第9話

 梅雨が来た。僕はその日々を公園で猫と過ごしていた。待ち合わせ場所の屋根のある休憩所に向かうとき、猫にはいつも猫缶を持って行っていた。猫はいつもそれをきれいに平らげた。

「べつに食べなくてもいいんだ。ほんとはね。でも、きみがくれるものなら、いつでもありがたくいただくよ」と猫は言いながら、猫缶を素早く空にするのだった。

 僕らにはとくに話すことがないときもあった。そんなときは黙って、公園の森に小雨が降るのを眺めた。猫の背中に手を置きながら、目前の景色をただ見ることは僕にとって無為なことではなかった。

 そうして、梅雨が去った。そのとき、僕はあと一カ月後に死ぬことになっていた。

 その日も僕は猫との約束通りに、森の中の休憩所に向かった。公園に入って、芝生を横切り、植物園を通り抜けて、木々が密生する小道を歩いていく。ここまでくると人はいない。日差しは木々の覆いで遮断されていて、木々の呼吸が周囲の気温を下げていた。猫はこういうところが好きなのだ。野鳥のさえずりが断続的に聞こえてくる。蚊が哺乳類を探して、ぶらついている。蝉がのどの調子を確かめている。僕は休憩所にたどり着いた。

 休憩所には、木製の大きな机と、それを囲むように背のない椅子が設置されている。僕は歩いてきた小道を眺めるようにして、椅子に座った。猫はまだ来ていなかった。僕は蚊と血を争う戦いをしながら、小道を見ていた。時間がゆっくりと流れていった。

 蚊を三匹ほど潰した後、約束の時間になった。しかし、猫は来なかった。

 僕は腕時計を覗きこんだ。猫が遅刻することなど、これまで一度もなかったのだ。僕は汗をかいた。タオルで額を拭いた。僕はじっと小道を見つめていた。数分後、奥から人影が見えた。その瞬間、野鳥の声も、蝉の羽根音も、なにもかもが消え去った。

 僕はその人物を見た。それは男だった。白いワイシャツに、藍色のジーパンを着ていた。体格がよく、髪は短く刈り込まれていた。右手にはなにか黒い物体を持っていた。その男は着実に僕の方へと近づいていた。僕はじっとその男を睨んだ。

 男は僕の前に立った。それから右手に持っていた黒い物体を僕の足元に投げた。僕はそれを見た。僕が待っていた猫だった。ただし、頭がなかった。首が撥ねられていた。

「それ、ママじゃない」と目の前にいる男が言った。

 僕は呆然とその男を見上げた。男は僕を見ていた。その顔つきには情動を見いだせなかった。その目は明らかになにものをも映してはいなかった。だが、僕のことを吸い込むような瞳だった。

「ママ?」と僕は呟いた。

「ママ。ぼくは、ママを探してる。それ、ママじゃない」

「猫だよ」と僕は呟いた。「僕の友だちだ」

「ねこ? ともだち?」と男は言った。

「君がやったのか?」と僕は男を睨んだ。「もしそうなら、どんな手を使ってでも殺す」

「ぼくがやった? ママじゃないなら、いらない」と男は首を振って、背中を向けた。

 僕は立ち上がって、その背中に飛び蹴りをした。白いワイシャツに足跡が付いた。男は倒れることなく、突っ立っていた。僕は肩で息をしながら、その汚れた背中を睨んだ。

「お前がやったのかって聞いてるんだ」と僕は怒鳴った。男は振り返って僕を見た。

「ママじゃない。お前も、ママじゃない。いらない」と男はその右手を僕に向けた。途端に僕は言い知れぬ圧力を感じた。そのうち僕は呼吸するのもままらなくなった。肋骨が軋んでいく。耳鳴りがする。僕は死を思い出した。そうだ。こんな感覚だった。僕はここで死ぬのだ。猫に申し訳なく思った。僕がやり返せたことなんて、足跡をつけたくらいだ。それでも猫は僕に言うかもしれない。そんなものだよ、それで十分さ、と。

