第6話

 見知らぬ少女に手を引かれ、僕は森の中を歩いていた。月の光しか僕の行く先を示すものはなかった。僕は自分の右手首を見る。腕時計は外されていた。少女が外したのだった。彼女が触れただけで、腕時計は崩れ去った。だから、こうして僕は麻酔針に刺されることなく外を歩いている。

「君はどこに行くつもりなんだ?」と僕は少女に聞いた。

「面白いもの見せてあげる。みんなには秘密だよ」と少女は振り向かずに言った。

 僕はため息をつく。

 土の踏まれる音、木々の呼吸、野鳥のささやき、虫たちのうごめき。少女に連れて行かれているとき、僕の周りを通り過ぎて行ったものだ。それらは次第に消えていき、僕らは明らかに静かなところへと近づいていた。そこはだれも寄り付かない場所だった。森はそこで途絶え、その先には荒野が広がっていた。僕らはそこにたどり着いた。

 その荒野では二つの影が重なり合っていた。月だけがそれを見ていた。他の生物はその影たちとは関わりを決して持ちたくないようだった。

「あれが、『歪み』」と少女は僕をかがませて、耳にささやいてきた。「どう? なにしてると思う?」

「わからないな。よく見えないよ」

「よく見て。じっと見つめて」と少女は熱っぽく僕の耳にささやきかけてきた。

 僕は二つの影を見つめた。同時にどうしようもない嫌悪感が腹の底から湧いてきた。僕はそれでも二つの影を見つめた。影は人の形をしていた。影の周囲は歪んでいるように見えた。影たちは互いに組み合っていた。抱き着き、突き放し、掴み取り、絡み合っている。一つの影が唐突に棒立ちになった。他の影は、その影に巻きつき、その首筋と思われるところにその口と思われるところを押し当てた。棒立ちになったほうの影は、膝から崩れて、地面に倒れ伏した。もう一つの影は馬乗りになり、ひたすらにその口と思われる部分を倒れた影の全身に押し当てていた。

「共食い」と僕は呟いた。

「そうなの」と少女はくすくすと笑った。

 倒れた影はその姿を消していき、被さる影はその形を肥大化させていった。最後には丸々と太った影だけが残った。その影は立ち上がり、体を小刻みに震わせた。音はしない。

「さあ、よく見て」と少女は僕の耳にその唇を近づけて言った。

 月がその影を照らしていた。影は宙に浮き、その形を次々と変えていった。丸くなり、平らになり、らせんをえがき、そしてまた人の形になった。だが、今度は実体を持った人間だった。その裸の成人男性は、ぼんやりとした面持ちで月を見上げていた。それから、何かに呼ばれたかのように顔を傾けて、その方向へと歩き出した。歩くその人間には影がなかった。

「どう? 感動した?」と少女はその男が森の奥へと消えていくのを見届けてから言った。

「わからない。何がどうなっているんだ?」

「人間が生まれたのよ」と少女はくすくすと笑った。

「あれが人間だって? 影すら持っていなかった」

「そうよ、よく見てる。完全になるにはこれからもう一回、同じレベルの『歪み』を食べないといけないの。そうすると影ができる」

「なんで知ってるんだ?」

「あたしたちだって、ああいうふうに生まれてきたのよ」と少女は僕の瞳をじっと射抜いた。

「訳が分からない。君は何を言っているんだ?」と僕はその暗い瞳を覗き返した。

「わからないわけがないわ。あなたはもう気が付いてるはずなの」と少女は僕の首に腕を巻きつけてきた。

「何に、気が付いてるんだ?」

「どうして、そんなに怯えてるの?」と少女は僕の額に自分の額を押し付けて言った。「ああ、こうやったらお互いのことがわかればいいのにね」

 僕らは数分ほど互いの額を合わせていた。少女は目を開けて、くすくすと笑ってから僕を放した。

「ねえ、次はどこに行きたい?」と少女は僕の手を握って言った。

「どこにも。もう僕には帰る場所もなさそうなんだ」

「あたしが帰る場所になりましょうか?」と少女はじっと僕を見た。

「僕は君を知らないんだ。何一つ知らない。けど、君が僕に君の何かを教えてくれたとしても、僕は君を知らないままだろう。僕は君のことを知ることは出来ない」

「そうかしら。あたしたちはもっともっと仲良くなれるの。そうね、とにかくあなたのおうちに連れて行ってあげる」と少女は言って僕の右手をつかんだ。


 暗闇が僕を襲った。


 視界を取り戻した僕は、自宅に帰ってきていることに気が付いた。少女は隣にいた。その表情に困惑が浮かんでいた。その視線の先には一人掛け用のソファがあった。そのソファには一人の男が座っていた。笹倉とよく似た服装をしていた。その頬に大きな傷を持つ男は腕時計を見て、呟いた。

「予定通りだ。我々を欺けると思うべきではないな」

「許さないわ」と少女は震える声で言った。僕の手を強く握っていた。

「家に帰る時間だ。君はそのおもちゃでもう十分遊んだろう。139号、おとなしく私に従いなさい」と男は立ち上がって、少女を睨んだ。

「あたしと、戦う気?」と少女はその睨みに答えるように笑みを浮かべていた。

「戦う気はない。お前のような非常に貴重な検体を壊すことは出来ないからな」と男は腕を上げた。同時に少女の前で何かが大きく弾けた。

「触らないで!」と少女は叫んだ。

「抵抗するなら、ほかの検体を殺す。君のお気に入りでもいい。その隣にいる男でもいい」と男は言って、姿を消した。そう思っていたら、僕の隣にいて、僕の首筋にナイフを当てていた。

「動くな」と頬に傷がある男は僕に言った。「もう君にはこれくらいの価値しかない」

「やめて!」と少女は叫び、僕を引っ張ろうとした。だが、僕は動けなかった。動けば頸動脈が切断されるからだった。

「君が私に従うなら、そうしよう。139号、五秒以内に帰還しろ。そうしなければこの男の首を撥ねる」

 少女は僕を見た。その眼はひどく潤んでいた。

「勝手にしてくれ」と僕が言った時には、少女はいなくなっていた。僕の咽喉元にのしかかるナイフはまだあった。

「君はもう自由だ。君に価値はなかったことが判明した」と男は言って、ナイフを下ろし僕から離れた。「ここで殺さなくてもどのみち君は三か月後に死ぬ。素直に生きろ」

 男の息遣いが消えた。

 僕は一人部屋に取り残された。自分が土足で家に上がっていたことに、数分後気が付いた。僕は靴を脱ぎ、泥にまみれたフローリングを掃除した。それから風呂に入り、ベッドの中に入って眠りについた。

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