なんで、それをお前が知ってる」と福田は立ち上がり、楠本を見下ろした。
「はっ、はあ、くくく。なぜだって、自分で、考えてみろよ」
福田は右腕を振り上げた。周囲の瓦礫が宙に浮いて、楠本の上方に集まった。
「話せ。さもなければ、お前の手足を一本ずつ潰していく」
「はっ、簡単な話だ。俺が、前島に、売っていたのさ」と楠本は言った。
「お前が、あいつを」
「いいや、ちがうさ」と楠本は大声で言った。「あいつがそれを望んだんだ。はっ、楽しかったぜ。今までありがとうよ、福田」
楠本は素早く立ち上がり、自身の首を両手で締め上げた。福田は咄嗟に瓦礫を落とした。それと同時に爆音が響いた。立ち込める埃が静まったときに福田が見たものは、楠本の潰れた胴体と、爆発によってちぎり取られた頭部だった。
福田は空を見上げた。それから、右手首にある腕時計を見た。
「任務完了」と福田は呟いた。
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