第3話 僕はアリストテレスじゃないから

 翼は女性だった。僕にとってそれは、驚天動地の事実だったが、翼はてんでどうでもいいらしく、その事に一切触れなかった。

「それで、りゅうじまくん」

 龍島とはゲームにおける僕の名前だ。由来は本名のアナグラムだ。

「ああ、その、紹介が遅れましたね。僕の本名は新島龍一と言います」

 ヘンテコな名前では気恥ずかしいので、僕はためらわず本名を開示した。

「じゃあ、新島くん。君って、本当に死にたい?」

 翼は周囲に憚ることもなく飄々と言った。僕は、誰かに聞かれていないか危惧し、辺りを見回したが、誰の耳にも入っていないようだった。確認したところで、返答した。

「ええ。僕は、消えたいです」

「ふうん」

 訊いておいてさして興味のないような素振りを見せる翼に、僕は辟易した。だが、ひとつだけ気になったことがあったので、潔く開口した。

「翼……さんは、どうしていきなり決意なさったんですか」

「自殺の?」

「はい」

「その理由?」

「ええ」

「敬語やめてよ」

「ですが」

「ほらまた」

 実質初対面の人に畏まることの何が不服なのだろう。翼は勿体ぶるようにして返答逃れしようとするが、正直、焦れったかった。

「天涯孤独ではないんだけど、身内が皆死んじゃってさ。まさかだよね」

 その彼女の答えは、先程の焦れったさを立ち所に払拭していった。同時に、僕はほんの少しの背徳感を覚えた。

「ごめんなさい。気遣いのない、無粋な質問でした」

「良いんだよ。別に。どうせ私だって後を追うわけだから」

 そう言った翼の表情は、笑ってはいたが、それはとても、悲しげな笑みだった。僕はその笑みに得心がいった。これほどの悲痛さを噛み締めているのならば、なるほどあの手紙を送れたっておかしくない。あの手紙は狂気じみていた。いわば悩乱の権化だった。苦悩の具現だった。今の彼女も、それに比べて遜色のないくらいの狂人に思えた。

 居心地が悪かった。翼はそんな僕の気持ちをわかってか、ばつの悪そうな顔をしていた。僕なんかますます気まずかった。客の声。車の音。胸の動悸。全ての喧騒に、僕は救われた。もしもここが物静かな店だったら、きっと僕は彼女を慮りもせずにあれやこれやと失言を言い放っていたに違いなかったからである。

 なんとなく、テーブルの脇に置いてある紙ナプキンを取ってそれを見つめていた。だからといって気が楽になる訳でもなかった。

 いつまでたっても、店員はオーダーを聞きに来なかった。席に案内するだけして忘れてしまったのだろうか。オープンカフェ以外は入ったことがないので、よくわからない。

 雑念、そればかりを意識した。また、僕はけして翼と目を合わせようとしなかった。そんな時間が続いた。或いは、さほど経過していないのかもしれない。

 翼に何と言おうか。どう別の話題を切り出すか。そんなことは考えてすらいなかった。彼女の気持ちなどさっぱりわからないからだ。みんなそうだ。偉い学者でもなければ、エスパーでもない。だから、いっそ考えずにいた方がスッキリする。

「注文、どうする? 私のと一緒にする?」

 再度、話の口火を切ったのは、はたして翼だった。その声は場違いにも溌剌としていた。

「僕は、別に」

「そう。それならそれでいいけど、これが飲み納めになると思うから、考慮した方がいいと思う」

 深く首肯して、忠告をシビアに受け止めた。確かに重大な問題だったからだ。もう、後がない。そのことを、彼女はとっくに理解していた。こちらとは違い、向こうは並々ならぬ覚悟があるのだと悟った。おそらく同年ぐらいだろう娘が、死を覚悟している。その薄幸の娘は、今日、僕と死ぬのだ。

 あってはならない、排他的な向こう見ず。自殺。僕はそれを、とつおいつ考えてみる。でも、本当はわかってる。僕は死にたくないのだ。こんなのは、誤ったヒロイズムに過ぎないのだ。だから、生きる意味さえあればこんなこと。

  

 会計は僕がもった。今更お金なんて持っていても邪魔になるので、なるべく減らすよう努めた結果である。

「ありがと」

 店先まで出たところで、翼が言った。

「どういたしまして」

「さ、山登りと洒落込むよ」

 どきっとした。山登りの果てには死があった。しかし、僕は彼女の隠喩に驚いた訳ではない。そしてまた、洒落込むといって、気が利いていないだとか、洒落っ気がないだとか、そう突っ込むつもりも毛頭なかった。ただ、僕には、翼の笑顔が怖かった。

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