第30話 涙に別れを告げて


 円さんから「うちに来ない?」と誘いがあったのは、私が町を出る準備をし始めた翌日だった。


「なんか、この間のばたばたで連絡しそびれちゃったけど、どうしてるかずっと旦那と気にしてたの。良かったらご飯でも食べにいらっしゃいよ」


 私はこれから多くの人たちと縁を切ろうとしていることも忘れ、ごく自然に「じゃあ、お言葉に甘えて」と答えていた。思いがけぬ誘いに、張りつめていた気持ちがぷつりと切れてしまったのかもしれない。


 叢雲夫妻の住むマンションは、山の手の閑静な住宅地に建っていた。私がチャイムを鳴らすと、男性の声で「どうぞ」と返答があった。中に入ると、エプロン姿の円とラフな部屋着の男性が待っていた。


「でも元気そうで安心したわ。あんなびっくりするような事件があったから……お祖父さまのお加減はどう?」


「……あまり変わりないです」


「そう……あ、でも、今日はのんびりしていってね」


 円の柔らかな口調にふいに私の中で何かが壊れ、気が付くと私は両手に顔をうずめて泣いていた。母の前でさえ決して泣くことがなかった私が、久しぶりに会った他人の家で号泣するという事が自分でも不思議だった。


「蔭山さん……親父から少し聞いてたけど、ずっと緊張し続けていたんだね」


 円の夫である、叢雲一明かずあきが言った。私は絶え間なくやってくる嗚咽を呑み下しながら、小さく頷いた。


 味方はたくさんいるけど、私と同じ立場の人はいない。どんなに暖かい言葉をかけられても、私にはその好意に報いる戦い方はできないのだ。


「そうだ、久しぶりに親父も呼ぼうか。いくら研究好きでもたまには里に出ないと本物の仙人になっちまうからな」


 一明はそう言うと、携帯を取り出し操作を始めた。やがて、表示画面を眺めていた一明が、怪訝そうな表情で円の方を見た。


「おかしいな、親父の番号が変わってるみたいだ」


「嘘、昨日、かけたばかりじゃない」


「ああ。番号を変えたら伝えてくるはずだし……おかしいな」


「あの、私がかけてみましょうか」


 私は思わず、そう申し出ていた。いつの間にか涙は止まっていた。


「やってみてくれる?」


 私は頷くと携帯を取り出し、龍造の番号を入力した。だが、私も一明同様、一向に繋がらないまま、発信は途絶えた。


「だめみたいです」


「ふうむ、仕方ないな。……まあ、そのうちかけてくるだろう。とりあえず今日は僕らだけで過ごすとしよう」


 一明が取りなし、漂いかけた不穏な空気は慌ただしい歓迎の準備にかき消されていった。


 飲み物のグラスやピザが並んでゆくテーブルを眺めながら、私はふと、昨日までは感じなかった余裕のような物がこみ上げてくるのを感じた。


 ――何も逃げるようにみんなの元を去る必要はないのかもしれない。


 唐突にそう、思いかけたその時だった。携帯が鳴り、私の胸は何かの予感に再びぎゅっと締めつけられた。


「もしもし」


「蔭山さん?僕です、山根です。今、いいかな?」


「はい、大丈夫です」


「実は叢雲先生のことでちょっと、話したいことがあるんだ」


「なんですって?」


 思いがけず大きな声が出て、私は反射的にキッチンで調理をしている円たちの方を盗み見た。


「昨日から先生と連絡が取れなくってるんだけど、どうも以前から漏らしていた「ある場所」に行っているんじゃないかと思うんだ」


「ある場所って、どこです?」


「詳しいことは電話じゃ話しづらいから、「樹麻」に来てもらえないかな?」


「はい、わかりました」


 私は待ち合わせの時刻を確かめると、山根との通話を終えた。円がデザートの乗った皿をにこにこしながら運んできても、いったん速まった私の鼓動は、いっこうに治まってはくれなかった。


 ――龍造先生……いったい、何があったの?


              〈第三十一回に続く〉

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