第7話
それから、一ヶ月がたった。僕は一人で暮らしていた。学校に行くこともなかった。僕の居場所がそこには無さそうだったからだ。だれも来ない、だれとも話さない平穏無事な一ヶ月だった。
六月十日を過ぎたあたりに、僕は無性に猫を飼いたくなった。生来の夢だった。
金銭的には可能だった。住居環境的にはグレーだったが、どうにでもなった。いつでも飼うことができた。その日から僕は毎日ホームセンターのペットショップに赴き、ガラスの奥にいる猫たちを眺めていた。小さく、か弱そうな猫たちだった。その挙動に見惚れながら、どの猫とどうやって過ごすかと考えた。一匹一匹についての育成計画を考えもした。だが、僕はある日気が付いた。僕が居なくなったあと、彼らは生きていけるのかと。
そう。僕はあと二カ月後に死ぬのだ。
そのことに気が付いてから、僕はもうホームセンターには通わなくなった。代わりに公園に通うようになった。のら猫たちと戯れることにしたのだ。このたくましい猫たちなら、僕が突如消えても何も気にしないはずだった。こうして僕は、人好きをしない猫たちと交流を深めることにしたのだった。
六月にしては良く晴れていた日だった。昼間に僕は銀行へ行き、家族が遺した金を下ろした。生活費のためだった。その足で公園に行って、うずくまる猫たちを観察した。これは日課だった。猫たちは日陰で眠っていた。三毛猫が二匹、黒猫が一匹、黒白猫が三匹。いつものメンバーだった。そのうち僕に懐いているのは、黒猫くらいだった。
その黒猫が目を開けて僕を見た。僕は黒猫に手招きをした。黒猫は立ち上がって四足で僕の座るベンチにやってきた。僕の足にその体をなすりつけてくる。僕はその間に黒猫の背中を撫でる。肌触りがいい毛並だった。僕にまとわりつくのに飽きた黒猫はベンチの下にもぐって、丸くなった。僕はその眠りを邪魔しないように、深追いはせず撫でることをやめた。
「猫が好きなのか?」と男の声がした。僕は隣を見た。僕の隣に笹倉が座っていた。
「どうしたんですか?」と僕は聞いていた。
「いや、君のことが気になってね。今日は仕事で来たわけじゃない。プライベートな案件だよ」
「なるほど。貴重な時間を僕にかけてくれるんですね」
「そう、咬みつくなよ」と笹倉は笑った。
「僕の何が気になるというんですか? ああ、猫は好きですよ」
「私も猫が好きなんだ。だが、私は動物に嫌われててね、近寄ってこないんだ」と笹倉はまどろむ猫の群れを眺めながら言った。
「それを言いに来たんですか?」と僕は聞いた。
「いや、第一に君の記憶を確かめたかった。本当に君には三ヶ月間の記憶はなかったのか?」
「どうでもいいことです。いいですか、僕のような人間の三ヶ月なんてものなんて、何でもないんですよ。学校に行って、ご飯食べて、寝て、起きて、学校に行く。そんな日々です。あなたたちが知りたがるようなものじゃない。そんな日々を僕は過ごしてから夏休みになって、そろそろ課題をやろうかなと思った時に、つぶされたんです。ぺしゃっと、ね。それだけのことなんですよ。これって何も覚えていないのと同じじゃないですか」
「そうかもしれないな。今は、我々もきみはただ巻き込まれただけなのだということを知っている」と笹倉は僕を見ずに言った。「君がなかなか口を開かなかったのは、自分の死因を知っていたからだ、ということも知っている」
僕は笹倉を見た。彼も僕を見た。
「君は歪曲能力によって殺されてたんだ。だから我々を警戒していたのだろう?」
「そうですかね」と僕は猫たちを見た。
「君以外にも、いるんだよ。時間をさかのぼってきた人間がね。しかも君より未来から来た人間だ」
「へえ」
「その人間は君の死を知っていた。一連の不審死としてね。みな、つぶされて死んだらしい。それから九月一日に、国会議事堂が潰されたようだ。そこで奴らは声明を出して、世界に歪曲能力を公表した。そういう未来だった」
「そうなんですか」と僕は言った。
「我々は、その実行犯と思われる人物たちをすべて殲滅した。一昨日のことだ」と笹倉は言った。
「そうなんですか。それが僕と何の関わりがあるんですか?」
「おそらくだが、君はもう八月二十五日に死ぬことはなくなったということだよ。情報が更新されたのさ」
「へえ、そうですか」と僕は猫を眺めた。
「興味ないのか?」と笹倉は僕を見つめた。
「興味? 八月二十五日になったら湧いてきますよ」