 僕は、死に迫る一瞬のうちにそんなことを考えていたようだ。圧迫感が消えたとき、僕はやわらかい土の上に頬をつけていた。にじむ視界は、男が別の何かに気を取られているのを映していた。

「対象を発見した。三時三十分、任務を遂行する」

 男が宙に浮いた。そのおかげで男が気を取られていた存在を見ることができた。背広を着こんだ青年だった。見た感じは僕と同年代の男だった。彼は僕のことなど眼中になく、ただ猫殺しの男を睨んでいた。

「ま、ま?」と宙に浮かぶ男の方からかすれた声がした。

「まだ、意識があるのか」と背広の男は言った。「もっと深く潰す」

「ママ、お前、ママ?」と男は宙に浮かびながら両腕を広げた。

「バカな!?」と地面にいる男は叫んだ。その直後、彼のいたところには巨大なくぼみができた。

「ママ?」と男は着地してくぼみに近づいた。それから、真横に勢いよく吹き飛ばされた。背広の彼が蹴り飛ばしたのだった。僕の蹴りより十倍以上の威力がありそうだった。彼はそれで満足することなく、男に躍り掛かっていった。鈍い衝撃音が森を断続的に揺らした。地面に寝っころがる僕は、彼らの戦う様子をぼんやりと見ていた。その横に、何かが近寄ってきた。

「我々は逃げたほうが得策だと思うのだが」と猫は僕の耳を舐めた。

 僕は起き上がって、隣にいる猫を見た。ちゃんとした猫だった。僕の友だちの猫だった。僕は言葉を失った。

「説明している時間はないんだ。さあ、行こう」と猫は四足で駆けて、休憩所の奥の草むらの中へと消えた。僕は考えることなく、その後をついて行った。背後ではまだ二人が戦っている音がしていた。

 草むらをかき分けて、くもの巣をいくども潰していくうちに、フェンスにぶち当たった。猫はすでにフェンスの外側にいた。僕は金網フェンスをよじ登って、公園の外に出た。人気のない道だった。僕は膝に手をついて、乱れた呼吸を整えようとした。

「運動不足だね」と猫は笑った。

「まあね、ふう。いや、君はどうしてこんな道を知ってるんだい」と僕は歩き出した猫を追った。

「この日のために、いろいろ調べていたのさ」と猫は振り向いて言った。

「じゃあ、君は今日のことを知ってたのか」

「そうだね。詳しいことは後で話すよ。いまはきみの家に行かせてくれないか?」

「ああ、そうしよう」

 僕らは道をたどり、僕の住むマンションに行った。七階に僕の部屋があった。僕はエントランスを抜けて、猫と共にエレベーターに乗った。猫は静かに表示を見ていた。僕もそれに倣った。七階に到着し、僕らは707号室の前に立った。

「こんなふうになったけど」と僕はそのドアの前で言った。「君を僕の家に招待するよ。大丈夫かな」

「我々はもう、友だちだよ」と猫は言った。

「そうだね」と僕は笑って、鍵を開けた。

 部屋は出て行った時のままだった。僕はぬれたタオルで猫の足を拭いてから、家の中に上がらせた。細かいな、と猫は言った。それから僕はエアコンを稼働させて、ソファに座った。猫はエアコンの真下で丸くなった。

「じゃあ、話を聞かせてくれないか。君は首を切られていた、確実に死んでいた。けど、今はエアコンの下で丸くなってる。これは、どういうことなんだろうか?」と僕は猫に聞いた。

「そうだね。不思議なことだよ。我々は昔のことを話す必要がある。我々がどうしてこういう風になったのか、ひとつ話してみよう。我々は夜の空き地で出会ったんだ」

 猫は話した。あるとき猫は産まれた。家族はいなかった。だが仲間はいた。その仲間たちとあの公園でぼんやりと生きていた。カマキリを追いかけたり、人間の子どもたちから逃げたり、老人から餌をもらったり、そういう風に過ごしていた。

