第2話 彼女襲来

「ねぇ、起きて……。朝だよー?」


 ……瞼が重い。目を開くのも億劫だ。


「新しい朝が、来たんだよー」


 そうか、昨日はそのままレスしまくって。

 いつの間にか明るくなってた外にびびって、ベッドにダイブしたんだっけ。


「ぐっ、おぇ」


 頭がグラグラする。車酔いのような、波のある気持ち悪さだ。

 ザ・寝不足の日の朝の洗礼って感じだな。大人が言う二日酔いもこんな感じなんだろうか。


「うぅ、ぐ」


 寝不足からくる三半規管の乱れだろうか。せり上がってくる吐き気を喉に力を込めてどうにか耐える。

 まるで何かにずしんと腹を圧し潰されているかのようだ。


「あ、起きた! ご飯にする? 朝シャンする? それともワ・タ・シ?」


 このまま起きても気持ち悪さは消えないだろう。それならば、今の俺に出来ることとはただひとつ。


「二度寝……」


 そもそも睡眠時間が足りなさすぎたんだ。

 もう一度寝直せば、この不快な症状もすっかり良くなることだろう。


「そっか、きぃくんは眠れる王子様なんだね!」


 王子なんてガラじゃない。


「なわけねぇだろ」


 ってちょっと待て。さも当たり前のように喋っていたが、ここは俺の部屋だし鍵も掛けていた。


 ……俺は誰と話してる?


 その事実が寒気に変わり全身に伝播して、ぞわっと俺の身を震わせた。

 恐る恐る目を開ける。すると、親の顔より見た幼馴染みが、俺の上に跨ってこちらを見下ろし笑っていた。


「ッ! ゲホッ、な、いろは?!」


 変な空気が気管に入り、盛大にき込んだ。


 腹にずしんときてた重みは、物理的に押さえ込まれていたからか。


「え、二度寝じゃなくて私にするの? しょうがないにゃぁ~」


 猫が背伸びをするかのように。いろははぺたんと体を擦り寄せて、俺の首元に顔をうずめて満足そうに喉を鳴らした。


「んー、ちょっとしょっぱい匂いするー」


「夏なんだからしょうがないだろ、ってそうじゃない!」


 どこでどうしてこうなった? なんでいろはが抱きついている?


 俺の混乱なんてどこ吹く風と、充分にぐりぐりを堪能したいろははゆっくりと体を起こし、今度は至近距離からこちらを覗き込んできた。


「な、なんだよ」


 はらりと左右に零れた彼女の黒の長髪が、まるでカーテンのようなヴェールになって視界を塞ぐ。


 完全に抑え込まれ、抵抗もままならない俺の目にはもういろはしか映らない。潤んだ瞳は熱に浮かされているようで、今か今かとむさぼらんと揺れていた。


「ねぇ、きぃ君」


 こらえ切れずに飲み込んだ生唾が、ひどく大きく耳につく。


「だから、なんだよ」


 ほんの一瞬とも、はたまた永劫ともつかない時間を見つめ合う。

 彼女の唇からチロリと覗いた舌が右から左に滑らせられて、ぷっくりとした唇に妖艶さが添えられる。

 心臓がドクドクと早鐘を打っている。顔を背けることも許されず、その唇に目を釘付けにされていた。


「い、いろはさん?」


 そうしてまた数秒とも数時間ともつかない時間を見つめ合い、ぽろりと生み落とされた一言に、今度こそ、時が止まった。


「昨晩は、お楽しみでしたね」


 ……なん、だと。


「あれれー? 新しい朝が来たのに希望がないよ~?」


 血の気がサァと引いていく。


 完全に思考の領域外を狙われた。その口撃に俺は、鳩が豆鉄砲を食らったような間抜けなづらを浮かべていたに違いない。


 その証拠に、


「タマの耳ぃ~は地獄耳ぃ~」


 鼻歌まじりにいろははぱっと体を起こすと上機嫌に笑ってみせた。


「あ、あの、いろはさん?」


 けれど俺は見逃してなどいなかった。彼女の目の奥が依然として、静かな炎を湛えていたことを。


「うん? どうしたのきぃ君?」


 まだだ……。劣勢に立たされてはいるが、まだ希望が途絶えたわけじゃない。


「どの辺りから耳にされておりました?」


 聞かれ始めた場所によっては、まだしも救いがある筈だ。


「俺と俺の幼馴染の話を聞いてくれ」


「なっ?!」


 最初からかよ!


「タマの耳ぃ~は地獄耳ぃ~」


 そうだ、いろははアンドロイドだったんだ。

 その耳が、超指向性集音鼓膜だってことをどうして忘れていたんだ俺は。


 狙った向きの音だけをピンポイントで拾い上げ、人間の何倍も耳が良いことなんて最初から気づいていてしかるべきことじゃないか。


 この油断もド忘れもなにもかも、新学期が始まるダルさのせいだ。


「流石に透視はできないけれど、その口ぶりで全部分かったよ」


 ダークウェブ掲示板[現在進行系修羅場を語るスレ]で自由を謳歌していたら、ずっといろはの手のひらの上で踊らされていた。


「私を誰だか知ってるでしょう? きぃ君の、彼女だよっ」


 さも当然であるかのように、なにもかもを把握済みってか?


 ということは、夜の内に突撃がなかったのも楔を打ち込む最高のタイミングを見計らっていたんだきっと。


 だがこのままでは終われない。ぽっきり折られた心根を、いいようにされてばかりでいられるか、という気合で応急処置して言い返す。


「ただし彼女ソイツは自称だけどな!」


 いくら打ちのめされようが、そこだけは譲れない。

 いろははただの幼馴染だ。彼女にした覚えなんかない。


「こら、恭介っ! そんなこと言っちゃいけません!」


「母さん!?」


 いつからそこにいたんだろうか、開けっ放しのドアの前に母さんが立っている。


「起きてこないから来てみたら……。恭介、男の子が好きな子にちょっかいを出したくなるのも分かるけど、いろはちゃんはガールフレンドよ? その言い方はあんまりじゃない」


「お母様!」


「いろはちゃんっ」


 ひしっ、と感極まったとばかりに抱き合ういろはと我がお母上。


「ねぇ恭介? 学校一緒、同い年で同じクラスの隣席。お隣さんで、朝、起こしに来てくれる女の子、ってなあんだ?」


 そんな相手はいつの世だって、こう呼ぶしかないだろう。


「腐れ縁」


 まさに俺といろはの関係を示す言葉に相応しい。


「もう、我が息子ながら情けない。ごめんなさいね、いろはちゃん」


「大丈夫です、私はそんなきぃ君もイケる口ですっ」


「まあ! 嬉しいわ、いろはちゃんっ」


 ひしっ。


 ……俺は一体なにを見せられているんだろうか。


「恭介も見習いなさい。いろはちゃんに免じて、答えを教えてあげるから!」


 いろはの背中側に回った母さんは、彼女の肩に手を置いて一歩いろはを押し出した。真正面から向き合う形になると、照れくさそうに頬を染めるいろははその自慢の長髪に、何度も何度も手櫛を通す。


いとしの彼女。それがたったひとつのえた答えよ」

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