第8話

 僕は猫と話していた。

「僕は正しくないよ。ぜんぜん間違ってる」と僕は首を振った。

「正しくないと、分かってるだけで十分だよ。我々はどう考えても自信過剰なんだ。その謙虚さが正しいのさ」と黒猫は前足で耳を掻いた。

「よくわかんないね。君は不思議なことを言ってる。しかも、猫なのにしゃべってる。僕にはまったくわからない」

「しゃべる猫もいるのさ。しゃべらない猫がいるようにね」と猫はあくびをした。

「そうかもしれない。僕にはわからないよ。ぜんぜんね」と僕はため息をついた。

「わからなくても、気にすることじゃないよ。我々は知らないでいることを恐れすぎてる。いつまでたっても知らないことの方が圧倒的に多いのにもかかわらずね」

「なるほど」と僕は猫の背中を撫でた。

「きみのその撫で方、けっこう好きだよ。あんしんする」と猫はしっぽを振った。

「どういたしまして」と僕は言った。

「友だちが死んだの?」と猫は僕を見た。

「どうやら、そうみたいだね。けど、本当かどうかはわからないよ」と僕は公園の外を眺めた。

「疑り深いな、きみって」

「そうかな。彼らは物事を歪曲するからね。そう簡単に信用できないよ」

「きみと友だちになるには苦労しそうだ」と猫はおだやかに言った。

「そうかもしれないね。実際に、友だちはいままでできたことがなかったんだ。会って、笑顔になれるような友だちはね」

「それって、死んだって言われてた人はどうだったの? そういう友だちだったの?」

「そうだよ」と僕は簡単に言った。

「そうか。どうして、その人と会えなくなったの? そんな大事な人なのに」

「僕の知ることではないよ、そんなこと。知らないうちに、放り出されてたんだ。どうしようもなかった」

「そうかな。きみにとって大事な人なんだから、どんな手段を使ってでも会いに行く方がいいと思うよ」と猫は言った。

「死んでたら、もう会えないさ」と僕は猫を撫でるのをやめた。

「けど、死んでるって決まったわけじゃないんだろう?」と猫は僕を見る。

「うん。死んでるって決まったわけじゃないよ」と僕は口をつぐんだ。

 僕らは正面に広がる芝生を見ていた。その奥にある街並みから日常を感じ取った。そろそろ小学生たちがやってくる時間だった。猫は僕の手の中で、ゆっくりと呼吸している。僕はその黒い毛並みを静かに撫でた。

「いいかい」と僕は言った。「彼女に会えるなら、会いたいよ。彼女とは約束をしてたし、僕はその約束を果たさなくちゃいけないんだ。けど、その手段が思いつかないのさ。向こうは向こうの気が向いたときにしか、僕の相手をしてくれないんだ。今日みたいにね。彼みたいに言いたいことだけ言って、聞きたいことだけ聞いて、すぐに帰っちゃうのさ。それなのにどうやって僕が彼女に会えるっていうんだろう」

「その友だちとは、お互いに約束をしてたの?」

「うん。また教室で会おうってさ。それで別れて、それっきりなんだ」

「一度約束したなら、そのことについて真摯に取り組まないといけないよ。きみの全てを使ってしまうくらいに真摯に」と猫は言った。

「そうだね。僕としても、そうしたいよ」

「ほんとうに?」と猫は僕を見た。

「ほんとうさ」と僕も猫を見た。

「きみの全てというのは、なかなかむずかしいことだよ」

「僕なんてちっぽけなもんだから、簡単に済むよ」

「きみは彼女と会わなくちゃならない」と猫は僕から視線を外して言った。

「うん。会いたいね」

「なら、我々は友だちにならなくちゃならない」

「え?」と僕は猫を見た。僕の手の中で、猫は体を小刻みに震わせた。

「我々だったら、彼女に会える道を見つけ出せるんだ」

「どういうこと?」

「それは我々が友だちになれた時に分かるよ」と猫は僕の手から離れて、ベンチから降りた。

「君は、僕の知らないことまで、知ってるようだね」と僕は猫に言った。

「けど、きみにも同じことが言えるんだ。我々は少しずつ分かり合わなきゃならないのさ」

「それが友だちになるってことなのか」

「そうさ。まずはお互いに約束を守ることにしよう。今日と同じ時間に明日もここに来てくれると、我々は嬉しくなると思うんだ」と猫は僕を見上げた。

「いいさ。行くよ」と僕は笑った。

「じゃあ、また明日」と猫は悠々と四足で去って行った。僕はその背中が草むらの中に消えていくまで、眺めていた。


 その翌日も晴れだった。僕は約束した時間より少し早くに公園に行って、ベンチに座っていた。黒猫が草むらから顔を出した。猫らしく鳴いたあと、僕の足元にすり寄ってきた。僕はその背中を一度だけ撫でた。黒猫は、ベンチに飛び乗って僕の隣で丸くなった。

