第4話 Drift

 ネット上のともだち。翼は、にべもなくこう言った。「山登りと洒落込もう」と。その先には、死が待っていたというのに。聞いて、僕はただ、愕然とした。

 僕の人生史上、これほど陰鬱な山登りは二つとない(そもそも、ハイキング自体初めての経験である)。

 ずっと暗い心持ちだった。確かに翼は得体が知れないが、かと言ってゲームでの人柄を考慮しないわけにもいかなかった。だから、逃げるに逃げられず、彼女に唯々諾々として追従するしかなかった。

 一歩一歩、山道を踏みしめる度に、死に近づいていくような気がした。なぜだか、美幸や母さんに会いたくてたまらなかった。


 自殺。自殺者。僕。芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成……。服毒自殺。入水自殺。割腹自殺。ガス自殺。なんだか、寒気がした。いや、単に、怖じ気づいているだけなのかもしれない。とくとくと、心臓の音が可愛らしい。こんなにも早く、死ぬのか。

 でも僕は、迷惑だろ? 

 迷惑なまま死んで。それすら迷惑で。あとは忘れられる。左様なら。


「もしもし。ぼっとしてないでよ」

 ふいに翼から声をかけられた。

 どうやら、ぼんやりしていたようだ。ところが、何事かを熟考していた気もして、妙な感じがした。

「ああ、ゴメン」

「家族にはなんて?」

 うっかり敬語を使い忘れたが、それが彼女にとって望ましいことであったのを思い出した。

「勿論何も告げずに来た。だって、これから自殺しに行くだなんて伝えたら、絶対止められるだろう」

 美幸の悲痛な面持ちが脳裏をよぎった。

「本当に良いの。君はそれに満足してる?」

「分からない」

 しかし、目の前にあったのは、翼の怪訝な表情であった。すると翼が、次のような奇特な提案をしてきた。

「電話で話したら」

「通じるのかよ、こんな山中で。大体なんて言えば? 今から死ぬと?」

「まさか。ほんの挨拶よ」

 挨拶と言った。つまり、最期の挨拶。

 気付けば僕は、尻ポケットにあるスマートフォンに手をやっていた。もしかしたら彼女は、僕の意を汲んでくれたのかもしれなかった。けれど、僕は恥ずかしいことに、肉親のいない彼女が羨ましく思えた。楽だと決めつけた。きっとそんなことないのに。

 どこまで気が回るのか、翼は通話を始める僕から距離をとった。

 コールが3つ鳴って、妹の声が応答した。

「もしもし。お兄ちゃん? あの、朝のこと、ホントにゴメン。いま、どこにいるの」

 まったく美幸は底抜けの善人だな。父親や兄に似なくて重畳だ。

「心配無用だよ。実は、今日出掛けたのはハイキングのためで、今は友達といる」

 無論、真っ赤な嘘だ。嘘つきが泥棒の皮切りであるなら、まさに僕は新米の泥棒を名乗って差し支えないだろう。しかし、やむを得ぬ必要悪なのだ。気疲れした妹に追い討ちをかけるのは人間のすることではない。道徳心が、そう語っている。

「母さんには、夕ご飯はいらないって言っておいてくれ」

「分かった。それじゃあ」

「うん。ありがとう。美幸」

 美幸に対する感謝の念が込み上げて、うっかり言葉に出していた。けれども後悔はなかった。むしろ、もっと伝えたい。僕の妹に生まれてくれてありがとう。僕と向き合ってくれてありがとう。僕の土性骨を叩き直してくれてありがとう。ほんとうに、ほんとうに、ありがとう。

 通話を切ると、無遠慮な音が断続的に流れた。スマートフォンの電源を切る。残ったのは、丸裸になった僕の心と、寂寞とした山林の空気だけだった。

「終わった?」

 翼が訊いた。僕はそれに頷いて答えた。

「決心は……それでもつかないよね?」

「そんな訳じゃ」

 図星をつかれた。翼は、僕の死にたくないのに勘づいていたのだ。

「わかるよ。人間ってさ。希望を感じることのできる生き物だから、どうしても目移りするんだよね」

「目移り?」

「そう。まだ足掻けるんじゃないか。まだ生きてても良いんじゃないか。絶望の中で、それを感じる」

 なるほど。だったら翼が見せた先程の配慮は、些かの希望の現れなのだろうか。

「生きていたいの?」

「わからない。けど、幸せになりたいの」

 幸せ。そんなものが、死出の旅の先に、あるのだろうか。生きることとは、死ぬこととはなんだろう。そんな形而上学的な事柄について、考えていた。

 鬱々とした様子の翼は物言わずに前へ進んだので、僕も黙ってついていった。その途中、秋の自然の匂いが、鼻に心地よかった。

  

 しばらく歩くと、自分の影が木陰に塗りつぶされた。辺りには、僕らよりずっと背の高い広葉樹が立ち並んでいた。大木が張り出す根のせいで、足場の起伏が高かった。数ある樹木のなかのひとつを注意深く見ると、樹幹に不気味な爪痕が残されていた。

「これ、熊のだ」

「大丈夫。大抵の熊は人間を襲わない。むしろおびえて隠れているくらい。」

「けど、田舎の人が熊に襲われたってしょっちゅうニュースで報道されてるだろ。熊は人間を襲う凶暴な動物。常識だ。」

「それは若い熊や学習能力の低い熊よ」

「……へえ、詳しいんだね」

「たまたまね」

 翼がやっと口を開いたと思うと、出てきたのは専門的な知識ばかりだった。僕は、ここへ来るまでに古びた標識があったのを思い出したが、あれは熊の立て札だろう。そういえば、車が数台とまっていたが、あれは同志のものなのだろうか。

「なら、安心か」

 僕はそう呟いたが、どうせなら熊にでも殺して貰うべきなのかもしれないと思った。

「そんなことより、足がパンパンだ」

 弱音を吐く僕を尻目に翼はひたむきに歩く。さほど疲れていないようだった。もしかすると、学校では運動部にでも入っているのかもしれない。

「我慢して。ほら、もうすぐそこ」

 そう言って彼女は前方を指差した。その先には、奇妙な地形が広がっていた。

 そこでようやく、僕は腹をくくることにした。


 ……絶対、死んでやるものか。

 観賞客でも、後悔のない選択はしていいはずだ。

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