第31話 さよならの始まり


 自動ドアをくぐった私の目に飛び込んできたのは、窓際の席で思い詰めたように携帯を見つめている山根の姿だった。


「申し訳ありません。わざわざ呼びつけてしまって」


 山根は私の姿を認めると、どこか疲れたような表情で詫びた。


「龍造先生に、何かあったんですか?」


「ええ。数日前に先生からメールが来たんですが、ちょっと気になる内容だったんです」


「気になる内容?」


「はい。「人工の影を本物の影に戻す最後のキーが見つかりそうだ」と書かれていました」


「本当に?」


「ところが続きがあって、手掛かりは蔭山さん、あなたの身体の中にあるというのです」


「私の身体……」


「具体的なことはあなたのお祖父さまが研究室のどこかに記録してあり、何らかの手順を踏めばデータを取りだすことができる……ということのようです」


「そんな話、祖父からも先生からも聞いたことがないわ」


「だろうと思いました。この件に関して先生は、秘密のうちに調べていたようです」


「どういうこと?」


「このメールを最後に、先生と連絡が取れなくなりました。もしかしたら叢雲先生は、お祖父さまの研究室に自ら出向き、データを確かめようとしているんじゃないでしょうか」


「祖父の研究室に?」


 私の脳裏に、「終末獣」に破壊された祖父の「離れ」が蘇った。


「僕は明日にでも、お祖父さまの研究室を訪ねてみるつもりです。あなたはどうします?」


 私は一瞬、返答に窮した。明日は土曜だ。今の私に曜日は関係ないが、それでも叔母のことなどを考えると、同行すべきなのかもしれないと思った。


「わかりました。私も行きます」


「いいんですか?……では車を用意して明日の昼頃、お宅に伺います」


 山根の興奮した口調に、私はどこか同調できずにいた。本来なら「影」の話は私にとっても大きな関心事なのだが、それよりも今の私には、身近な人たちをどうすれば戦いに巻きこまずに済むかの方が切実な問題なのだった。


                ※


 ――陽向。聞こえるか、陽向。


 深いまどろみの底から私の意識を引きずりだしたのは、祖父の「声」だった。


 ――お祖父ちゃん?


 ――行くのだな、私の研究室に。


 ――だってそこに私の秘密があるんでしょ?知りたいの、私。


 ――むろん、お前には知る権利がある。だが、今はまだ早い。


 ――どうして?自分のことなのに。なぜ私の「影」だけが盗まれるの?


 ――それもこれもすべて、いずれわかる。待つのだ、陽向。


 ――どうしてなの?……戦いばかりでもう、心が壊れそう。


 ――すまぬ陽向。すべては私とお前の父が原因なのだ……


 私はまどろみの縁で何度も「どうして」と繰り返した。やがて祖父の詫びる声だけが闇にこだまし、私は再び深い眠りへと戻っていった。


                 ※



 ――遅いな。


 携帯の時計を見ながら、私は口の中で呟いた。もう午後二時を回ってしまった。

 山根の言葉通り「昼頃」迎えに来るというのなら、もうそろそろ来てもいいはずだ。


 電話も通じず、メールの返事も来ない、そんな状態に私は私は得体の知れない不安を抱き始めていた。


 ――こんな時、いったい誰に助けを求めたらいいんだろう。


 目的地が遠い分、私の焦りは余計に膨らんでいった。行き場のない不安が頂点に達した、その時だった。突然、ドアのチャイムが鳴った。


「はい、どちら様でしょう」


「叢雲です。近くまで来たので寄ってみました」


 インターフォン越しに聞こえてきたのは、一明の声だった。


「陽向ちゃん、帰り際に何だか悩んでるような顔をしてたでしょ、ちょっと気になって」


 一明の声に続いて円の声が聞こえてきた瞬間、私の感情のダムが決壊した。


「円さん、困ったことになったの。お祖父ちゃんの研究所に行った人たちが……」


「えっ、なに?どうかしたの、陽向ちゃん」


 ドアを開けると、困惑顔の二人が姿を現した。私は堪え切れず、早口で事情を告げた。


「よし、僕らと車で追いかけよう。それでいいかい?」


 一明の言葉に私は泣きじゃくりながら頷いていた。私はまた誰かを、大切な人たちを巻きこんでしまうのかもしれない。……そうだ、こんなことはもう、これで最後にしよう。


 ――ごめんね、みんな。今日の騒ぎが無事、片付いたら私はこの町から姿を消します。


 心配そうに顔を見合わせている二人の傍で身支度を整えながら、私はひそかに旅立ちの決意を胸に刻んでいた。


              〈第三十二回に続く〉

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