 ある夜、猫は目が冴えていた。月があまりに大きかったせいかもしれない。猫は夜道をふらふらと歩いた。わき道を行き、空き地に入った。その空き地にはたまに猫の餌として魚が置かれることもあった。そのときの猫はその残りの骨でもあればいいと考えていたようだった。だが空き地には餌はなかった。別の何かが浮いていた。猫はその影のようなものをじっと見た。それはうごめきながら形を変えていき、猫と同じような形状を取った。その影は、猫の前に立った。猫は急に怖くなった。一目散に、その場から逃げだした。だが、影の方が早かった。影は猫に喰らいつき、じゃれつくようにしてその首筋を撫でた。猫もそれに応戦し、二匹は転げまわりながら空き地から道路に出た。そのとき、車がやってきた。車は二匹を轢いた。だが止まることなく車は去って行った。猫はほぼ全身を潰された状態で、道路に放置されていた。影は猫にまとわりついた。猫は抵抗できなかった。それから、猫は影が自分の中に入ってきたことを知った。

「そこで、我々は一つになったのさ」と猫は言った。

「君は、その影のおかげで死なないでいるってことなのか?」

「そういうことだね。ついでに、きみと話せているのも、影のおかげさ」

「なるほど。その影ってのは、おそらく」と僕は口を閉ざした。

「そうだ。きみらの言う『歪み』ってやつなんだろう」と猫はうなずいた。

「不思議な話だ」と僕は呟いた。

「本題はこれからなんだ」と猫は言った。

「どういうこと?」

「きみは彼女に会う必要があるって言ったよね?」

「ああ、僕は約束を守らなくてはならない」

「そう。きみは約束を守るべきなんだ。だから、きみにこの影を渡そうと思う」と猫は僕を見た。

「どうして?」

「さっきみたいなことがおきた時、きみが死なないようにするためだ」

「よくわからないな。どうして僕が死なないようになれば、彼女に会えるっていうんだ?」

「この影がそう言ってるのさ。いや、正確にはそういう未来を我々は見ているんだ」

「わけがわからないよ。それにもし君からその影とやらを貰ったらとしたら、君はどうなるんだ?」

「そんなこと、言わなくてもわかるだろ?」と猫はおだやかに言った。

「止してくれよ」と僕は大きな声で言った。「僕は君が死ぬことを望んじゃいないんだ」

「それは知ってるよ」と猫は言った。

「じゃあ、この話はもう止そう。僕は彼女との約束をあきらめる。彼女はもう死んだんだ。おたがいさまさ。約束なんて、もうどうしようもないんだ」

「彼女は死んでないよ」と猫は僕を見た。

「どうして知ってる?」

「影はすべての影とつながってるんだ。影をたどれば彼女の影に会える。影があるってことは、まだ生きてるってことなんだ」

「わけがわからない」と僕は両手で頭を抱えた。

「きみはさっき我々のために命を懸けてくれた」と猫は僕に近寄ってきた。

「当然だろ。それに命を懸けたって程じゃない。ただ考えなしに突っ込んだだけだよ」と僕は猫を見た。猫はその金色に光る瞳で僕を射抜いていた。

「嬉しかったよ、とても」と猫は言った。

「なんで、いまそんなことを言うんだ」

「これからきみは旅に出るんだ。とてもつらい旅になる。どうか、ぼくがその傍にいられないことを許してくれ」と猫はその小さな額を僕の足にくっつけた。僕はその背中を震える手で撫でた。

「許さなくたって、君はそうするんだろ」

「ああ、そういうことだね。でもきっと、きみは許してくれるんだろうと思ってるよ」

「へんな猫だ。ほんとに。僕はきみと一緒にいるだけでいいのに。それだけで十分なのに」

 猫は猫らしく鳴いた。

「そんなふうに鳴かないでくれよ、いつもみたいにしゃべってくれよ」

 猫は瞳を閉じて、僕の足元で丸くなった。もう鳴くことはなかった。猫も、僕も。

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