「すこし友だちに近づいたね」と猫は言った。

「そうだね。お互いに約束を守るってことはそういうことなんだろう」と僕は猫の背中をその毛並みを確かめるように撫でた。猫はしっぽを振った。

「今日も晴れた」と猫は眩しそうに太陽を見た。

「君の毛色じゃ、夏は苦労しそうだね」

「うん。我々は日陰を探すのを得意にならなきゃならないんだ。燃えちゃうからね」

「だろうね」と僕は笑った。

「これから、つらい季節になるよ」

「ウチに泊まればいいよ」と僕は言った。

「我々はまだそこまでの仲じゃないよ」と猫は僕を覗いた。

「なるほど。じゃあ、また今度誘うよ」

「そうしてくれると、嬉しい」

「あのさ、もしよかったら君の名前を教えてくれないか?」と僕は隣に座る猫に尋ねた。

「まだ名前はないよ。きみが勝手につけてくれても構わないさ」と猫は耳の裏を前足で掻いた。

「名前がないなら、ない方がいい。そのほうが自然だ」と僕は言った。

「好きにするといいよ」

「あとさ、昨日から気になってたんだけど、どうして僕に話しかける気になったの? いや、僕としてはとてもうれしいことなんだけど」

「君に近しいものを感じたからさ。それに、我々は何者なのかということを教えてくれそうだとも思ったんだ」と猫はしっぽを振った。僕はその背中を撫でながら、その言葉の意味を考えていた。

「不思議なことを言うんだね」と僕は言った。

「自分を知ることができなれば、生きたということにならない」と猫は耳を小刻みに動かした。

「なるほど。けど、自分こそがもっとも不可解な存在だ」

「だから、生きるのは難しいのさ」と猫は笑うように言った。

「もっともだ」と僕は笑った。猫は口を閉ざして、前足で頭を掻いた。その間僕は、猫のしっぽを軽くつかんだり放したりしていた。猫はまた口を開いた。

「自分のことを考え出すと、我々は袋小路にはまりこんじゃうんだ。あらゆる定義をすり抜けて行っちゃうんだね、自分ってやつは。だから、自分というのがますますわからなくなる。けど、その問いかけはどうしたっても我々の頭にこびりついてる。無傷で削り取るのが、むずかしいくらいにこびりついてるんだ」

「僕たちは何者か?」

「そう。その問いかけこそが、最高にして最後の問いかけなのさ」と猫は言った。

「なるほど」と僕は空を見上げた。空は梅雨を忘れているみたいだった。雲が形を変えながら、ゆったりと流れていった。

「きみは、自分の家族を覚えてる?」と猫は僕に聞いた。

「記憶はあてにならないよ」と僕は答えた。

「どうしてそう感じるんだい?」

「僕は一度死んだんだ。死んで、生き返った。けど、前の自分じゃない。別の自分に生まれ変わったって気分だった。なんだろう。ハードが違うんだ。乗り物が違ってるように感じる。しっくりこないんだ。いまの生活には、これは僕のではないっていう重低音がつねに響いてる。たしかに姿かたち、その他もろもろは僕自身だ。三か月前の僕自身なんだ。けど、そこにはアイデンティティーがない。これが僕自身の物語だっていう確信がないんだ。だから、なにかを思い出しても、それは僕が思い出したわけじゃなくて、別のだれかが思い出してるように感じる。いま見てる風景も、僕のモノではなくて、なんというか映画を見てる気分になることもある」

「たぶん、生き返るってことはそういうことなんだと思う。いちど死んだ自分を取り戻すには、やっぱり時間が必要だよ」と猫は言った。

「時間の問題かな。この違和感が、僕自身の答えになるかもしれない」

「きみ自身の答えか。そうだね。じゃあさ、きみは彼女が死んだって聞いたとき、どう感じた?」と猫は僕を見た。僕は目を瞑って、少し考えた。

「どうかな。びっくりしたのは確実だよ。けど、それだけじゃなかった。すごくさびしかった」

「そうだろう。それもきみ自身の答えの要素だよ」と猫はおだやかに言った。

「どうして?」

「その感情は、そのさびしさは、きみだけのものなんだから。いま、ここにいるきみにしか感じられないことなんだよ。きみは何者か。彼女の死に、さびしさを感じる人間さ。これがきみ対する一つの仮説だ」

「仮説」と僕は呟いた。

「そう。きみはこの仮説と向き合わないといけないね。だから、彼女と会わなくちゃならない」

「そして、君と友だちにならないといけない」と僕は笑った。

「そういうことだ」と猫はうなずいて、目を瞑った。「ここは暑いな」

「そうだね」と僕はまた笑った。

「べつの場所に移動すると我々は嬉しくなると思うんだけど」

「日陰に行こうか。この公園には森みたいなとこもあったし。君も知ってるだろ。あそこには屋根の付いた休憩所がある」

「うん。今度は、そこに行こう。今日はちょっと休むよ」と猫は言って、ベンチから飛び降りた。

「ああ、そうするといいよ。日陰でゆっくり休むんだ」

「また明日、同じ時間で、今度は森の中の休憩所で会おう」と猫は言い残し、草むらの方へと走り去った。よほど暑かったみたいだった。

 僕は立ち上がり、猫への贈り物を考えながらホームセンターに向かった。久しぶりのことだった。

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