「……。まあ、いいだろう。問題は、違うところにある。それは、君がどうして自分の死因を知ってたのか」と笹倉は僕を見つめたまま言った。「上のやつらは気にしてなかった。君は何らかの方法で偶然、たまたま歪曲の存在を知っていたのだろうってくらいの認識だ。たしかに知る方法はいくらでもある。だが、覚えておくことは難しいんだ。我々が情報操作しているからさ。『歪み』の目撃者だって、記憶を曖昧にさせてから解放するんだ。普通の人間で、歪曲を記憶できているのは政府関係者くらいだ。君は政府関係者ではない。これは確かだ。だが君は、歪曲を知っていた。どうしてだ?」
「……、そもそも前提が間違っているんです。警戒していたのは自分の死因を知っていたからではないんです。ただ、あなたたちを信用できなかった。それだけですよ」
「いや、ちがう。これまで君は『歪み』と歪曲を調べてたのさ」
「どうして?」
「君の両親の死に関係があるからだ」
はじめて僕はまともに笹倉の瞳を覗いた。揺らぐことのない眼だった。
「あなたは、どうかしてる」と僕は言った。
「君のいない間、君の家を漁った。君のパソコンから歪曲に関連しそうな情報が出てきたよ。大量にね。私は君がなぜそんなことを調べているのか気になった。君が独り暮らししている理由が関係あるんじゃないか、と考えた。つまり君の両親が死んだ理由だ。公的な情報によると、交通事故で死んだようだった。私はその情報を洗った。その事故は夜の街中で起こった。そして道路の真ん中で、スリップし横転した、とされている。目撃者はいなかったらしい。奇妙だと思ったよ。なぜスリップしたのかってね。しかもそれで済まされてたんだ。私は本部の改竄履歴をさかのぼった。あったんだよ、君の両親の事故が。その事故は正統派の連中が引き起こしたようだった。歪曲を使って、停車中の車を大破させたんだ。なぜそんなことをしたのかというと、世間に自分の力を誇示したかったからと供述している。目立ちたがり屋の子どもみたいなやつらなんだ。私はそこですべてに気が付いた。そいつは停車中の車を襲った。なぜ、停車していたのか。そしてなぜ、君が両親の事故の真相を疑うようになったのか。そうだ。君はそのとき両親と電話をしていたんだ。だから君ははじめから両親が事故で死んだのだとは思っていなかった。なんらかの超常的な理由がそこに関わったのだと確信してたんだ」と言って、笹倉はため息をついた。「これが君が歪曲能力を知っていた理由だ。違うか?」
僕は目を瞑って、首を横に振った。
「あなたはどうかしてる」と僕は声を震わせて言った。「ぜんぜん、間違ってる」
「その時の通話記録も残ってる」と笹倉は言った。
「ぜんぜん間違ってる、本当のことじゃない!」と僕は怒鳴り、ベンチから立ち上がった。猫たちが駆けていく音がした。
「どうしたんだ?」と笹倉は驚いたように僕を見上げた。
「僕が知りたいのは、真実なんです。そういった誰かにひかれたレールから導かれるような安心じゃない」
「どういうことだ? 何を言っている?」と笹倉は眉間にしわを寄せた。
「あなたは、どうして記憶を信用できるんですか? 僕には全く分からない。記憶なんて、いかようにも料理できるんです。あなただってそれを自慢してたじゃないですか。どうしてそれが自分に当てはまらないと思ってるんですか?」
「私が言ってるのは個人の記憶ではないんだ。集団の記憶、つまり記録だ。だが、君のその態度、」と笹倉は言い淀み、腕を組んで目を瞑った。僕は肩で息をしながら、その様子を見ていた。
「たしかに、少し考える必要があるな。調べることができた。私はここで、失礼しよう。邪魔したな」と笹倉は立ち上がって、僕から離れていった。だが、すぐに立ち止まり、振り返って僕を見た。
「一番、大切なことを言い忘れていた」と笹倉は硬い表情で言った。
「なんですか?」
「前島が死んだ。一週間前のことだ。任務中、正統派の連中に襲撃された」
僕は言葉を失ったまま、笹倉を見た。
「君に、会いたがってたよ。まあ、いい。過ぎたことだ。君にはどうしようもないことだったし、私にもどうしようもないことだった。どうか、前島のために祈ってくれ。じゃあな」と笹倉は言い残して、消え去った。
僕は数十分ほどその場に立ち尽くしていた。現実に戻ってこれたのは、猫の鳴き声を聞いたからだった。僕は、いつの間にかベンチに座っていた黒猫を見た。黒猫はふたたび鳴いて、僕を見つめた。僕は彼の隣に座って、その背を撫でた。彼は逃げることなく、僕の手の中にいた。
「苦しいよ」と僕は呟いた。
「君は間違ってないよ」と猫は言った。
僕は手を止めて、猫を見た。彼も金色に光る瞳で僕を見ていた。
「君は、正しいことをしてるんだ」と猫が口を動かして、そう言った。
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